真夜中になると、彼は必ず川べりにやってきた。

 大切なものを毎日ひとつずつ家から持ってきて、それを丁寧に川に流すのだ。彼は、その日のものが川に流れていく、あるいは沈んでいく様子をじっと眺め、姿が見えなくなるのを確認するとひっそりと帰っていった。

 

 手帳、鏡、ハーモニカ、写真、鉛筆削りなど、これまでにさまざまなものが川に流されていった。

 

 そんな彼の姿を彼女はこっそり観察していた。彼女の家は川べりにあって、部屋の窓から彼の姿を見ることができたのだ。

 

 はじめは彼の不可解な行動をただぼんやりと眺めるだけだった。

 真夜中にやってきて、何かしらを川に流して帰っていく。不審な行動といえばたしかにそうだが、なぜだが彼からはそれほど悪い感じは受けなかった。

 

 ある時ふと思い立って、彼女は彼が流すものをノートに記録するようになった。どんなに忙しいときでも彼が訪れる時間には必ず窓辺に立ち、ひとつ残らず記録に残した。彼が流すものを正確に見極めるために双眼鏡と暗視カメラまで用意した。

 

 彼が毎日何かしらを川に流し、彼女がノートに記録する。

 それは二人が交わる小さな点となり、いつしか彼女にとって一日を締めくくる大切な儀式となっていった。

 

 数ヶ月が経ち、彼女のノートは彼の流したものでいっぱいになった。

 彼女は、びっしりと書き込まれたノートを見ていると、なんだか彼を身近に感じられるようになった。

 

 しかし同時に、彼女は不安を募らせてもいた。

 もし、流すものがなくなったとき、彼は自分自身を川へ流してしまうのではないだろうか……

 そう思うと、暗視カメラを握る彼女の手にじっとりと汗が滲んだ。

 

 ある雨の降る夜、彼はいつものように川べりに姿を現した。

ひょっとしたら、今日かもしれない……

 彼女は全身で不吉な予感を感じていた。

 

 その予感が自分の思い過ごしであることを祈りながら、彼女は注意深く彼の様子を観察した。

 どんなに目を凝らしても、彼の様子に変わったところは見受けられない。たしかに、今日流すものをはっきりと確認することはできない。でも、それは今までにも何度もあることだった。ポケットにしまわれたボールペンであったり、手のひらにすっぽりと収まってしまう貝殻であることもあった。そうした小さなものを流すときは、流す直前まで、彼が何を流すのかわからないこともしばしばあったのだ。

 

 だから今日、彼が何も持っていないように見えたとしても、本当に何も持っていないわけではないのだ。これまでの経験からすれば、きっと、きっとそうなのだ。

 

 それなのに彼女の不安は増大するばかりで、みるみるうちに予感が確信へと育っていく。もしかしたら、降りしきる雨の音が、彼女にそう思わせているのかもしれない。

 

 もうじっとしてはいられない。

 

 何かに突き動かされるように、彼女は窓辺を離れ、玄関を飛び出した。

 雨に濡れた河川敷を彼女は走った。降りしきる雨と夜の暗さのせいで視界はほとんど遮られている。

 

 水際まで着いたとき、もしそこに彼がいなかったら・・・

 

 そう思うと、彼女の心は押しつぶされそうになる。ぬかるんだ地面に足を取られながら、彼女は夢中で走った。

 そして水際までやってきたとき、彼女は彼の姿を捉えた。肩で大きく息をしながら、彼女は彼をじっと見つめた。

 彼もまた、そんな彼女を不思議そうに見つめていた。

 

 「間に合った」と彼女は言った。

 「間に合った?」と彼はきき返した。

 「そうよ・・・間に合ったの・・・」切れた息を整えながら、彼女は言った。

 

 彼は呆然としたまま、彼女の呼吸が整うのを待っていた。

 「今日はそれを流すのね」そう言って、彼女は彼が手に持っている小さな木箱を指さした。

 「オルゴールなんだ」と彼は言った。

 

 それを聞いて、彼女はふぅ~と大きく息を吐き出した。

「流してしまうまえに一度だけ聴かせてもらえないかしら?」

 彼女がそう言うと、彼は小さく頷いて、ギリギリと音をたててゼンマイを巻き始めた。そして、ゼンマイをいっぱいまで巻き終えると、彼はゆっくりと蓋を開けた。

 

 降りしきる雨のなか、消え入りそうな金属音が少しずつあたりの空気を塗り替えていく。

 二人はしばらくオルゴールの音色に聴き入った。

 メロディが一周したところで、「これはなんていう曲なのかな?」と彼が尋ねた。

 

 「星に願いを」彼女は答えた。

 

 それは彼女の大好きな曲だった。

 彼は何も言わず、雨に打たれる川面を眺めていた。

 

 その日を境に彼は二度と川べりに姿を現さなかった。そして彼女の記録も終わることとなった。

 「星に願いを」

 ノートの最後のページにはそう記してある。