仏法は、他の誰のためでもない


私のためにあるとつくづく感じる…


誰に聞かせたいでもなく、聴いてもらいたいでもなく、


このわたしにこそ、聞かせていただかなくてはならないものだとつくづく感じます…




愚痴と文句と言い訳しか出てこないこの私…




こんなわたしを、どれだけ戒めたところで、


限りなく、どこまでもどこまでも、他のせいにしか考えられない私であるからして


戒めても、また起こる。


戒めても、また起こる…


繰り返す、どこまでも繰り返す…


情けないけど、成長しないこの私…




関わりなくして、気づくことはないわけで…




お聴聞することは、


語る方、聞く方、関係性の中に存在するわけで…




真宗とは、どこまでも、徹底して自己追求だと感じる夜です。




私の個人的思いですから、皆さんは聞き流して下さいねっ…




徹底した自己追求の先には、根源的いのちの要求があるのでしょう…




情けないこんな私にも、何かあるわけであります…




ほっぽり出したら、楽なのでしょうか…




でも、真宗の教えに出遇ったいま、




このままほっぽり出すわけにはいかないし、

そこに、私の納得する感情はない…




まず、自力を尽くしてみる


自力を尽くしきってからだ…




私のためにある教えです。


念仏に生きた人たちのお心に出遇いたいです…




そのお心に出遇うには


自分も同じ道を行くしかないのです…





それぞれが目指す道があることでしょう。 


それぞれに目指したらいいと思います。




ただ私は、決まっている。


もう決まっているんです。




私の生きる道は、この道しかありません。



ゆるぎない道。




私たち、人間のいのちを、


こんな私の一例を


しっかり歩んで、バトンを繋ぎます!




きっと、大事なものはたった一つなんでしょう…




あれこれ、踊らされて、目移りして、迷うけれど、


本当に大事なものは、一つなんでしょう…




一緒に見つけてゆきたいです…




















劫濁のときうつるには


有情ようやく身小なり


五濁悪邪まさるゆえ


毒蛇悪龍のごとくなり



(正像末和讃より引用)




本日の朝のお勤めのご和讃でした。


自分がやりきれないですね。


どうしてこんなに灰汁が強いのでしょうか。


今日は、本光寺で納骨追悼法要が午後1時半から行われます。


お昼ごはんに、お握りを作りました。


私は、三角のおにぎりしか握れなくて、…すると…


「角があるね~」と、坊守さんのお言葉あせる


そうなんです!お握りひとつが、この私を言い当てている現実…


そうなんです。角しかない私なんですよっ。


角があることも時に大事と思ってみたり、

こんな私でよかったと思ってみたり…


角が取れたらいいのになと思ってみたり、

こんな私、変わることができないのかと思ってみたり…


自分を知ることの傷みを感じます。


どうしたらよいのでしょうか。


自分ひとり、解決はできないのでありましょうけれど、


いったい、どこに向かえばよいのでしょうか。


お盆の疲れがピークに達しそうです。


頭が痛い…




いろんなことを抱えて生きる私たち…



守るものと、捨てるものがあります。



私は何を守りたいのか…



答えは…………







皆さん、お盆のお参りしましたか?









よく、わからないけれど、


何にも出来ない私です。


何も解決できない私です。




大人がしてきた罪により、


何が起きているかもわからない子供たちに、


遊びたい場所で遊ぶことさえ困難になり・・・


食べたいものも食べられなくなり…




制限という生活、制限のある生活、暮らしを


罪のない子供たちに、それらを与えてしまいました。




親であろうがなかろうが、


これまでの世のなかを受け継いできた大人の責任だと私は思います。



皆さんは、どう思いますか?



子供たちは大丈夫でしょうか?


子供たちはわらっているでしょうか?


元気にしていますか?



子供たちを守りたい大人たちは、自らの罪を認められず、


真実、事実、今現在を受け入れられず、


互いに傷つけあい…


更なる迷いの道を歩んでいるのではないでしょうか…




ただ一日一日今を過ごし、やりぬくことしかできない…


望みをもっても壊れ、崩れ、後悔し、やりきれない…


闇の世界、地獄としか表現しようがありません。




大人は弱い 子供は強い


大人は迷い 子供は歩む




守るべき子供のために成しているのではなく、


子が大人たちを真の道、


迷いのない道へ導いてくれているような気がします。




互いに思いあう関係こそ、生きる力となるのでしょう。



私たちは、再度、


助けあう


支えあう


労わりあう


より添いあう


これらをみつめる必要があるように思えてなりません。




何を求め、何を思い、何のための道を歩むのか?




