浅田次郎の作品を初めて読んだのは、「鉄道員(ぽっぽや)」が直木賞をとって話題になった頃である。当時、私は現役で仕事が忙しく、小説にふける余裕がなかった。とりわけ、純文学とよばれる作品は読む気がしなかった。しかし、この作品は読んでみようかと思った。というのは、宣伝文句に「定年間近の駅長の元に死んだ娘が現れる」とかいうような文が載っており、直観的におもしろそうだと思ったからである。私に2人の娘がいたことも関係しているといえよう。さらに直木賞作品にはエンターテイメント作品が多いので、これならば気楽に読み通せるかと思ったのである。
読了した後、私は目頭が熱くなった。雪が積もった北海道の小さな駅。ここに寝泊まりしている定年間近の駅長。一人っ子の娘を失い、妻にも先立たれた。彼の元に、数日間にわたって、年齢の違う女の子たちが現れる。人物の設定や舞台の装置が巧みである。読んでいくうちにこの子たちが生後間もなく死んだ娘の成長した姿であることが分かる。その展開は、読者を引き付け、離さず、涙腺を刺激する。
続けて、収録されている他の作品を読んだ。私はこれらにも、「鉄道員」以上の感動を受けた。とりわけ好きだったのが、「角筈にて」である。
ここにも幽霊が出て来る。今度は、父親である。彼は小学生の主人公(男の子)を新宿の食堂の前に置いて蒸発した。何も知らない主人公は父親が戻って来るのを落書きしながら待っている。この場面はせつない。時代は移り、主人公は大人になった。彼は会社で苦労している。海外転勤を命じられた。ある日、新宿の花園神社で父親を見かける。父親は幽霊である。彼は主人公に置いて行ったことを謝るが、主人公は、「お父さんは疲れていたんだ」と慰め、「お父さん、ありがとうございました」とお礼を言う。このシーンで私はまたもや落涙してしまった。
浅田は物語のツボをよく押さえている。純文学ではないので、登場人物の心のひだを詳しく描写をしないが、ストーリーの展開で読者を引っ張て行き、ここぞという場面で、その場面にふさわしい会話を短く挟む。その力量はただ者ではない。事実、その後の彼は飛躍し、エンターテイメントの大作家にまでなった。
この「うらぼんえ」にも祖父の幽霊が現れ、主人公の女性のために周囲の人に頭を下げる。苦しんでいる主人公に寄り添う姿はキリストや釈迦のようで美しい。涙なしにはページをめくれなかった。浅田はお年寄りに優しい作家のような気がした。
これらの作品に共通しているのは幽霊ばかりではない。主人公が孤独、または苦境に陥っていることである。そのような人たちを助けるべく、あるいは癒すために幽霊が現れる。弱者に対する作者の視線はどこまでも優しい。
それは、「ラブレター」や「オリオン座からの招待状」にも見られた。この本が多くの読者をつかんだのは当然だろう。場面の展開が巧みなので、私は彼の作品は映像化しやすいと思った。事実、ここの挙げた作品はいずれも映画化されたり、テレビドラマ化された。
『鉄道員』の短編集は、仕事に忙殺されている中年男性の私に、久しぶりのやすらぎを与えてくれた。だが、私は読書にかまける余裕がなかったので、これ以降の彼の作品は読まなかった。
私が彼の作品をたくさん読むようになったのは、それから15年後、定年退職をしてからである。『鉄道員』の文庫本を再読し、ストーリーテラーとしての面白さにはまってしまい、他の短編を読んでみようと思ったのである。
その背景には次のこともある。私は突如小説を書いてみようと思ったのだ。私はかつて文学少年・文学青年だった。一時、詩人や小説家を目指していたことがあったが、才能の無さを痛感して、その夢をあきらめた。したがって大学卒業後は、自分の夢を追いかけることより、自分の生活すなわち家族を養うことに専念した。そういう私が退職した後ゆとりが生まれたので、かつての夢を追いかけようと思うのは当然である。
私は文学老人になることを妻に宣言した。しかし、思いは強くても、どのように小説を書いたらいいのか迷った。説明ではなく描写に力を入れることは知っていた。感情の赴くままを綴るのではなく、読者が分かるような、明晰な文章を書くことも分かっていた。さらに短編から始めた方がよいことにも気づいていた。問題は、ストーリーである。それが浮かんで来なかった。おおよそのプロット(筋)が生まれないと、構成を整えることもできないと思った。
そこで、浅田次郎の作風を参考にしようと思ったのである。
