■埋もれ木 | ツボヤキ日記★TSUBOYAKI DIARY

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映画 [新作・旧作・TRAILER] を中心に、ツボにはまり、ボヤキもチラホラの果てしない
日記になるか、カッカッしながらも、とほほの日記になるか・・・
ツボとボヤキで「ツボヤキ」日記。では参ります!


■埋もれ木
英題:THE BURIED FOREST 仏題:LA FORÊT OUBLIÉE

●まず申し上げておかねばならない、と思った。これは、見る側の身の丈で、分かる、分からないが区別される映画であってはならない。例えば、テレビの完結ドラマに馴らされた見る側が、分からないと安易な感想を漏らさないでいただきたい。お願いするデスよ。

映画「埋もれ木」は、起承転結の物語ではない。たくさんの出来事が起きる。その出来事のひとつひとつが何れも「起」。そこから幾本もの筋書きや背景が前に後ろに光さすような物語が潜んでいる。この映画の中で見た場面、それはどの場面であっても昨今の邦画には失われつつあった丁寧な作り手の姿が見えてくる。

ここには子どもと、大人、その間にいる少女がいる。少女のお話からまずは始まっていく。正直な話し、実は、この少女の件が当方は少し退屈だった。ただ、どこか不思議な場所で会話する様子、構図に引き寄せられている内に、少女の話が目の前のアスファルトを剥がしてしまった。あ、本当のお話、が始まった、のだと気づいた。

と、大人が出てくる。大人の様子が良い。この映画に登場する大人たちが、皆、一抱えの物語を縦横無尽につむぎ出すことの出来る深さを持って、そこにいる。誰もが、だ。誰もが、説明ないままに、その背景やら育ちやらがわんわんと湧いて出る。己の居場所を持った大人たちがいる。今では皆無に近くなった様子を見せてくれるマーケット。そこ、ひとつの世界。その中にいる男たち、女たち、買い物客、不都合の微塵も感じさせない世間話、会話のやり取り、当たり前の所作に、見終わって更に気づきだす。



子ども達は景色の中にいる。段々と消えていく日本の景色の中に彩りよく配置される子ども達の様子が良い。地蔵祭りのしきたり、知らぬまま通り過ぎようとした車を通せんぼする、その時のやり取りが良い。通り過ぎようとした車中の大人と子どもの様子も良い。古いものを拒否する事無く、面白いとして受け止めていく寛容さもしきたりや振る舞いを繋ぎとめる人の心持なのだ、と気づく。

夫婦の会話がほつほつ、と成される。妻の側の様子、夫の側の様子、それが視線を変える構図により、時間や空間、距離感を気づかせる。

少女と少年は大人との確執を持っている。少女は両親の関係の希薄さに情けない、と。少年は少女だけにしか話していないであろう母親への憤り。その母を演じた松坂慶子に感嘆する。たった10秒足らずだったであろう場面で、映画をかっさらうが如く一声で母親の人生を全てさらけ出すではないか。見事な女優。少年の母は、息子からなんと言われようと、食わせてきたじゃないか、あんたそこまで生きてこれたじゃないか、という強引な開き直りの迫力がある。反発する息子、それもどこかで張り合いになっているのかもしれない。無視、決別までいかぬままの母子の関係を僅かな場面で知らせてしまう。





遭遇するのは、夜の道端の紫陽花、街を行く鯨。鯨は水溜りに映し出されて揺れる。揺れて漂う姿は現実の世界のものでない。ここではない、あそこ。

まるで異国のサーカス小屋のよーな酒場での出来事と相まって、大人の中に巣食う風俗描写、やるせない人生、生きていくしたたかさ、エネルギーがじわりと流れ込んでくる。

そこで少年の一等気に入りの場所が出てくる。日本国中の至る所にあるだろーな。天下りのもたらした出来損ないの宙ぶらりんの場所。大人たちの曖昧模糊とした過ちが作り出した場所をも、この映画は舞台にしている。

