『カシスウー論』 ~乃木坂の居酒屋『魚真』編~


こんにちは イイダテツヤです。 
第62回『カシスウー論』は乃木坂の居酒屋『魚真』編です。

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乃木坂の交差点からほんの少しだけミッドタウン方向へ進んだ道路脇に、
いかにも「新鮮な魚を食わせまっせ」というお店がある。

漁師旗がど~んと飾ってあって、
店内と外の道とを区別しているのはビニールシートだけという粗末なつくり。

居酒屋『魚真』は、漁師町で地元の常連さんばかりが集うお店のような雰囲気をたたえている。

その雰囲気に違わず、おいしい魚が安く食べられるし、
二階にあるテラス席(というより広めのベランダ)で、
夜風にあたりながらカシスウーロンを飲んでいれば、これはもう最高の気分になれる。

私たちは、土曜の夜でも6時くらいに訪れたのでスムーズに入店できたが、
それから一時間もしないうちに店内はいっぱいになったので、
普通に行こうと思ったら予約が必須の店なのだろう。

乃木坂へ行く機会があれば、ぜひ一度行ってみてください。


『魚真』へ行ったその日の昼間、私は東大駒場キャンパスで行われたリビングライブラリー
というイベントに参加した。

リビングライブラリーを直訳すると「生きた図書館」ということになる。

その意味通り、障害のある人やホームレス、セクシャルマイノリティーなど、
偏見や誤解を受けやすい人たちを「本」と見立て、一般参加者が「本を借りる」という形で、
その人たちと話をするというイベントだ。

「本」とか「借りる」と表現すると返ってわかりにくくなるけど、
簡単に言ってしまえば、いわゆるマイノリティの人たちと個人的に話ができるというイベントだ。

話といっても一対一ではなく、むこう一人に対して参加者三、四人で小さなグループを形成する。

ちなみに、私はそのイベントで三人と話をした。

一人は、自身が全盲でありながら、盲聾(もうろう)の人たちの支援をしているという人。
盲聾とは、「盲」と「聾」の二つの障害を同時に抱えている人のことで、
目も見えないし、耳も聞こえないという状態だ。

この人からは、目が見えないという自身の経験と、
目が見えず、耳も聞こえない人への支援のあり方、むずかしさなどを聞いた。


そして、二人目は薬物依存から回復したという人物だった。
十代のころから覚醒剤を常用し、依存症となった壮絶な体験を聞かせてもらった。

以前、「覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか」という政府公報のキャッチコピーが話題になったが、
「覚醒剤によって人間をやめる」とはどういうことか、そのリアルな淵を少しだけ見たような気がした。

体験者から直に聞く覚醒剤の恐ろしさには、ある種の「凄み」が備わっていた。


最後に話を聞いたのは、高次脳機能障害を持つ24歳の若者だった。
高次脳機能障害と聞いて、すぐに理解できる人は少ないだろう。

彼の言葉を借りるならば、
「他の動物にはない、人間だけが持っている優れた脳機能」はすべて「高次脳機能」にあたるという。

わかりやすいところを言えば、相手に特別な感情を抱いたり、高度に人とコミュニケーションをしたり、
体験から得た情報を巧みに応用して、生活に役立てるなどの能力がそれにあたるのだろう。

乱暴な言い方をすれば、けっこうハイレベルな脳機能はだいたい高次脳機能ということだ。

「なんでもかんでも高次脳機能にあたる」と感じられるほど、機能が多岐に及ぶため、
高次脳機能障害には、じつにさまざまなケースが存在する。

つまり、高次脳機能障害といっても、まったく違う障害を抱えている人もたくさんいて、
私が話を聞いた彼の場合なら、人の顔をうまく覚えられないとか、
何度も訪れている場所の地理を覚えられないなどの障害を持っているらしかった。


もともと、記憶とは「書き込み、保持、取り出し」の三段階で構成されているという。

ある人の顔を見て「これは山田さんだ」と書き込んだら、
脳のどこかでそれをていねいに保持しておいて、
次に同じ顔を見たときに、「これは山田さんだ」と情報を取り出すわけだ。

