『カシスウー論』 ~ゆっくり行けば、遠くまで行ける・・・編~


 こんにちは イイダテツヤです。 
 第94回『カシスウー論』は『ゆっくり行けば、遠くまで行ける・・・』編です。

--------------------------------------------------------------------------

 ゆっくり行けば、遠くまで行ける。

 私の好きな言葉の一つだ。
 以前テレビでジローラモさんが紹介していたもので、イタリアの古いことわざなのだそうだ。

 最近よくこの言葉を思い出す。

 いま日本には、大きな地震とその後の原発問題などで早急に対処しなければならない課題が山積している。
 個人レベルにおいても「いまできること」「いまやるべきこと」「いまやるべきでないこと」など、
 さまざまな「いま」が世の中に溢れている。

 もちろん、それらは大事なことだ。

 いま生きることが精一杯の人はたくさんいるだろうし、
 計画停電、放射能汚染、風評被害などでいままさに会社が倒産してしまうとか、
 農業・漁業などの事業が廃業に追い込まれそうだという人も少なくないだろう。

 そんな切迫した状況では「いま、どうすべきか」を考えるほかない。


 ただ私は(自分が被災した当事者でないからだろうが)、
 世の中で起こっていること、それらについて交わされる意見や考えなど、
 さまざまな事柄があまりにハイスピードでやりとりされ、決定され(あるいは決めつけられ)ている様に、
 少しついていけないと感じている。

 何が正しくて、何が間違っているのか。
 何が被災者のためになることで、何がためにならないのか。
 どれが正しい自粛で、何が不謹慎なのか。
 誰が悪くて、誰が悪くないのか。
 ボランティアは必要なのか、不要なのか。
 神戸の震災を経験した人の声に耳を傾けるべきなのか、そうでないのか。
 いまは悲しむべき時期なのか、元気を出すべき時なのか。
 「こんなときこそ元気を出そう」という人の、その元気は大丈夫なのだろうか。
 「震災ムードに浸ってないで、日常を暮らそう」という人のいう日常とは、どのくらい本当の日常なのだろうか。

 そういったさまざまなことがスピーディに(ときに安易に)決定され、すぐにうねりを生み出す様に、
 私は言いようのない違和感を覚えるのだ。

 元気を出すのも、落ち込むのも、情報をキャッチするのも、あえてシャットアウトするのも、
 何かに同調するのも、声高に非難するのも、すべて悪いことではない。

 ただ、そのどれもが正解であるはずはなく、
 一時的かつ不安定な「ふわふわした何か」でしかない、と私は思っている。

 それはそれでもちろんいい。
 けれど、自分が「ふわふわした何か」を握っていながら、
 まるで唯一無二の正解を手にしたように空高く突き上げたり、
 「それは本当に正解なのか?」と相手に詰め寄ったりするのは、
 あまりに時期が早すぎるし、なんだか危険な感じがする。
 
 どんな意見、どんな立場、どんな判断、どんな行動も、
 少なくともいまにおいては、すべてが同じ渦のなかで起こっている出来事だ。

 地震に影響されない生き方などほとんど不可能に近く、
 元気を出すことも、落ち込むことも、結局は同じことの単なる裏表ように、私は感じる。

 だからこそ、慌てて右に寄ったり、左に集まったりするのではなく、
 「いまはあっちへ行ったり、こっちに戻ったりしているけれど、もう少ししたらいろんなことが見えてくるだろう」
 という伸びやかな感覚を持ち、可能な限りスローダウンしたいと私は個人的に思っている。

 こんなときだから(もしかしたら、こんなときでなくても)何が正しくて、何が間違っているかなんてわからない。
 でも、分かれ道ではどうしたって右か左に行かなくちゃいけないから、とりあえず右に行ってみる。
 間違っているかもしれないけれど、とりあえず右に行ってみる。

 そんな思いが必要だと私は思うし、
 もし、誰かにそんな言い方をされたら、それはそれで意外に安心できたりもする。
 「これが正しい」と言って突き進んでいる人より、そんなタイプを私は信用したくなる。


 正直に言うと、こんな文章を書くことさえ、ちょっと時期が早すぎると私は感じている。
 世の中の状況はまったく落ち着いていないし、私自身の思いも、考えもまるでまとまっていない。

 それなら地震とはまったく関係のない話を書けばいいじゃないかと思い、いろいろ考えてみるのだが、
 それはそれでうまくいかない。

 自然な歩き方を意識するあまり、
 とんでもなく不自然になってしまう卒業式の小学生みたいな気分になってしまうのだ。



 こんなときだからこそ、私の脳は何かの警鐘を鳴らすように
 「ゆっくり行けば、遠くまでいける」という言葉を、何度となく思い出させているのかもしれない。

 それなら、まずはスローダウンしよう。
 
 行動は迅速であるべきかもしれないが、
 その評価や「正しさの追求」については、もっと先に延ばしてもいいんじゃないだろうか。

 この私の意見だって、正しいのか、間違っているのかなんてまったくわからない。
 「オマエは正しい」と言われれば「そうですか。ありがとうございます」と応えるし、
 「オマエは間違っている」と言われれば、「そうですか。すみません」と応じるほかない。

 きっといまはそんな時期なのだ。

 ゆっくり行けば、遠くまで行ける。
 ともすれば、呑気で、無責任に感じるこの言葉が、私はけっこう好きなのだ。