『カシスウー論』 ~新宿の居酒屋『えん』編~
こんにちは イイダテツヤです。
第51回『カシスウー論』は、新宿にある居酒屋『えん』編です。
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新宿伊勢丹から新宿通りを渡ったちょうど向かいあたり、丸井の隣にあるビルの7Fに居酒屋『えん』はある。
入口はちょっとわかりにくいが、店そのものは比較的見つけやすい場所にある。
いわゆる和食系の居酒屋で、店内は広く、だいたいどこに座ってもゆったりできるし、
料理は何を頼んでも割においしい。
もちろんカシスウーロンはあるし、
詳しいことはわからないが、日本酒や焼酎なんかも、まあそれなりのものは飲めると思う。
要するに、なかなか良いめの居酒屋ということだ。
どうでもいいことだが、こんな感じのちょっと良いめの居酒屋というのが、
10年ほど前から急激に増えたような気がする。
そのぶん、どこへ行っても似たような感じになってしまうのだが、
エッジの効いた店を求めないなら、適当なところへ入ってもそれなりに満足できる、悪くない世の中なのだ。
ビジネス書の取材などで、会社の社長なんかに話を聞きに行くと、
「近ごろは、消費者のニーズが多様化していますから」なんて話題がよく出るが、
ちょっと良いめの居酒屋(そして、どこも似ている)へ行くたび、
「ホントに、ニーズは多様化してんのかいな?」と思う。
『えん』はそのなかでは、けっこういいほうなので、
お店選びのリストに入れておくと、なかなか重宝するのではないだろうか。
話はガラリと変わるのだが、新宿へ向かう中央線のなかで、20代後半と思われる男性の二人組を見かけた。
学生には見えなかったが、スーツを着ていなかったので、もしかしたらもう少し若いのかもしれない。
そのうちの一人が、おもむろに一冊の本をカバンの中から取りだした。
私は、人が本を読んでいると「いったい、何を読んでるのかな?」と気になってしまうほうなので、
ちらっと本の表紙を見ると『超訳 ニーチェの言葉』と書いてあった。
光沢を抑えた黒一色の装丁で、最近けっこう売れている本だ。
「ふ~ん、コイツ、『ニーチェの言葉』なんか読むんだ」と心のなかで、変に感心していると、
その男が、隣に座っている友だちに向かって「おまえの座右の銘って何?」と唐突に尋ねた。
決していい感じのしない、スノッブで、嫌みな感じのトーンだった。
「まあ、お察しの通り、オレの座右の銘はニーチェの言葉になるわけだけど、
おまえみたいなタイプの場合、どんな言葉に感銘のうけるものなのかな? アァ、ハン(英語の発音風)」
と言っているみたいな感じなのだ。
いまどき、電車のなかで座右の銘を聞くこと自体、ちょっと変わったタイプなのかもしれないが、
それにしても、座右の銘を聞くだけのことで、わざわざ本を取り出す必要などないではないか。
その本がニーチェだろうと、パンチョだろうと、ジャッキー・チェンだろうと、
取り出さなくても、話くらいできるだろう。
こんな嫌みな問いかけに対し、その友だちがどんな返しを見せるのかと思って注目していたら、
やはり、その友だちもただ者ではなかった。
質問を受けた男は、ほんの少しだけ考える素振りを見せてから、
「そうだな。強いて言うなら、座右の銘がないのが、オレの座右の銘かな」とほざいたのだ。
それを聞いた瞬間、「やかましわいッ!」と浜ちゃんばりのツッコミを入れたいところだったが、
電車のなかで、赤の他人につっこむわけにもいかず、
私はただ黙って窓の外を見つめ、必死で笑いをこらえていた。
ちなみに、私は立っていて、二人の男は目の前の席に座っている。
座右の銘がないなら、ただ単純に「別にないな」と言えばいいじゃないか。
何が、「座右の銘がないのが、オレの座右の銘」だよ!