私が彼の短編集を読み漁った背景にはこういう理由があった。私は刊行された順に読んでいった。
『月のしずく』の中で、印象に残ったのは、「ピエタ」と「聖夜の肖像」である。前者は母を慕う娘の話である。浅田には父や母を慕う主題が多い。母がイタリアで活躍している設定が面白い。たくましく自立している女性像を描いている。
「聖夜の肖像」でも自立する女性の恋愛が描かれて面白かった。パリと東京を舞台にしている。パリでかつて愛し合った売れない画家とクリスマスの東京で再会する。この舞台設定がいい。映画を思わせるシーンが盛りだくさん。
『見知らぬ妻へ』で、面白かったのは、「スターダスト・レビュー」「かくれんぼ」である。
「スターダスト・レビュー」は、かつて将来を嘱望されたチェリストが今クラブでピアノの弾き語りをしている。その心情を周囲の人物とからませながら見事に描いている。芸術で成功する難しさを描いた点で「聖夜の肖像」に通じるものがる。
「かくれんぼ」は子ども時代のいじめを描いた作品である。「悪」の萌芽は子ども時代に現れる。誰にでもこれと似た経験があるのではないだろうか。
『霞町物語』は作者の自伝的作品で、連作短編になっている。舞台は昭和40年代の麻布霞町である。その頃、走っていた都電がこの物語でうまく使われている。その他にも、ショット・バーやジューク・ボックスなど都会でしか見られない場所や道具が用いられている。北関東の田舎育ちの私から見ると、うらやましい限りである。都会の高校生の生活との隔たりを感じた。
この連作の中で、最も印象的だった作品は「青い火花」と「卒業写真」である。祖父のキャラクターが実に面白い。確かに昔はこのような頑固一徹で職人気質のおじいさんがいた。
『薔薇盗人』では、「あじさい心中」と「ひなまつり」が心に残っている。どちらも読後に手で目をおおった。
「あじさい心中」は田舎のさびれた温泉街が舞台である。副主人公として中年ストリッパーが出て来る。私の田舎にもこのような温泉街があるので、この設定に親近感を抱いた。リストラされたカメラマンの主人公と人生の辛酸をなめたストリッパーとの交情。彼女は話す。観客の中に、かつて捨てた我が子がいた、と。この時、胸が詰まった。この展開はすごいと思った。
「ひなまつり」は娘がいる親は涙なしに読めないのではないだろうか。私にも娘がいたから、その効果はすごかった。このような話は昭和の東京にはたくさんあったと思う。私は昭和40年代の後半に東京で学生生活を送ったが、私の住んだ木造アパートにも主人公の弥生ちゃんのような女の子がいた。それから彼女のお母さんのような女性も。吉井さんという人物が素晴らしい。
『姫椿』に収録されている短編の主人公の多くが薄幸である。人生がうまくいかない。彼らに対する浅田の視線はどこまでも温かい。
一時、「勝ち組」とか「負け組」という言葉が流行った。これほど人を馬鹿にした言葉はない。私の最も嫌いな言葉である。大金をつかんだり、社会的地位についたりした者が「勝ち組」で、そうでない者が「負け組」であるようなとらえ方である。それなら有名人が幸せで、そうでない者は不幸なのか。人生はそんな単純ではない。幸福が金や地位で買えないから人生は面白いのである。売らんがための経済誌にこれらの言葉は躍っていたように記憶している。
その嫌な言葉を使えば、「獬(シエ)」に登場する鈴子やアパートの住人、「姫椿」の高木、「マダムの喉仏」のマダムは「負け組」に属するだろう。だが、浅田はその「負け組」の応援団長である。彼らを救うために、様々な仕掛けをする。そのために、読者は読み終えた後、胸にじんと来るのだ。
ここに収録されている短編は完成度が高い。読み応えのある短編集である。上記以外に私が感動した作品は「永遠の緑」である。これももちろん泣かせる作品だ。主人公と娘のやりとりは素晴らしい。題名の緑とは亡妻の「みどり」のことだろう。うまい題名である。内容を象徴している。
『月下の恋人』では、「忘れじの宿」が心に残った。主人公が旅先で謎めいた女性に出会うという展開は、「あじさい心中」に似ている。この女性(女のマッサージ師)が主人公の体をほぐしながら、最後は彼の心までほぐしてくれる運び方が卓越していると思った。主人公の心理描写も優れている。旅館の題名、蛍、痼(こり)を効果的に使っている。
『月島慕情』でよかったのは、「供物」、「冬の星座」、「シューシャインボーイ」である。
