『カシスウー論』 ~日常のすぐ裏側にある『非日常の場所』・・・編~

 こんにちは イイダテツヤです。 
 第96回『カシスウー論』は、日常のすぐ裏側にある『非日常の場所』・・・編です。

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 先日、初めて裁判の傍聴へ行ってきた。
 取材を兼ねてのことだったが、個人的にも前々から非常に興味を持っていた。

 たいていの場合、何か特別な事情でもない限り裁判所に訪れることなどまずないだろうけど、
 (そして、訪れる必要がないのは幸せなことなのだけど)
 一度くらいは傍聴に出かけてもいいんじゃないかと、私は純粋に思った。

 人が裁かれる(あるいは裁く)現場には、やはり独特の雰囲気があるし、
 司法を身近に感じ、司法制度を自分のこととして考えるいいきっかけになるかもしれない。

 テレビや映画で見たことのある光景とは言え、
 それが目の前にあり、すべてが本物というのは、やはり迫りくる強さが違う。
  
 黒い法衣を着た裁判官が入廷する際には、傍聴人を含め全員が立ち上がって迎え入れ、
 被告人は手首に手錠をはめられ、腰にはロープが繋がれた状態で、二人の警備人に伴われて入ってくる。

 最初に傍聴したのは殺人事件だったので、低い柵を隔てたすぐ向こうに殺人犯を見ることになる。
 他では絶対に体験できない世界がそこにあって、その圧倒的な現実感に緊張し、空気がじんわりと重く感じられる。

 裁判所とはそういう場所だった。

 単に節電のせいかもしれないが、廊下はすべて一様に暗く、
 「不要な明るさは必要ないでしょ」という裁判所の意志やスタンスを、無言のうちに示しているみたいだった。

 その重々しさに反して、裁判そのものは比較的淡々と進行していく。
 手慣れた事務作業のように進められるわけではないが、事件の重み、人生への影響に対してみると、
 やはりどこか淡々と、手際よく、予定通りに進めらるという印象が強い。

 様式やしきたりは、厳かで、権威を重んじるが、
 進め方は割合シンプルで、可能な限り無駄を省いていくといった感じだ。
 その不思議なバランスも裁判所の特徴と言えるのかもしれない。


 そもそも裁判には、大きくわけて「新規」「継続」「判決」という三つの段階がある。
 
 私は「継続」と「判決」しか見ていないので、詳しいことはわからないが、
 おそらく「新規」では事件の概要が確認され、「継続」ではより詳細な質問、確認、審議が行われ、
 最終的な「判決」に到るという流れだろう。

 最後の「判決」は、だいたい5分から10分で終わってしまう。
 他にやることがないとは言え、判決が5分で終わってしまうなんて、
11時54分から始まるミニ番組みたいだと、つい私は思ってしまった。

 判決文が読み上げられ、そこに到った理由が述べられ、
 第一審なら控訴についての手続きが簡単に説明される。ただそれだけだ。

 淡々とはしているが、
 被告人、被害者、その関係者たちにとって、大きな意味と、さまざまな思いが凝縮され、交錯する場面だ。

 しかし、もちろん判決自体が淡々と決められたわけではない。 

 私が傍聴した事件のなかには、裁判員裁判も含まれていて、
 三人の裁判官の左右には六人の裁判員が座っており、合計九名が被告人と向き合い、決定された判決を言い渡す。

 彼らの姿、表情を見つめていると、
 「人が人を裁くのは決して簡単なことではないんだ」と物語っているようにも感じられた。

 うまくは言えないけれど、一般の人が何人も参加して判決、量刑を決めるのは、
 やはり相応の意味があるのだと私は思った。
 

 「判決」とは違って「継続中」の裁判を傍聴すると、また違った側面を見ることができる。

 たとえば、ある傷害事件の被告人に対し、弁護人が質問をしているときには、
 「なるほど、そういう事情があったのか・・・」
 「人を刺してしまったのはよくないが、被告人にも相応の事情があったことは否めないな・・・」
 という思いと共に見ているのだが、検察官が質問を始めると、その印象がけっこう大きく変わってくる。

 まったく同じ出来事なのに、まるでそれが周到に計画された、狂気に満ちた殺人未遂事件のように感じられてくるのだ。

 不思議と言えば不思議だし、当然と言えば当然のことなのかもしれない。
 事実とはそのくらいあいまいで、人の感じ取り方に大きく左右されるものなのだろう。

 そこに裁判のむずかしさと(不謹慎ながら、ある種のおもしろさ)がある。

 私の好きな言葉に「真実は存在しない、解釈だけが存在する」というものがあるが、
 まさにその意味を思い知らされる場面だった。


 そして、もう一つ興味深かったのは、
 事件に到る道のりは、ほんの些細な、本当に些細な出来事や偶然が積み重なっているという点だった。

 知識としては知っていても、目の前で現実に起こった顛末を聞かされると、
 「ああ、そうやって事件へと少しずつ転がっていってしまうのか」と思い知らされる。
 
 たとえば、好きな人と出かけたせっかくの食事が楽しくなかったとか、
 次に行こうとした店への道に迷ってしまったとか、
 その途中で雨が降ってきたのに、コンビニで傘が一本しか買えず、結局濡れてしまったとか、
 やっと店に着いたのに、行列ができていて、そのまま入店せずに帰ってきてしまったとか・・・・
 
 そんな些細なことの積み重ねが人の感情を揺さぶり、人と人との関係を壊してしまうことがある。
 その結果、お互いにとって不幸な事件を引き起こしてしまう。
 そういうことが実際にあるのだ。

 被告人を「不幸な人、不運な人」と片付けるつもりはないし、そんなふうに考える必要もないとは思うが、
 誰の人生も、じつは脆い土壌の上にあって、小さな「何か」によって簡単に揺さぶられてしまうのだと、改めて感じた。


 さまざまな意味で、裁判所とはとても興味深い場所だった。
 日常とは少し違うけれど、私たちの日常のすぐ裏側にはこんな場所もたしかに存在している。

 それは私の(あるいはあなたの)パラレルワールドなのかもしれない。


 何が、どう、というわけではないが、一度くらいは裁判の傍聴へ行ってみるといいと思う。
 何かしら、感じること、考えることがあるだろうし、
 そしてそれは「ちょっと大事なこと」のように、私は思う。