クウチは恋をした。
そしてその恋が本物であることにクウチは気づいていた。
クウチは小学四年生で、それほど経験豊富とはいえなかったが、この恋だけは間違いないと確信していた。
たとえば、その恋を手のひらに乗せてみれば、驚くような重量感があるし、見たこともないような輝きがある。この恋に比べれば、これまでの恋なんてパサパサの食パンのようなものだ。
それだけにクウチはこの恋に燃えていた。
相手はキノコの研究をしている大学院生だ。
つまらない計算ばかりをする人は、すぐに「不釣り合いな年齢差だ!」「小学生と大学院生の恋なんておかしい!」と言う。
でも、そんな奴らには彼が研究しているキノコのなかでも、とびっきり毒性の強いやつを食わせればいい、とクウチは思っていた。
彼はいつも大学の研究室に籠もって、ナントカ菌の様子を顕微鏡で眺めては、何かしらのデータを記録している。
シワだらけの白衣も、ずり落ちそうな銀縁メガネも、クウチにとってはセクシー以外の何ものでもなかった。
クウチは学校帰りに研究室を訪れ、白衣を着た彼の背中を飽きることなく眺め続けた。
彼はいつも研究に夢中で、クウチのことなどまるで目に入っていないみたいだった。
そんな彼の様子は、クウチの小さな胸を少しだけ傷つけたが「これは受け入れなくてはいけないことなのよ」とクウチは自分を納得させた。
わがままで、モノわかりの悪い女は、クウチの目指すところではなかった。
「わたしはあなたに恋をしてるの」
あるときクウチは彼に言った。
彼は紙コップでコーヒーを飲みながら、「恋?」とひどく素っ頓狂な声をあげた。
素敵な反応とは言えなかったが、クウチはめげなかった。
本物の恋に障害はつきものだ。
それは今まで読んだ本にも書かれていたし、ドラマに出ていた女優も言っていた。
だから今は、めげてなんていないで、はっきりとした言葉にしなければならない。
「だから、あなたも私に恋をして欲しいの」
クウチは彼をまっすぐに見つめて言った。
彼は驚きと困惑で慌てふためき、曇ったメガネを白衣の裾でごしごし擦った。
「でも、僕はキノコのことしかわからないんだ……」
彼の返事はクウチの美学にはそぐわない、ひどく間抜けなものだったが、「それでも全然構わないわ」とクウチは応じた。
実際にそれでも構わないとクウチは思っていたのだ。
結局それ以上彼は何も言わなかったので、クウチの恋が成就したのかどうかイマイチはっきりしなかったが、その日以降、彼は少しずつクウチのことを理解するようになっていった。
それはそれで大きな進歩だ。
彼は、クウチのためにロイヤルミルクティをいれてくれるようになったし、研究の合間にクウチの好きなラブサイケデリコのCDをかけてくれるようにもなった。
最初のころ、彼が作るミルクティは妙に薄くて、お世辞にもおいしいとはいえなかったが、しばらくするうちにだんだんとおいしいミルクティをいれてくれるようになった。
彼は研究者らしく何度も実験を繰り返すなかで、紅茶の葉とミルクの量のバランスを探り、蒸らし時間や温度についても最高の値を見つけ出した。
彼の目的はあくまでもおいしいミルクティをいれることだったが、結果として彼は少しずつクウチのことを理解するようになり、気がつくと、彼もクウチを好きになっていた。
ミルクティの研究が彼を夢中にさせ、知らず知らずのうちにその“夢中のもの”のなかにクウチが含まれていったような感じだった。
クウチも彼のミルクティが素晴らしくおいしくなったことは認めていた。
でも、その頃にはクウチの気持ちに微妙な変化が起きていた。
ミルクティはすばらしくおいしいはずなのに、日が経つにつれて、パサパサの食パンのような味しかしなくなっていったのだ。
「おいしいはずのミルクティがパサパサの食パンの味しかしないなんて、なんだかおかしいわ……」とクウチは思っていた。
そして、ある日
「もう駄目みたい」とクウチは彼に告げた。
「どうしてだよ。僕はキノコのこと以外にも、君の音楽の趣味やおいしいミルクティについてもわかるようになったじゃないか」
彼はずり落ちるメガネを何度も持ち上げながら、必死になって食い下がった。
クウチの目線に合わせるように、彼は小さくしゃがんだが、クウチにしてみれば、なんとも言えないカビ臭さが漂うだけだった。
「残念な匂いだわ」とクウチは言って、すたすたと研究室を後にした。
それが恋の終わりだった。
それから彼は再びキノコだけの生活に戻り、クウチは新しい恋をした。
今度の相手は、行きつけの美容室の店長だった。
以前にも増して歳の離れた相手だったが、そんなところにイチイチ文句を言う奴には、鼻がひん曲がりそうな、強烈な臭いのカラーリング剤をぶちまけてやればいいと思っていた。
この恋はこれまでのつまらない恋とはまるで違う。
そして、本気の恋に障害はつきものだ。
だからこそ、クウチは燃えた。