「供物」は文芸の高みに達した秀作である。浅田は言葉遣いに熟慮したと思う。情景描写や比喩で主人公の心情をあぶりだす巧みさに思わずうなってしまう。これぞ散文表現の極致と言える名句が幾つも登場する。婚家に残してきた息子と再会するラスト・シーンは感動的だ。主人公を思いやるくらい立派に育った息子に主人公は未来を見い出しただろう。「面影橋」という橋の名の使い方が効果的だ。
「冬の星座」では、お祖母ちゃんの生き方に心を打たれた。浅田は老人を描くのも上手だ。歌詞を巧みに用いたのもよい。
「シューシャインボーイ」は「角筈にて」につながるような作品である。主人公の人生の陰に人物あり。浅田の得意とする展開だ。
『夕映え天使』では、「夕映え天使」が心に残った。都会の片隅で誰にも看取られなく死んでいく人。一生懸命に生きているのに、幸せとは縁遠い。そのような人への挽歌のような作品である。主人公の優しさが身に染みる。
これらの短編集に登場する主人公は実に様々である。老若男女、職業や立場も様々である。現代を舞台にした作品が多いが、中には大正時代もある。必死で都会を生きている市井の人がほとんどである。
その人たちの哀歓を見事に描いている。悲しさと笑いの両方を書けるのは大作家になれる条件である。シェークスピアや漱石は悲劇と喜劇が書けた。
また、構成がうまい。計算しているかのようだ。だからこそどの作品でも胸がつまったり、感情をかきむしられたり、笑ったりする。
私は彼の短編集に熱中し、半年の間に上記の作品を読んでしまった。
ただ、面白いにもかかわらず、読んでいくうちに物足りなさを感じたことも事実である。それは、人物の行動や心理の描写及び自然描写が少ないからである。文学作品では読者が唸るような比喩や描写が多い。したがって、名文と思わせるような文章に出くわすことがある。何度も読んでみたくなる。だが、浅田にはそれが少ない。
でも、それを浅田に要求するのは無理なのだろう。流行作家は多産しなければならないからである。絶えず時間に追われている。ストーリーが面白いことが第一条件である。純文学作家のように、描写を詳細に綴る余裕はないのだ。
したがって、時間が経つと、「角筈にて」のような感動を覚えた作品は別として、上記の作品の内容はほとんど忘れてしまう。
私は彼の短編の大半を読んでしまったので、長編を一つ、読んでみることにした。それが『壬生義士伝』である。
浅田には多くのファンがおり、ブログで感想を披露している(私もその一人だが)。彼らの大半が、「壬生義士伝」を推している。短編しか読んでこなかった私は最初読むのをためらったが、思い切って読むことにした。
感想を一言でいえば、感動した。浅田の力量がいかんなく発揮されていた。長編なので登場人物が詳しく描かれおり、ストーリーの展開の見事さはこの作品でも発揮されていた。エンタメ作品を通り越し、立派な文芸作品に昇華していると思った。
吉村貫一郎という主人公のキャラクターの設定が面白い。うだつが上がらないような、目立たない、人のよさそうな人物であるが、剣を持つと変身する。私は藤田まことが演じた「必殺仕置き人」の中村主水を思い出した。日本人はこういうヒーローを愛する。
だが、吉村が南部藩を脱藩し、新撰組に入るのは、貧苦に苛まれる家族を救うためである。
すなわち、この作品の主題は、親子の愛情、家族愛である。これは永遠の主題であるが、浅田が得意とするところである。
家族を思って死んでいく父。死んだ父を追いかけて死にゆく息子。山上憶良のように、子どもを何にも勝る存在と思う親はこの作品を読んだら、泣いてしまうだろう。尊敬する人物に両親を挙げる子どもたちも同じだろう。
浅田は日本人の読者の好みをよく知っている。それを見事にすくい、上手に調理して、読者に提供する。だから人は浅田の本を読んで泣くのである。私もたくさん涙を流した。こんなに読者を泣かす作家に出会ったのは初めてである。
主人公の故郷の岩手は私に縁のある土地である。盛岡は何度も訪れたし、雫石にも足を運んだことがある。江戸時代、東北の飢饉はひどいものであった。近代になってからも取り残された。そういう辺境の地を取り上げ、花を咲かせてあげた浅田の姿勢は立派である。
私は、浅田の作品はこれだけしか読んでいない。彼の膨大な量の作品からみれば、一握りである。ただ、彼の短編をたくさん読んだことは私の拙い創作実践に役立った。
最後に読んだ作品の中で私のBEST5を挙げよう。
1位 壬生義士伝 2位 角筈にて 3位 供物 4位 うらぼんえ 5位 ひなまつり
――― 終わり ―――