数秒前、私は交通事故に遭い、気がついたときには地面に横たわっていた。

 なんとか起きあがろうと腕に力を込めてみるが、腕はぴくりとも動かない。自分の腕がどこにあるのかわからないほど、全身の感覚が麻痺しているのだ。

 

 ひょっとしたら、死ぬのかもしれない。

 

 よく聞く話のように、人生が走馬燈の如く駆け巡ってはいないが、自分が死に向かっていることは、なぜだかぼんやりと理解できた。

 

 死を目の前にして、私は二日前に生まれた三匹の仔猫のことを思い出した。三匹のうち、一匹にはまだ名前をつけていない。これはなかなか困った話だ。このまま私が死んでしまったら、あの仔猫は一生名なしのまま過ごすことになってしまう。

 そもそも始めの二匹に『トラン』と『ポリン』なんて名前をつけるから、三匹目の名前が決まらないのだ……

 今さらながら、自分の愚かさを悔やんだ。

 

 しかし、『トラン』と『ポリン』という名がひどく気に入ってしまったのも事実で、そのときはどうすることもできなかったのだ。

 名前のない三匹目の猫には本当に申し訳ないが、今となってはどうにもならない。彼には名無しの人生を送ってもらうとして、私は次に台所の蛇口のことを考えはじめた。

 

 少し前から、ウチの台所の蛇口はパッキンがゆるんでいるらしく、いつもポタポタと水滴が垂れている。

 明後日の午後には業者がやってくる手はずになっているのだが、私がこの調子ではそれもままならないだろう。きっと、わざわざうちに来てくれた業者の人は「せっかく来てやったのに留守かよ、チェッ」なんて悪態をついて帰るだろう。「舌打ちまでしなくたっていいのに……」とは思うのだが、もちろん悪いのは私の方だ。業者の人は何も悪くない。

 

 しかしそうなると、台所の蛇口は、私が死んで、葬式が終わり、不動産屋に物件情報が載り、新しい住人がやってきて、その人が大家さんに「水がポタポタ垂れてるんですよ!」とかなんとか連絡をして、再び業者の人がやってきてパッキンを取り替えるまで、ひたすら水滴を垂らし続けることになる。

 

 永遠に訪れないんじゃないかと思えるほど、先の話だ。

 

 私は無駄になる水の粒と疲れ果てたパッキンのことを思い、涙を流した。

 誰にも気づかれることなく、ひっそりと水滴を垂らし続ける蛇口があまりに不憫に思えたのだ。

 

 私としては、頬を伝う涙を拭いたいところだが、肝心な手を動かすことができない。これはなかなか惨めなものだ。

 やむを得ず、涙は流しっぱなしにすることにして、次にユウコのことを考えた。

 

 恋人のことを思い出すのが、仔猫と台所のパッキンの後というのもいささか失礼な話かもしれないが、ユウコには先週ふられたばかりなので、厳密に言えば、元恋人だ。自分をふった元恋人なのだから、このくらいの順番がちょうどいいのだと、私は自分を納得させた。

 

 結果的に、私の一方的な思い込みだったのだが、ユウコとは真剣に結婚を考えていたので、別れを切り出されたときは立ち直れないほどショックを受けた。

 彼女にも私のショック大きさは伝わっているだろう。

 

 残念なことに、私はショックが顔に出るタイプだ。

 喜びはあまり顔に出ないのだが、ショックはじわじわと顔に出る。

 ユウコに別れ話をされたときも、ショックがじわじわと顔に出ていたはずだ。

 できることなら、もっとクールな男になりたかったが、そのあたりは、水道のパッキンのように簡単に交換できるものでもない。

 

 しかし、ひどくショックな失恋をした後に、この状況はマズイ。

 ひょっとすると、ユウコは私が失恋を苦にして自殺を図ったと思うかもしれない。

 

 そんなことになれば、彼女は私をどう思うだろうか。

 馬鹿な男と軽蔑するだろうか、それとも、良心の呵責を感じて一生十字架を背負い続けるだろうか。

 どちらにしても、後味の良い結末とは言いがたい。

 私はなんとしても、これが単なる事故で、決して自殺などではないと彼女に説明しなければならない。もし、このまま死んでしまったら、誤解を解くチャンスは永遠に訪れない。

 

 そう思うと、全身に力が甦ってきた。

 全身の血と肉がぐるぐると回りだし、あらゆる細胞が私の身体を持ち上げようと活動を開始した。

 

 しかし残念ながら、体中の細胞が必死に頑張ったところで、私の身体を持ち上げるには至らなかった。

 

 世の中には気持ちや気合いではどうにもならないことがある。

 

 ずっと昔、そんなことを教えてくれた人がいたが、それが誰なのか、今となっては思い出せない。きっとたいした人じゃなかったのだろう。考えてみればそれほど立派な言葉でもない。

 

 私はいろんなことを諦めて、ゆっくりと目を閉じた。

 瞼の裏には、出会った頃のユウコの笑顔が浮かんできた。普段は目が大きいのだが、笑うと三日月みたいに細くなってしまう、あのチャーミングな笑顔だ。

 

 彼女の笑顔に看取られて、静かに眠りにつくのはなかなか悪くない最期かもしれない。交通事故に遭い、地面に横たわり、身動きひとつ取れない今の私の状況を考えれば、最良の最期と言える。

 

 しかし、そう言えば、さっきから誰かが私の頬をパシパシと叩いている。

 そして、耳元で、何かワーワー叫んでいる。

 

 あれ、もしかして、私は助かるのか?

 それはそれでありがたい気もするが、ここでもし助からなかった場合、見ず知らずの誰かの顔を拝みながら、私は人生の最期を迎えることになってしまう。

 さすがに、それは避けたいたところだ。

 

 見ず知らずの人に会って「はじめまして……さようなら……」なんて最期は、できることなら避けたいものだ。

 

 だから、私はギュッと目を閉じたままでいた。

 私のことを心配し、助けてくれようとしている人にはじつに申し訳ないが、見ず知らずの誰かの顔を見るくらいなら、私はユウコの笑顔を見続けていたいのだ。