やりきれない気持ちでいっぱいの毎日ですが、


生きる力があると、どこかで自分が己を信じているようで…




前を向いて歩んで行こう!


ゆっくり、あせらず、今を…



先をみたいし、先に望みがないと進めない気もするけれど、


ただ、歩もう・・・・・・・・・



ただ、今を歩もう!




どうしようもならない事ばかりの日常ですが、


希望をもつから、こうして書けてます!


皆さんのおかげです!



いつか迷いという名の雲が晴れる日が来ると信じて…



ともに歩もう!


南無阿弥陀仏…!


















今日8月3日は、小松教務所 常盤会館で暁天講座


午後は勝光寺さんで、真宗大谷派小松仏教青年会主催の講演会があり、行ってきました。



両講座ともに、福島県福島市生まれ 二本松市





どうやったらうまく生きられるのでしょうか?



寂しい時にこそ、悲しい時にこそ、


人にやさしく、人にあたたかく。


そんな私になりたいです。



悪影響をおよぼしてしまう私存在。


罪です。自分だけではすまない、これは大きな罪です。



いい影響ばかりならいうことありませんが、


ほとんど、悪影響です…悲しい現実ですが…



周りに感謝しなきゃ、ありがとう言わなきゃ、恩を常に受けている私な訳で…


そのことをしっかり、身に刻まなきゃ!



いつも自分のことだけで、いーーーーーーっぱいになっている私ですから…



迷惑掛けて、心配かけて、負担掛けている私です。


こんな私です。



変われない私ですが、甘えてばかりでごめんなさい…



こんな私でごめんなさい…



自分のことしかやれない私でごめんなさい…



ごめんなさい…



一体、誰に謝っているのか・・・






みんな どうやって生きてるの?


私に教えて下さい…



すべての道がシャットダウンされている



そう・・・されているとの表現・・・・



自分でシャットダウンしているのに、他のせいか・・・


四方八方すべてふさがっている



孤立だ、孤立。



自由のない我執の世界



他を受け入れない世界



闇の世界



道のない世界



動くこともできない狭く真っ暗な世界




なぜ生きるんだ?


なぜ生きているんだ?



誰か言ってた…



いつまで生きればいい?


死ぬまでや…と・・・・




関係性の中にあるいのちとかいうけど、


それは全体の話であって私の世界は一人だ、孤立、孤独だ・・・



たった一人だ…



関係性 関わり・・・



ああーーーーーここにも逃げ道があったか…



関わりによって悩まされている、苦しめられている私だという逃げ道



自分で苦しみ作って勝手に悩んでいるにも関わらず


関係性の中に問題が、原因があるとする私…



ここにおいても他事、他者のせいか…



勝手都合良すぎ


なんでこうなんやろ…



道のない箱


小さな箱の中


身が動かない


なぜ狭い世界におしこまれているんだ?


押し込んでいるんだ?


狭く暗い世界 私世界 道を作らないみない世界


閉じこもる私 殻を破ろうとしない私 



自分の心の狭さか…



考えの狭さか…



大きく広く深い海のような心を持てたら…


世界も広がるんだろうな…


自分以外を愛する事ができるんだろうな…



いつまでもどこまでも自分中心の私に未来はあるのか?



なぜ生まれた?

なぜ生きている?



本当に存在しているのか?



あーー私の世界、ちっちゃ・・・・・・・

















愚痴を言う 


文句と言い訳かぎりなく


気づかず虚しい私のすがた




どうして見えない 自分のすがた


どこまで自分を守るんだ


そこに何を求めるか




自分自分と 地獄へと


行っては帰れぬ 我が人生



どこへ向かうや この私


どこで微笑む この私



 

そろそろ たずねてみようかと


自身にたずねて 定まらず




さらにさらにと虚しさが


私を覆って 闇の中




あぁとため息 でるばかり


自分の問題 課題なり




殻をやぶって 叫びたい


大きな声で 叫びたい