そうやって私たちは「こんにちは この間はどうも」などとあいさつすることが可能になる。

言ってしまえば当たり前の話だが、じつはこの過程にはものすごく高度な機能が作用している。

たとえば、以前に会った山田さんと、二度目に会う山田さんは、厳密には同じ存在ではないはずだ。

そもそも服装が違うだろうし、会う場所も、時間も同じはずはない。
表情も違えば、正面の顔か、横顔か、座ってるか、立っているかなど、ありとあらゆる相違点が存在する。

しかし、私たちの脳は「あれは山田さんだ」と断定することができる。

何が同じで、何が違う場合に「同じ」と処理するのか、その詳しい部分はまったくの不明だが、
その微妙な振り分けを、私たちの脳は当たり前のこととして日々行っている。

明らかに、これも高次脳機能の一つなのだ。


似たようなことがが地理に関しても言える。
何度も訪れた場所だからといって、目に映る風景は決して「同じ」ではない。
車や自転車の通り方も違えば、その日によって天気も違う。

そう言われてしまうと、いったい私たちは「違いばかりの情報から、どうやって『同じ』を判断しているのだろう」
という疑問が浮かび上がってくる。

高次脳機能障害を持つ彼は、目の前の私たちに向かって、
「あなたの正面の顔と横顔とでは、ウサギとトラほどに違う」と自分の感覚を表現した。

「それほど違いがあるのに、同じだと判断することなどできない」と彼は言うのだ。
 
その影響で、彼は映画を観ていてもストーリーを追うことができないのだと言う。
同じ主人公でも、右から歩いてくる場面と、左から歩いてくる場面では、まったく別の人間になってしまうからだ。

膨大な数の登場人物が入り乱れ、
同じキャラクターがほとんど二度と登場しないのだから、話の筋など理解できるはずがない。

彼は私たちにその種の話をいろいろと聞かせてくれた。


私はこの文章を書くにあたり、少しでもわかりやすいように、イメージしやすいようにと心がけている。
しかしそれは、彼の話を私なりに咀嚼し、「別のもの」として表現しているに過ぎない。

実際に彼と話している間、私が本当に感じていたのは
「わからない、わからない、わからない」という感覚ばかりだった。

そのくらい彼の感覚を「わかる」ことは困難だった。

そのことは彼自身が十分に理解していて、
「リビングライブラリーのようなイベントに参加して、
障害を持つ人のことをわかったと思って欲しくはない」と語っていた。

「むしろ『こんなにもわからないんだ』ということを持ち帰って欲しい」と彼は言った。
「それこそが自分の一番のメッセージだ」と。

彼の真意と、私が感じ取ったものとが、同じであるかどうかは不明だが、
たしかに私は「わからない」という感覚を強く印象づけられた。

正直言って、これまでに体験したことがないくらい「わからない一日」だった。


高次脳機能障害の彼だけでなく、その他の人たちも話の最後に質問を受け付けてくれた。

普段、私はさまざまな人のところへ取材に行き、話を聞いてくる仕事をしている。
言わば、質問のプロなのだ。

しかし、彼らの話を聞いたすぐ後では、うまく質問することができなかった。

テレビのドキュメンタリー番組を観るのとは違って、
目の前で彼らを見て、直接話を聞いてみると、その「わからなさ」は想像以上に強烈だったからだ。

この日の経験をある人に話したとき、
その人は「この場合はどうなのかな?」「こんなことは起こらないの?」などと、たくさんの質問を投げかけてきた。
 
しかし、その質問のほとんどに
「それはわからないんだよ」「それもわからないんだ」と私は答えるしかなかった。

「きっと、こんな感じじゃないかな」と想像を語ることさえ困難なほど、私には圧倒的にわからなかったからだ。


でも何か、もしかしたらけっこう大切な何かを、
心のなかで受け取ったのかもしれない、というおぼろげな感覚だけは残った。

とにかく、そんな「わからない一日」だった。



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