そもそも日本語として、意味がちょっとおかしいじゃないか。
そんなことを思いながら、私はつり革をぎゅっと握り、顔を引きつらせていたのだ。
座右の銘と言っていいのかどうかはわからないが、
私がけっこう気に入っている言葉に「真実は存在しない。解釈だけが存在する」というものがある。
その意味するところは置いておいて、
この言葉に出会ったのは、おそらく二十年くらい前だと思う。
どんなきっかけで知ったのかは忘れてしまったが、
それ以降、私なりの一つの信条というか、哲学のようなものになっている。
じつはこの言葉、ずっと私はゲーテの言葉だと思っていた。
なぜそう思ったのか、理由はまったく不明なのだが、三年ほど前まで、何の疑いもなく信じ込んでいたのだ。
ところが、三年くらい前のあるとき、ふと気になって調べてみたら、なんと、これはニーチェの言葉だった。
しかも、正しくは「事実というのもは存在しない。存在するのは解釈だけである」というらしい。
日本語に訳すときに生じる微妙なニュアンスの差と言えなくもないが、
実際のところ、私は十五年以上もの間、座右の銘の出典も、言葉そのものも間違っていたわけだ。
その事実を知ったときは、心底「あ~あ」と思った。
だって、「あ~あ」と思うしかないでしょ。
しかも、私はゲーテの言葉として、人に紹介したこともあったのだ。
まじで、「あ~あ」だよね。
ニーチェの言葉じゃなくて、「あ~あの言葉」だったらよかったのに。(くだらない・・・)
さすがに私は、電車のなかで『若きウェルテルの悩み』かなんかを取り出しながら、
友人に向かって、「君の座右の銘はなんだい?」なんて聞いたりはしなかったが、
恥ずかしいことに変わりはない。
まあ、でも、私が間違って覚えていた「真実は存在しない。解釈だけが存在する」という言葉のほうが、
語呂がいいし、雰囲気的にカッコイイので、これからもこの言葉を継続利用することに決めた。
私の座右の銘なのだから、私の勝手にさせてもらったって、誰にも文句を言われる筋合いはない。
ただ問題は、出典を聞かれたときにどうするかだ。
細かいことは無視して、「ニーチェだよ」と言っておくのも一つの手だが、
ニーチェ通の人から「それって、微妙に違わない?」と指摘されたら恥ずかしい。
といって、ゲーテで押し通すのはもっと問題だし、
「ややニーチェ」とか微妙なことを言うと、その後でごちゃごちゃと説明をしなければならなくなる。
やっぱり、座右の銘は「生きてるだけで、まるもうけ!」みたいなヤツがいいのかな、と思う。
出典ははっきりしているし、変にカッコつけている感じもしない。
みなさんが薄々感じている通り、
あれこれ心配したところで、座右の銘を聞かれることなんて、まずないんだけどね。
これまでだって一度もないし・・・
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こんにちは イイダテツヤです。
第51回『カシスウー論』は、新宿にある居酒屋『えん』編です。
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新宿伊勢丹から新宿通りを渡ったちょうど向かいあたり、丸井の隣にあるビルの7Fに居酒屋『えん』はある。
入口はちょっとわかりにくいが、店そのものは比較的見つけやすい場所にある。
いわゆる和食系の居酒屋で、店内は広く、だいたいどこに座ってもゆったりできるし、
料理は何を頼んでも割においしい。
もちろんカシスウーロンはあるし、
詳しいことはわからないが、日本酒や焼酎なんかも、まあそれなりのものは飲めると思う。
要するに、なかなか良いめの居酒屋ということだ。
どうでもいいことだが、こんな感じのちょっと良いめの居酒屋というのが、
10年ほど前から急激に増えたような気がする。
そのぶん、どこへ行っても似たような感じになってしまうのだが、
エッジの効いた店を求めないなら、適当なところへ入ってもそれなりに満足できる、悪くない世の中なのだ。
ビジネス書の取材などで、会社の社長なんかに話を聞きに行くと、
「近ごろは、消費者のニーズが多様化していますから」なんて話題がよく出るが、
ちょっと良いめの居酒屋(そして、どこも似ている)へ行くたび、
「ホントに、ニーズは多様化してんのかいな?」と思う。
『えん』はそのなかでは、けっこういいほうなので、
お店選びのリストに入れておくと、なかなか重宝するのではないだろうか。
話はガラリと変わるのだが、新宿へ向かう中央線のなかで、20代後半と思われる男性の二人組を見かけた。
学生には見えなかったが、スーツを着ていなかったので、もしかしたらもう少し若いのかもしれない。
そのうちの一人が、おもむろに一冊の本をカバンの中から取りだした。
