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とにかく“本物に触れたい”と
土岐市美濃陶磁歴史館に行ってきました。
この施設、一見こじんまりした佇まいなんですが
あるモノが観れるとあって、以前から訪れたいとウズウズしていました。
そのあるモノがコチラ!
そう、ガラクタの破片・・・ではなく、美濃焼きの「出土品」なんです。
この資料館の周辺は、連房窯で有名な元屋敷窯や弥七窯、窯ヶ根窯など
安土桃山時代に一世を風靡した窯が数多く点在していました。
その窯跡から発見された、当時の器の破片。
残念ながら多くが原型を留めていませんが、織部、志野、黄瀬戸、瀬戸黒と
当時の陶工たちが「どうや!スゴイやろ!!」と訴えかけんばかりの迫力に
圧倒されます。特に美濃伊賀水指なんて迫力満点
(欲しいなあ![]()
)
でもなぜ、出土品の多くが砕けてしまっているのでしょうか???
そこには、美濃桃山陶が辿った数奇な運命がありました。
美濃桃山陶を代表し、現在も人気のある“織部”。実はその繁栄をみたのは
慶長年間(1596-1615)のわずか20年余りと言われています。
衰退した理由は、徳川家康から豊臣家への内通で咎めを受け
一家根絶やしにされた古田織部の影響が大きいなど諸説ありますが
本当の理由は歴史の謎に包まれています。
現在は国の指定を受け立派に保存されている窯の多くも
昭和に入って発掘調査をされるまでは、土砂に埋もれて木々が鬱蒼とし
一見、森の一部にしか見えなかったと言います。
そもそも、人間国宝の荒川豊蔵氏が
昭和初期に、この地の山奥でその破片を発掘するまで
美濃焼きは瀬戸で作られていた と伝えられていました。
発掘された多くの美濃桃山陶も、その様子から
“廃棄されていた”とも見られています。
そう、まるでガラクタのように・・・。
幾何学模様にひしゃげた形の超前衛的なスタイルで
当時の文化のピークを迎えた織部茶碗。
一気に時代の頂点に登りつめ駆け抜いたその迫力は
展示されている出土品からもビシビシ伝わってきます。
美濃桃山陶への憧れは
歴史が物語る
そんな数奇な運命への想いから
沸いていくるのかも知れません。






