小林秀雄を私に教えてくれたのは大学時代の級友である。夏目漱石の記事で彼に触れたが、A君としておこう。彼とは1年生の語学のクラスで一緒になった。すぐに意気投合し、よく学食や喫茶店や焼き鳥屋に行って文学論を交わした。自宅通学の彼は時には私の下宿に泊まり、ここでも文学や哲学について話し合った。

 A君は私よりもはるかに本を読んでいた。文学にとどまらず哲学や美術やクラシック音楽にも詳しかった。彼と付き合うことにより私は影響を受けた。とりわけ彼が私に薦めたのは夏目漱石と小林秀雄だった。

 私は大学入学後、過度の受験勉強や、第一志望の大学に落ちたことや、当時流行っていた学生運動に首を突っ込んだことなどから、五月病のような精神状態になり、夏休みが明けると、大学に行かなくなった。自分という人間が分からなくなり、自信を失い、自分を見失った。その頃を顧みると、もがいていたように思う。自分とは何者か。その答えを探して、皿洗いや甘栗屋でアルバイトをしたりし、それで得た金で映画を見たり、本を購入したりした。

 アルバイトに明け暮れていたが、読書は続けていた。関心の対象は文学を中心に哲学や政治や歴史など様々な本をひもといた。

 その一つに小林秀雄の『Xへの手紙』があった。それまでA君から小林を薦められたのにもかかわらず読んでいなかった。当時、私は左翼に関心があったせいか、小林秀雄に偏見を抱いていた。彼の名は知っていたが、保守的傾向の強い文芸評論家のような印象を抱いていた。また、彼の本が難解そうに思え、関心がわかなかった。

 

 ところが、『Xへの手紙』を読んで、衝撃を受けた。

 これは私小説風なエッセイであり、主人公がXという友に向かって混乱と彷徨の二十代を振り返る内容である。私生活や思想上における悩みに苦しんだが、それを乗り越え、大人への道に歩もうとする。その心情を力強い文章で綴り、「俺」という一人称がその強さを支えている。

 主人公は小林そのものといってよいだろう。私はぐいぐいその世界に引き込まれていった。小林の悩みは自分の悩みであり、Xとは自分のことではないかという気がした。おそらくこのエッセイに感動した読者は皆そう思うだろう。

 この感動がきっかけとなり、小林の作品を読んでみようと思った。今まで彼に偏見を抱いていたとも思った。

 本作品が入っているこの文庫本の中で他に気に入ったのは、文壇デビュー作の『様々なる意匠』と昭和10年に発表された『私小説論』である。前者は昭和初期に流行したマルクス主義文学への批判であり、後者は明治の自然主義小説から昭和初期のプロレタリア小説(マルクス主義文学)までの文学的概観に対する見方である。逆説や倒置を多用し、独断的に論じる文章は粗削りであるが、迫力があり、独特な文体に仕上がっている。この特異性が彼の魅力であり、「批評とは作品を出しにして自分を語ることである」という小林の名言はここで見い出すことが出来る。

 

 続けて『作家の顔』という文庫本を読んだ。

   表題作の『作家の顔』の中で小林は、老いたトルストイの家出は妻のヒステリーが原因であったという正宗白鳥の説に異議を唱え、「人生における抽象的煩悶」が原因ではないかと論じている。それに対し正宗は駁論し、今度は小林が『思想と実生活』において再反論した。有名なトルストイ家出論争である。

 当時の私は小林の説に賛成した。偉大なトルストイのことである、深い思想上の悩みから出奔したのだろうと考えた。しかし自分が還暦を越え、しだいに老いを感じ、80歳過ぎまで生きた両親の様子や周囲の老人の実態を見聞するようになると、正宗白鳥の説の方が正しいと思うようになった。トルストイが家出した時の年齢は確か82歳である。当時のロシアで82歳とはすごい老人である。その年になると、「人生における抽象的煩悶」で悩んで家出するだろうか。どうでもいいような、ちょっとしたことがきっかけが原因のように思えてならない。それだけ「老いる」ということは大変なのである。

 論争した時の小林の年齢は30代の前半である。その若さでは、老人の実態を知らなかったと思う。どんな偉人であろうが、老いると、認知症になったり、そこまでいかなくてもひがみっぽくなったりするような老人特有の性癖を示すようになる。

 志賀直哉に関する『志賀直哉』や『志賀直哉論』もよかった。その頃、私は志賀直哉を読み始めており、彼の魅力にはまっていた。特に、饒舌を避け、選び抜かれた言葉で描写する彼の文章のとりこになった。自然描写は特に素晴らしく、目に見えるようだった。

 この文庫本には彼の知人の作家(中原中也や富永太郎や菊池寛)に関する思い出話も含まれている。中でも『中原中也の思い出』は胸に応えた。小林と中原が長谷川泰子を巡って争ったことをすでに知っていた。また中也の詩を読んでいたこともある。この美しいエッセイに登場する海棠の花に中也の顔が重なる。篤い友情が読み取れる名文である。何度も読み返した。