回り舞台が人力で浮上する。そこに男1人。巧いッ、って。そこにまた1人。会話。巧いッって。当たり前なはずなのだが、昨今で会うことの無かった分、この映画の中での、人物の立ち位置からセリフの一言一言に、ほーっと感心させられっぱなし。
こうやって思い返していくと、次々に場面がよみがえってくる。ああ、引き家がゆっくり動いていく。。。時間を経過して、どんどんと「埋もれ木」の魅力に惹かれていく。

出てくる俳優を見ていて、こんなに巧い俳優だったか。スクリーンで初めて見た大久保鷹、博覧強記な大人の風情。書物を読んだ読まないといった類ではなく、学者のよーな雰囲気を持った人は市井に、こんな風にいた。埋もれ木に噛み付く男。いいんだなぁ、思わず埋もれ木に噛み付いたのには笑ったが、埋もれ木に香りが残っている、とゆーのがあれでわかる。意味がある。あーゆー、おかしなオジサンもいた。




建具屋をやり直す男は岸部一徳。この人のこの物言いの静かなこと。最近公開された邦画では田中裕子と出ているが、ここでは全く違う。もっともっと役まんまに、そこにいる。これ、田中裕子然り、だ。浅野忠信の登場場面にも唸るデス。誰も彼もが納まっている、これが監督の力、だと思う。良い俳優とは思っていても、ここまで見せていただけるとは思っていなかった。日本映画で、俳優の演技を見ることが出来る監督が僅か、という現状なのだと、改めて思わされた。小栗康平という人は、失われつつある品格のある日本映画の映像を作り出す事の出来る、稀少な監督、と思わされた。

あれもこれも次々に浮かんでくる場面。夕方の日の暮れる様子は刻一刻と夜に進む。その様子を背景に浮かべる笹舟の行方を我は暗がりで必死で追ったぞ。夕暮れ時のコンビニ。マーケットから覗く外の景色。夜の森の中に見たもの。ここであって、ここでないもの。今日であって、今日ではない日。見えてくるもの、見えないもの。お話の中で、君が行きつ戻りつ、すればよい。



佐藤千夜子の持ち歌だった流行歌「愛して頂戴」を歌いながら夜道を歩いてくる住人たち。子どもから大人までが、この歌を歌いながら夜道を帰ってくるんだ。凄いねぇ。みんな知っているんだ。大人の歌を子どもが知ってる、聞き耳立てて大人が口ずさんでるのを覚えていたか。隣のおじさんが教えてくれたか。そーゆー、関係。何か、事が起きれば皆が出向いて、事に当たる。向う三軒両隣。素晴らしく残る場面のひとつ。わー見事やな。

欧州の秀作に出会う、事がある。心躍りときめく場面に、映像に感動する。日本映画を見ながら、そんな気持ちになれるなど、ここしばらく思いもしなかった。「埋もれ木」を見た。どこまでも日本でしか描けない映像であって、見終われば、これは国を選ばず、人を感動させてくれる物語なのだと思った。小栗康平の映画「埋もれ木」は、出来るだけ多くの日本人に見てもらいたい。

幻想の世界、それは現実の話が成り立っていてこそ、その上に開けてくる。

最後の緑深い幻想的な場、驚嘆。ああ、あそこに行きたいゾ、と心底思った。 (2005年/製作国日本/日本公開2005年6月)


▲オフィシャルでTRAILERはご覧になれますが、
本編は、映画館でぜひご覧いただきたい。


▲小栗康平オフィシャル・サイト

●Directer:小栗康平
●Screenwriter:小栗康平 佐々木伯
●Cast:夏蓮、大久保鷹、浅野忠信、坂田明、酒向芳、岸部一徳、田中裕子、坂本スミ子、松坂慶子、平田満、左時枝、仁科貴、中嶋朋子、嶋田久作 他
※坂本スミ子の出番に関しては、アフレコの再調整を願いたいかな。