私は、人が本を読んでいると「いったい、何を読んでるのかな?」と気になってしまうほうなので、
ちらっと本の表紙を見ると『超訳 ニーチェの言葉』と書いてあった。
光沢を抑えた黒一色の装丁で、最近けっこう売れている本だ。
「ふ~ん、コイツ、『ニーチェの言葉』なんか読むんだ」と心のなかで、変に感心していると、
その男が、隣に座っている友だちに向かって「おまえの座右の銘って何?」と唐突に尋ねた。
決していい感じのしない、スノッブで、嫌みな感じのトーンだった。
「まあ、お察しの通り、オレの座右の銘はニーチェの言葉になるわけだけど、
おまえみたいなタイプの場合、どんな言葉に感銘のうけるものなのかな? アァ、ハン(英語の発音風)」
と言っているみたいな感じなのだ。
いまどき、電車のなかで座右の銘を聞くこと自体、ちょっと変わったタイプなのかもしれないが、
それにしても、座右の銘を聞くだけのことで、わざわざ本を取り出す必要などないではないか。
その本がニーチェだろうと、パンチョだろうと、ジャッキー・チェンだろうと、
取り出さなくても、話くらいできるだろう。
こんな嫌みな問いかけに対し、その友だちがどんな返しを見せるのかと思って注目していたら、
やはり、その友だちもただ者ではなかった。
質問を受けた男は、ほんの少しだけ考える素振りを見せてから、
「そうだな。強いて言うなら、座右の銘がないのが、オレの座右の銘かな」とほざいたのだ。
それを聞いた瞬間、「やかましわいッ!」と浜ちゃんばりのツッコミを入れたいところだったが、
電車のなかで、赤の他人につっこむわけにもいかず、
私はただ黙って窓の外を見つめ、必死で笑いをこらえていた。
ちなみに、私は立っていて、二人の男は目の前の席に座っている。
座右の銘がないなら、ただ単純に「別にないな」と言えばいいじゃないか。
何が、「座右の銘がないのが、オレの座右の銘」だよ!
そもそも日本語として、意味がちょっとおかしいじゃないか。
そんなことを思いながら、私はつり革をぎゅっと握り、顔を引きつらせていたのだ。
座右の銘と言っていいのかどうかはわからないが、
私がけっこう気に入っている言葉に「真実は存在しない。解釈だけが存在する」というものがある。
その意味するところは置いておいて、
この言葉に出会ったのは、おそらく二十年くらい前だと思う。
どんなきっかけで知ったのかは忘れてしまったが、
それ以降、私なりの一つの信条というか、哲学のようなものになっている。
じつはこの言葉、ずっと私はゲーテの言葉だと思っていた。
なぜそう思ったのか、理由はまったく不明なのだが、三年ほど前まで、何の疑いもなく信じ込んでいたのだ。
ところが、三年くらい前のあるとき、ふと気になって調べてみたら、なんと、これはニーチェの言葉だった。
しかも、正しくは「事実というのもは存在しない。存在するのは解釈だけである」というらしい。
日本語に訳すときに生じる微妙なニュアンスの差と言えなくもないが、
実際のところ、私は十五年以上もの間、座右の銘の出典も、言葉そのものも間違っていたわけだ。
その事実を知ったときは、心底「あ~あ」と思った。
だって、「あ~あ」と思うしかないでしょ。
しかも、私はゲーテの言葉として、人に紹介したこともあったのだ。
まじで、「あ~あ」だよね。
ニーチェの言葉じゃなくて、「あ~あの言葉」だったらよかったのに。(くだらない・・・)
さすがに私は、電車のなかで『若きウェルテルの悩み』かなんかを取り出しながら、
友人に向かって、「君の座右の銘はなんだい?」なんて聞いたりはしなかったが、
恥ずかしいことに変わりはない。
まあ、でも、私が間違って覚えていた「真実は存在しない。解釈だけが存在する」という言葉のほうが、
語呂がいいし、雰囲気的にカッコイイので、これからもこの言葉を継続利用することに決めた。
私の座右の銘なのだから、私の勝手にさせてもらったって、誰にも文句を言われる筋合いはない。
ただ問題は、出典を聞かれたときにどうするかだ。
細かいことは無視して、「ニーチェだよ」と言っておくのも一つの手だが、
ニーチェ通の人から「それって、微妙に違わない?」と指摘されたら恥ずかしい。
といって、ゲーテで押し通すのはもっと問題だし、
「ややニーチェ」とか微妙なことを言うと、その後でごちゃごちゃと説明をしなければならなくなる。
やっぱり、座右の銘は「生きてるだけで、まるもうけ!」みたいなヤツがいいのかな、と思う。
出典ははっきりしているし、変にカッコつけている感じもしない。
みなさんが薄々感じている通り、
あれこれ心配したところで、座右の銘を聞かれることなんて、まずないんだけどね。
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