なぜ、現代において表現の自由は、重要な自由権の一要素とされているか、というのは、現代の主流が民主主義だからだとは思います。
 民主主義とは国民主権です。
 国民主権というのは、国民が主権者であるということになります。
 民主主義における主権者とは、国家の政治を最終的に決定する権利です。
 ここで、民主主義で大きな問題を抱えることになります。
 一人一人が異なる意見を持った時、政治を最終的に決定する権利はどうするのか?
 そんなの、多数決で決めればいいんじゃないのか?
 という短絡的な考え方ができますが、これは、歴史的に間違いです。
 なぜなら、民主主義というか、共和制度で避けるべき間違いは、衆愚政治だからです。
 多数決を何よりも正しさの根拠にすれば、衆愚政治になるのは必然だし、衆愚政治をとって成功することは、暴飲暴食でダイエットをするぞというくらいナンセンスな話です。
 それをどう回避すべきなのか?
 それは、少数意見であろうとも、(憲法をふくめた法律を基準に)妥当性と正当性をもった正しい意見を採用するということです。
 では、少数意見はどのようにすべきなのか?
 このとき表現の自由が重要になってきます。
 少数の価値であろうとも、表現の自由を担保に、世間に表現し、正しさをより多くの人に伝え、正しさを根拠に、少数意見を多数の賛同をえることで、民主主義という政治制度において少数意見を採用するということです。
 なにせ、少数意見であろうと、表現の自由が保障されれば、意見を聞かなければいけなくなります。意見を聞いて、妥当性と正当性を判断していくことが民主主義の理念だということです。
 人というのは個人の価値観で判断すると、その価値観に反する意見を頭ごなしに否定してしまうものです。それで話し合いをするというのはできるわけがありません。
 話し合いをするには、最低限、相手の意見を聞き、相手の意見は意見として検討する土台が必用になるわけです。
 
 そんなわけで、表現の自由を、利害や個別の価値観や固定観念によって、公権力で圧力をかけるというのは非民主的な行為になるということになります。
 
 そうならないためには、やっぱり表現の自由が必用となるわけです。
 そのうえで、どこまでの表現の自由が認められるのか?
 それは、自分だけが自由なのではなく、相手も自分と同じくらい自由であり、自分自身の表現の対象が自分を含め認められるかということだと思います。