最近、世間を騒がせている『お茶泥棒』が、今夜もまたある家に忍び込んだ。
お茶泥棒はいつものようにお湯を沸かし、その家にあったとびきり香りのいいアールグレイの葉をティーポットに入れた。
しばらくしてお湯が沸くと、彼はていねいに茶葉の入ったティーポットへお湯を注いだ。流れ落ちるお湯の量を一定にして、できるだけ音をたてずに注ぐ。ていねいに、慎重に。
ポットからは湯気とともに香りがふわりとたちのぼってくる。
しーんと静まりかえった深夜、お茶泥棒の優雅な時間が今まさに始まろうとしていた。
しかし、その瞬間、二階からごそごそと音が聞こえてきた。扉を開く音がして、住人が階段を降りてくる足音が聞こえてくる。
お茶泥棒は激しく混乱した。
お茶泥棒になってまだ日の浅い彼にとって、初めて体験する危機的状況だ。
だが、どんなに新米であっても、危機的状況は待ってくれない。住人の足音は止まることなく、気配は確実にこちらへと近づいてくる。
お茶泥棒は何かしらの行動を起こさなければならない。
逃げるなり、隠れるなり、状況を少しでもマシな方向へと動かさなければならない。そういう状況だ。
しかし、お茶泥棒は金縛りにあったみたいに硬直し、その場に立ちつくしてしまっていた。
そして、とうとう一階に降りてきた住人と鉢合わせしてしまったのだ。
住人は三十代前半と思われる女性だった。
「あ、あなたは!」と驚いた住人は言い、お茶泥棒はティーポットを手に持ったまま、住人をじっと見返した。
住人の驚きは相当なものだったが、どうにも尿意が我慢できないらしく「とりあえずトイレへ行くわ。話はその後で聞くから」と言って、彼女はそそくさとトイレへ行ってしまった。
逃げるには絶好のチャンスだった。
しかし、「話は後で聞く」と言われてしまうとこの場を去るのが申し訳ないような気がして、お茶泥棒はその場から立ち去ることができなかった。
それと、もう一つ。
このまま彼女のことを待っていて、何かしらの話をしたとしても、もの凄くマズイ状況にはならないんじゃないか、という気が彼はしていたのだ。
はっきりとした理由などない。ただ、そう感じただけだ。
結局、彼は彼女が用を足すのを待った。
しばらくして、ジャーという水を流す音がして、住人がトイレから戻ってきた。
用を足す間に事態を冷静に受け入れたのか、彼女はとても落ち着いているように見えた。
お茶泥棒の方もまったくの平常心というわけではなかったが、それなりに呼吸を整え、住人のための紅茶を用意するくらいの余裕は取り戻していた。
住人はダイニングテーブルに用意された二つ目のティーカップを見て、呆れながら、少し笑った。
「お茶泥棒ね?」
住人が言うと、お茶泥棒は照れくさそうに頷いた。
照れるシーンではなかったが、ほかに適当な反応がみつからなかったのだ。
住人はお茶泥棒を上から下まで眺め回した後、疲れた体を投げ出すように乱暴にイスに座った。
そして、ティーカップの一つを指さし「これ、私の?」という意味合いの視線を向けた。
慌てて彼はうなずいて、「どうぞ」という感じで手のひらを差し出した。
彼女は熱い紅茶を一口すすり、「あなたどうしてお茶泥棒なんてやってるの?」とあまり興味がなさそうに尋ねた。
「家業だからですよ」とお茶泥棒は答えた。
そして、言い訳がましいとは思ったが、「ぼくだって好きでやってるわけじゃないんです」とつけ加えた。
「へぇ・・・家業なんだぁ・・・」住人はそう言いながら、もう一口紅茶を飲んだ。
「じつは、ぼくは次男なので、もともとは兄貴が家業を継いでいたんです。そのころには、自分がお茶泥棒になるなんて夢にも思っていませんでした。
でも、一昨年の暮れに兄貴が泥棒に入った先である女の人と出会って、そのまま結婚しちゃったんです。
詳しい経緯は知りませんが、とにかく突然の出来事でした。
それで仕方なくぼくがお茶泥棒を引き継ぐことになったんです」
「ふーん、なるほどね。でも、お茶泥棒って、結婚したらできないものなの?」と彼女は聞いた。
「いえ、そういうわけじゃないんです。ですけど、兄貴の奥さんはブラジル人で、兄貴夫婦はそのままブラジルに行っちゃったんです。
まあ、兄貴もそれなりに責任を感じて、しばらくはブラジルでお茶泥棒を続けてくれていたんですが、やっぱりブラジルはコーヒーが主流らしくて、なかなかうまくいかなかったみたいです」
「ふ〜ん。それであなたが継ぐことになったのね」
「まあ、そういうことです」
「あなたも、いろいろと大変ね」
そう言って、住人はもの凄く大きなため息をついた。
まるで自分の悩みを重ね合わせ、全部まとめてテーブルの上にぶちまけたみたいな、大きな、深いため息だった。
「あの、何か、悩み事でもあるんですか?」お茶泥棒は恐る恐る尋ねた。
きかないわけにはいかないほど主張に満ちたため息だったからだ。
「まあ、いろいろね・・・」
住人は疲弊したトーンでそれだけ言うと、テーブルに肘をついて紅茶を啜った。
その後、二人はため息をついては黙り込み、黙り込んではまたため息をついた。
真夜中に見知らぬ二人がお茶を飲みながら、ため息ばかりついているのはひどく奇妙だったが、それはそれで悪くない時間だった。
お互いが抱えている問題は何一つ解決しないが、少なくともその場はとても平和で、静かで、落ち着いていた。
しかし、夜が明けるまでずっとこうしているわけにもいかない。
お茶泥棒は小さな声で「じゃあ、ぼくはそろそろ帰ります」と言って立ち上がった。
「ああ、そうね」と住人は言って、当たり前のように玄関まで見送りにきた。
そして、玄関に座って靴を履いているお茶泥棒に向かって「あのさ、参考までに聞かせて欲しいんだけど、お茶泥棒の妻って結構大変なの?」と尋ねた。
お茶泥棒は彼女の真意をつかみかねたが、「どうでしょうか、今度お袋にきいてみます」と律儀に答えた。
彼女は少し間を開けてから、「そう……ありがとう……」と言って、小刻みに二、三度頷いて見せた。
お茶泥棒が玄関から外へ出ると、彼女も一緒に出て、ゆっくりとした足取りで帰っていくお茶泥棒を眺めていた。
数十メートル先でお茶泥棒が振り返ったとき、彼女はまだ玄関先に立ち、彼の姿を眺めていた。
彼は彼女に向かって少しだけ頭を下げた。
すると、彼女はちょっとだけ手を挙げて、何かをためらっているみたいにその手をふわふわと振った。
お茶泥棒は自分も手を振ろうと一度は手を挙げたが、結局は振らずにそのまま手を下ろした。
そして、彼はもう一度頭を下げてから、くるりと振り返って帰って行った。
彼女はお茶泥棒の姿が見えなくなると、「はぁ〜ぁ」と大きなあくびを一つして、バタンと玄関の扉を閉めた。