 あれから40数年経った2013年、退職して余裕が出来た私はA君と共に晩冬の鎌倉を訪れた。かつて文学青年だった時代を振り返るために『中原中也の思い出』の舞台になった妙本寺に足を運んだ。『思い出』で言及している海棠の花はまだ咲いていなかった。大学時代にあれほど感動した作品だったが、40数年の間に私自身が変わったこともあり、感傷的にはならなかった。

 小林秀雄ゆかりの鎌倉近代文学館にも訪れた。彼の原稿が展示されていた。

 

 同じ頃に読んだ『私の人生観』にも驚かされた。これは昭和23年に行われた講演の記録なのだが、それを彫琢したので立派な文学作品に仕上がっている。

 仏教用語である「観法」について語り、明恵上人の絵や生き方、恵心僧都の著作、西行の和歌、釈迦の生き方、仏教思想や経典、ヘラクレイトス、キリスト教、禅、雪舟、利休、正岡子規、斎藤茂吉、アラン、ベルグソン、リルケ、パスカル、宮本武蔵、など引き合いにして古今東西の文化や美を論じたり、近代的合理主義を批判したり、「観」という言葉の意味を探ったりしている。とりわけベルグソンと宮本武蔵に多く言及する。ベルグソンが用いた「vision」、武蔵が語った「器用」という言葉は本論のキーワードである。見ることは観ることであり、それは心眼でしか見えないと説き、「観」という言葉の重要さを強調した。

 彼は練り上げた自分の考えを彼独自の文体で語る。よくよく熟考し、言葉を削ったのだろう、言葉が凝縮し、文章に力がみなぎっている。したがって一つの言葉がすごい喚起力を持っている。警句のような文がたくさんある。ただ、言い方が断定的であり、論理の飛躍も見られるので何度も立ち止まざるを得ない。

 彼の敬愛する志賀直哉が小説の描写で示した言葉の選択を、小林は批評文で使った。志賀が「小説の神様」と呼ばれたのに対し、小林が「批評の神様」と形容されたのも当然である。

 人生経験が浅く、読書経験が十分でない当時の私にとってこの作品を読むことは難しかった。何度も立ち往生したが、最後まで何とか読み終えた。ただ、展開される内容に知的興奮を味わい何度も息を呑んだことを覚えている。

 この記事を書くにあたり、45年振りに再読したが、理解できたとは言えなかった。しかし、彼の作品は「分かる」という対応より「味わう」という対処でいいと私は思っている。「知る」より、「感じる」を小林は求めているように思えてならない。

 

 私が読んだ作品の中で一番感動したのは『モオツァルト』である。

 私は読み終わった時、これは「詩」であると思った。もちろん形式的には散文で記された批評であるが、批評文を越えて「詩」の高みに達している。したがって日本語という言葉が内包している日本語の「音」が静かに響いて来た。もはや音楽と言ってよい。朗読するとさらに分かる。後年斎藤孝という教育学者が朗読にふさわしい作品として小林の別な作品を取り上げたが、それには同感出来た。私だったら『モオツァルト』を採用するだろう。

 もちろん、名文で織られたこの作品の行間からモーツァルトの様々なメロディも聞こえて来る。小林はそれを「悲しみの疾走」と名付けた。

 この名文は味わえる文章であり、かみしめなければ分からない文章であり、思考を要求される文章である。私はたくさんの日本の文学作品を読んできたが、この作品の文章は日本文学が到達した極みの1つに入っていると思う。

 当時私が鉛筆で波線を引いた文の幾つかを紹介しよう。

 「彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当たり前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない」

 「命の力には、外的偶然をやがて内的必然と感ずる能力が備わっているものだ。この思想は宗教的である。だが、空想的ではない」

 「大切なのは目的地ではない。その歩き方である」

 私は小さいころから音楽が好きだったが、思春期を迎えて好きになった曲は西洋のポピュラーミュージック、とりわけロック音楽で、レコードやラジオで聴いた。私の住んでいる田舎ではFM放送が入らなかったので、文化放送やTBSラジオや地元の栃木放送に耳を傾けた。

 ところが大学浪人のために上京したら、FM放送が聞けるのである。さすが東京だと思った。このカルチャーショックは田舎出身者しか分からないと思う。そのせいもあるのだろう、浪人時代にNHKFMから流れるバロック音楽に取りつかれた。大学入学後はクラシック全般にまで広がった。

 その中で私が最も好きになった作曲家はバッハとモーツァルトであった。そのことも小林を読むきっかきになったし、モーツァルトが好きでないとこの作品の素晴らしさを見い出せなかったと思われる。

