父母会長やっと退任。 その① | 波太の日々精進 (サーファーだった人)

波太の日々精進 (サーファーだった人)

家族に対する思いや出来事。
いつか家族が見た時の備忘録。
ライフワークとして30年続けたサーフィンを息子の野球をきっかけに止めてしまったおっさんの備忘録。
いつか妻や子供達がここを見て俺の心境などを知ってくれたらという備忘録という名のおっさんラプソディー。

一年前に就任した父母会長。

 
就任前からゴタゴタがあったチームでの父母会長はやっぱり色々あった一年だった。
 
いきなり大量退団者から始まり、
その退団者の復帰を成功させ、
老監督が緊急入院し、
それに伴い臨時指導陣選びを先導し、
そこに来ての主要な大会での敗退、
老監督の体調不良付きの復帰に翻弄され、
父母同士の不協和音、
子供達の怪我人続出などなど
 
色々あったな…
 
でもそれも『今日』まで。
 
来年度の父母会にバトンタッチする総会が開催された。
 
ようやく肩の荷が降りるわけだ。
 
この一年、いや息子が4年の時に起きたチームの最悪の時期を軌道修正しようとしたあの時からか。
 
おそらく俺が水面下でやってきた事や、計画立ててやってきた事を全て理解している他人なんていない。
要所要所では気付いている人はいたから救いだが。
 
まあ父母会長なんて名ばかりで事務方や運営や会計やら、買い出しやら練習の手伝いやらと雑務係として1年間息子のそばにいただけなんだろうが。
 
ただ、ありがたい事に協力してくれた人が大半だったので何とか一年をやり終えた。
 
協力頂いた皆様には本当に感謝申し上げます。
 
 総会までに父母の間で俺が約束していた二つの大きな事として老監督の勇退してもらい、新任監督の選出する事。
その際に現ヘッドコーチも降りてもらう事を果たす時でもあった。
 
そして来年度の役員決めをした後に老監督からの発表となった。
ここでついに四半世紀を超える監督から勇退する事を正式に父母会へ発表した。
県内でも最年長のレジェンドの幕引きを俺がやるのは荷が重かっが、これも一つの縁なんだろう。
 
その発表に伴い勇退に際してのセレモニーやプレゼントを用意して老監督の労をねぎらった。
 
一番注力したのは四半世紀を超える全員を集めたフォトブックを作った。
これが老監督に贈る最後の俺の仕事になった。
 
老監督が先日の飲み会で勇退を決断してから直ぐにリーグ事務局に掛け合い、今までの写真を持っているか掛け合った。
老監督の元を巣立った歴代の卒団生全ての写真を集めてプレゼントしたかったのだ。
 
これには本当の骨が折れた。
何とか写真はかき集め全世代の写真が集まり、フォトブックには卒団生の名前も記載する為、今度は名前を1人1人調べて入力する作業をひたすら行う。
 
そして作成しながら老監督に歩んだ歴史や、老監督が育ててきた子供達がいかに多かったかを実感するきっかけになった。
 
色んな人や家族が携わり、このチームの歴史を連綿と作ってきて、老監督は人生の多くを犠牲にして地域の活躍に貢献してきたわけだ。
 
ふと写真を編集しながら罪悪感にさいなまれた。
 
もちろん頭では理解はしていたし、こうなることを望んでいたのは俺一人ではなかったのは理解している。
 
だが、呼び水を作りこの流れを指揮したのは俺なわけだから、
このチームの歴史に楔を打った事実は残る。
 
その気持ちを嫁に吐露したところ、
『確かにそう思うかもしれないが今の健康状態ならば遅かれ早かれ勇退する時が来るし、それがたまたま今年になっただけだから』
とフォローしてくれた。
 
 
 
そして総会時の勇退セレモニーの時に一連のプレゼントをして、老監督自身から最後のメッセージをもらう時に初めて老監督が涙を見せた。
 
感謝の言葉しかない
 
そう言いながら声を詰まらせた老監督を見て更に心が痛んだ。
 
件の健康問題で老監督自身がこの1年悩みに悩んでいた時に決断を促したのは俺だったが、やはり四半世紀の歴史は一言で片付くものではない。
 
それを体現するかのような重みのある言葉だった。
 
四半世紀に渡り色んな子供達の健やかなる成長の場を作り続けた事、野球を通じて家族のつながりを作った事、そして息子を6年間忍耐強く見守って頂いた事に深く深く感謝申し上げます。
 
 
父母会長の退任、
老監督の退任、
 
これが終われば新しい代の始まりとなった。
 
 
つづく