『カシスウー論』 ~本と映画のAutomatic戦争・・・編~

 こんにちは イイダテツヤです。 
 第97回『カシスウー論』は、本と映画のAutomatic戦争・・・編です。

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 私は職業柄、出版関係の人とつき合う機会が多い。
 そして、なぜだか最近は映画関係の人と交流を持つ機会が増えた。

 その二つのジャンルは、私が個人的にとても親しみを持っているという点で共通しているし、
 「なかなか大変な危機に瀕している」という意味でも似た側面を持っている。

 出版関係者のなかには
 「いまに始まったことじゃないけど、本を読む人がどんどん減っている」と嘆く人がけっこういるし、
 映画関係者の多くは「映画館に足を運ぶ人は少ないからねぇ・・・」と悲観的な言葉をよく口にする。

 それはまあ、たしかにそうだと私も思う。
 電車に乗れば、九割くらいの人が、携帯電話をいじっているか、ゲームをしているか、
 寝ているかのいずれかである。

 本を読んでいる人は、おそらく3パーセントくらいだろう。

 映画館へ行っても、客席の三割程度が埋まっていればいい方で、一割に満たないこともしばしばだ。
 私なんて、300人くらい収容できる映画館で、見知らぬ人と二人っきりで映画を観たこともある。
 貴重と言えば貴重な体験だったけど、変に緊張してしまって、ゆっくり映画を楽しめなかった。


 そもそも、本をつくる人、映画をつくる人は「おもしろいものをつくろう」とがんばっているし、
 それを宣伝する人たちは「その魅力を伝えよう」と精力を傾けている。

 でも残念ながら、その試みは全体としてあまりうまくいっていないようだ。
 もちろん、おもしろいものをつくり、それがセールスに繋がっている例もあるが、
 やはりそれは例外的な成功と言わざるを得ない。そんな印象がある。

 なぜ多くの人は本を読んだり、(特に映画館で)映画を観たりしなくなってしまったのだろう。
 逆に私はどうして本を読むのか、どうして本を買うのだろうか。

 考えてみると、答えは意外に単純で、
 私が本を買うもっとも大きな理由は「読んでいた本が終わってしまったから」だ。

 村上春樹の新刊が出たと聞けば、そりゃあとりあえず書店に足を運ぶけれど、
 そんなケースはむしろ希で、たいていは「ああ、次の本を買わなきゃ、読む本がないな」と思い、
 ふらりと本屋に立ち寄るのだ。

 映画についてはそこまで生活に染みついてはいないが、
 2、3か月映画館へ行っていないと「まあ、たまには映画でも観に行くか」という気持ちにジワジワなってくる。
 そして、映画(というより映画館体験)というのは不思議なもので、一度行くとまた続けて行きたくなる。
 そうやって、短期的かもしれないけれど、映画が生活に染み込んでくるのだ。

 この「染み込み」が本を読んだり、映画を観たりする一番の理由だ。
 昔、宇多田ヒカルが恋する気持ちを「Automatic」と表現したが、言ってみればそんな感じに近いかもしれない。

 本を読む(あるいは買う)、映画を観る(あるいは映画館へ行く)というのは、
 突き詰めちゃえば「Automatic」なのであって、
 その本や映画がおもしろいかどうかは、あくまでも二次的な問題だ。

 そりゃあ、おもしろいほうがいいけれど、やっぱりそれが行動の出発点ではないと個人的には思う。

 電車に乗っている人たちを眺めていると、
 それこそ「Automatic」に携帯電話を取り出したり、ゲーム機のスイッチを入れて、操作を始める。
 「おもしろいか、どうか」という以前に、もはや生活に染み込んでいるのだ。

 その反面、本や映画はジワジワと「Automatic」なフィールドから押し出され、
 「わざわざ」の領域に追いやられてしまった。

 この戦いはけっこうシビアで、一度「わざわざの世界」に追いやられてしまうと、その先はいばらの道が続く。

 「わざわざやる」からには、相当な理由と妥当性とモチベーションが必要で、
 その条件が一つでもクリアされなければ「わざわざやる必要はないかぁ・・・」とあっけなく敬遠されてしまう。

 「この本はもの凄くおもしろいんだよ!」「こんな話題の映画が上映されるんだよ!」と声高に叫んでも、
 「わざわざの壁」を突破するのは相当厳しい。

 「わざわざ界」のトップランナーと言えば、記念日に行くフレンチレストランだ。
 余程の理由がなければ、まず行くことはないし、
 「記念日だってフランス料理店になんて行かないよ」とあっさり言われ、遠くへ追いやられてしまうことも多い。

 特定の人が、特定のときにだけ行く特別な場所。

 もちろん、そうやって一部のファンだけが楽しむ世界も悪くはない。
 オペラだって、サーフィンだって、お茶だって、歌舞伎だって、たいていの趣味、娯楽とはそういうものだ。

 しかし、本と映画がそのグループに入ってしまっていいのだろうか。
 それが時代の流れと言うなら、ある程度は仕方がないが、
 本や映画が一部の人だけが楽しむ、ちょっと特別な娯楽になってしまうのは、
 やっぱり寂しい気がしてしてならない。

 そこは何とか踏みとどまって欲しいなぁ・・・と心の底から思うのだ。


 本をつくる人たち、映画をつくる人たちが「おもしろいものをつくる」と張り切り、
 宣伝をする人たちが「作品のおもしろさを伝える」とがんばるのはもちろんいい。

 でも、ここらでひとつ「本と映画のAutomatic化」にもっと精力を傾けていくべきではないだろうか。
 その部分に、もっとお金と時間と労力を費やしてもいいんじゃないだろうか。

 おもしろいコンテンツはたしかに必要だけど、
 いまの世の中(あるいは業界)を見ていると「おもしろい、おもしろくない」とは別のところで、
 下り坂をコロコロと転がっているように思えてならない。


 そんなわけで、ここは一念発起して「本と映画のAutomatic化 委員会」を起ち上げようじゃないか。
 さあ、本と映画の未来を憂う有志諸君、いまこそ集い、「Automatic 戦争」を繰り広げようではないか。

 
 
 つい先日「マイ・バック・ページ」を観たせいか、活動家のようなシメになってしまったけれど、
 大事なことだとは思うんだよね。マジで。