 この文庫本には、『無常という事』『当麻』『徒然草』『西行』『実朝』『平家物語』など鎌倉時代に関する短いエッセイが収められている。いずれも傑作である。

 これらの作品を書いた頃は太平洋戦争の最中である。当時、小林は鎌倉に住んでいた。乱世の鎌倉時代に戦争の現在を重ねていたのだろう。いずれも珠玉のような名作であり、一文一文が吟味され、厳選された言葉で綴られている。脳みそのひだにしみこむような文章である。

 人間とは崇高である一方、愚かでもある。神や仏に近づくが、外道に堕する時もある。よくも悪くも人間という存在の悲しみを唱っているような気がしてならない。行間から宿命をなげく謡や諸行無常を奏でる琵琶の音が聞こえて来る。

  私は下宿でこの文庫本を読み、深い感動を味わった。涙がにじんだことも覚えている。

 

 社会人になって経済的な余裕が出来たので全集(1次版)を買った。最初値段の高い旧版の方を購入していたが、途中から価格の安い新訂版(2次版)に切り換えた。第1巻と第3巻が抜けている。たぶんその巻の代表作が文庫本に載っていたから買わなかったのだろう。

 小林の全集は現在までに6回出た。10年に1回の割合で出ていることになる。それだけ売れるのである。

 現代は個人全集が売れない時代である。現在活躍している小説家で全集を出してもらえる作家はごく少数だろう。文学者不遇の時代である。時代を超えて読み続けられるということは、本物の証である。

 

 私は浪人時代にドストエフスキーの『罪と罰』に感動して以来、彼の主要な作品はほとんど読んだ。戦前や戦後ほどではないが、当時の文学青年の間でもドストエフスキーは人気があった。下宿や飲み屋でドストエフスキーについて熱く語った。そのこともあり、『ドストエフスキイの作品』やドストエフスキーの一連のエッセイにも目を通した。

 小林は、私たちのドストエフスキー熱を代弁してくれた。彼のドストエフスキー論を読むことで、ドストエフスキーの魅力が倍増した。自分にはこんなに鋭く分析する理解力とそれを表現する筆力がないので、舌を巻くだけだった。

 ただ、大学を出て以来、ドストエフスキーを読んだことない。上記の論文も読んでない。ドストエフスキーは、食物で言えば、巨大なステーキのようだ。それを消化する力がなくなったのである。

 

 『ゴッホ』と『近代絵画』は途中で投げ出した。ただ、私は絵画鑑賞が好きなので、『近代絵画』で論じられた画家の作品展を鑑賞した時には拾い読みをした。中でもセザンヌに関するエッセイは好きだった。

 『本居宣長』も途中で投げ出した。これまで3回挑戦したが、結局閉じざるを得なかった。小林の文章について行く力がなくなったということだ。

 (写真上の分厚い単行本はバザーの際に無料で手に入れた)

  社会人になってもよく開いた巻は第12巻の『考えるヒント』と別巻の『人間の建設』である。

 『考えるヒント』は日常や読書に対する感想を著したエッセイ集である。ここでも彼の深い教養が見られる。古典に通暁していることがよく分かる。

 この中に『無私の精神』というエッセイがある。そこで彼はある実業家を紹介し、知識人の言動より実生活者の行動の方に好感を示している。

 インテリ嫌いは数学者の岡潔との対談集の『人間の建設』にでも見られる。二人の対談に啓発されたが、私は岡が好きになれない。彼は数学者としては偉大かもしれないが、彼が吹聴する考えはあまりにも国粋主義的でアナクロニズムである。現在、岡が読まれないのは当然である。こういうかたよった考え方はもう浸透しない。同じ数学者の藤原正彦はその影響を受けているかもしれない。

 この題名は別巻Ⅰ『人間の建設』にも用いられているので、この巻に本対談も当然収められている。

 私はこの巻でジョルジュ・ルオーに関する一連のエッセイが好きだった。ルオーは画家になる前にステンドグラスの職人だった。小林は黙々と仕事に励む職人を常に評価する。彼が戦後ルオーに傾倒するのは当たり前である。

  対談といえば、『歴史について』という対談集(文庫本)を読んでみた。表題作は江藤淳との対談だが、その他にも田中美知太郎や大岡昇平や河上徹太郎などと行い、計9つが収められている。

 表題の対談では、小林は本居宣長やベルグソンを例にして歴史を科学的にとらえようとする見方や進歩主義を批判する。また、現代のジャーナリズムも容赦なく切り捨てる。その背後には人間や文化に対する深い思索と鋭い詩人的直観が読み取れる。文士から見る歴史観の立場を崩さない。小林の前に出ると、江藤淳はどうしても見劣りしてしまう。

 

 別巻の『批評への道』も面白かった。各界の著名人が自分の見た小林像を描いている。彼は批評家であると同時に文士だった。だから人間的魅力に富んでいた。論争はするが、包容力があり、人情にあつい。人間の幅が広いのである。だから多くの者が彼の周りに集まったのだろう。彼の後から多くの文芸評論家が出たが、彼に較べると小粒の印象である。

 

 ※後編に続く