『カシスウー論』 ~恵比寿にある『パイルカフェ』編~
こんにちは 飯田哲也です。
第27回『カシスウー論』は、恵比寿にある『パイルカフェ』編です。
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JR恵比寿駅を西口から出て、駒沢通りまで出ると、
左前方にケンタッキーとウェンディーズが並んでいるところが見える。
その間の道を1、2分進むと、右側のビルの2階に『パイルカフェ』がある。
「こりゃあ、ずいぶんと昭和な感じの建物だなぁ」という雑居ビルの2階なので、
知らなければ入ってみようとはなかなか思わないが、入ってみればけっこう洒落たカフェ。
割合知られた店なのか、店内はいつもけっこう混んでいるが、
ほとんどがソファ席で、ゆったりとくつろぐことができる。
料理もそれなりにおいしくて、カシスウーロンも気持ちよくいただける。
要するに、合格ラインを超えている一般的なカフェという感じだ。
しかし、まあ『カシスウー論』も27回にもなると、店の紹介がパターン化してくる。
私の表現力の問題か、それともお店そのものがパターン化しているのかはわからないが・・・・・
『パイルカフェ』には、仕事の打ち合わせを終えた後、数人で訪れた。
どういう話の流れだったかは忘れてしまったが、その日はなぜか青春小説が話題にのぼった。
青春小説っていうのも、じつに大雑把な括り方だが、
若者が出てきて、恋愛したり、成長したり、冒険したり、挫折したりすれば、それは青春小説である。
読んでいる途中や読み終わった後に
「う~ん、青春だなぁ」と感じたら、そいつも青春小説と考えて差し支えない。
ちなみに、ウィキペディアでは日本の代表作として「青が散る」(宮本輝)、「三四郎」(夏目漱石)、
「潮騒」(三島由紀夫)、「ノルウェイの森」(村上春樹)、「限りなく透明に近いブルー」(村上龍)が紹介さている。
参考までに、海外の代表作は「ライ麦畑でつかまえて」(J・D・サリンジャー)、
「ムーンパレス」(ポール・オースター)、「悲しみよこんにちは」(フランソワーズ・サガン)が載っていた。
ウィキペディアの選別が正しいなんて、これっぽっちも思わないが、
偶然にも、私が青春小説と聞いて最初に思い浮かべたのも、宮本輝の「青が散る」だった。
本の内容というより、タイトルがいかにも青春っぽいところがいいんだろうなぁ・・・と思う。
だって「青が散る」だもん。
そもそも青春時代には、国境をまたぐみたいに明確な始まりとか、終わりがあるわけではない。
いつの間にか始まり、気がついたら終わっているのが青春である。
青が散る瞬間を意識することは誰にもできないけれど、
「たぶん、あの頃くらいに、オレの青は散っていったんだろうなぁ・・・」
とぼんやり振り返ることはできる。
そのリアルタイムでは気がつけない微妙な感覚を宮本輝は「青が散る」と表現したのである。
「青が散る」なんて、ちょっと叙情的過ぎるけど、そのセンチメンタルな感じも含めて、
青春小説としてすばらしいタイトルだ。
あの、別に、小説として「青が散る」を勧めているわけではないので、誤解のないように。
それなりにおもしろいとは思いますが、途中でテニスの実況中継みたいな描写が長々と入るので、
もし、これから読む人は覚悟しておいてください。
私が覚えている限り、一番最初に読んだ青春小説は氷室冴子の「なぎさボーイ」だった。
主に若い女の子が読むとされているコバルトというシリーズが集英社にあって(いまでもあるのかな・・・)、
その代表的な作家の一人が氷室冴子だった。
たしか、小学校5年くらいのときに読んだのだが、
「えっ、コバルトなんて読んでるの?」と言われるのが恥ずかしくて、
こっそり本屋へ行って、エロ本を買うみたいにコソコソ買ってきては、夢中で読んだ記憶がある。
「なぎさボーイ」は主人公・なぎさ(中学生の男子)目線で描かれていて、
ほぼ同じ時期の出来事を、相手の女の子(多恵子)目線で書かれた「多恵子ガール」という小説もある。
この2作はセットになっていて、恥ずかしながらこの二冊が私の処女・青春小説である。
年齢を重ねてからでも青春小説を読み、感動することはできるが、
青春小説のなかには、同時代(あるいは同世代)の読者にしか伝わらない何かがあると私は思う。
それはナイーブさだったり、無知さであったり、ある種の恥ずかしさだったりするのだが、
その強烈な共感こそが、青春小説の大きな魅力となっている。
いまさら「なぎさボーイ」を読み返す気にはならないし、
読んだとしても、たぶんまったく楽しめないだろうけど、
「当時、夢中で読んだ」というかすかな記憶だけでも、この作品の価値が十分にあるのだと思う。
それが小説の思い出なのか、
自分自身の青春の思い出なのかわからないくらいにごっちゃになっているが、
そんなふうに混ざり合ってしまうあたりも、青春小説の魅力なのだろう。
フランスの作家アナトール・フランスという人は
「もし私が神様だったら、私は青春を人生の終わりにおいただろう」という言葉を残している。
たしかに、青春は人生の終わりを飾るのに相応しいだけの、きらきらとした輝きを放っているけれど、
やっぱり私としては、しわしわの顔で、ひからびた手の甲を見つめながら、
「あの時は輝いていたなぁ・・・」なんて思いながら、ぽっくり逝きたいものである。
イケイケの青春時代に突如として人生が終わるというのは、なんだか怖いし、
刹那的で、暴力的な行為に見境なく走ってしまいそうだ。
やっぱり、人生の最後は寂しいくらい、細々としているほうがいいに決まっている。
余談ながら(もともとこの文章は余談しかないが)、
最近「BOX!」という高校ボクシングを題材にした青春小説を読んだ。
これは、文句なしにおもしろいのでスポーツ小説に興味のある人はぜひ読んでみてください。
「う~ん、爽やか。これぞ青春小説」っていう感じがすると思いますよ
こんにちは 飯田哲也です。
第27回『カシスウー論』は、恵比寿にある『パイルカフェ』編です。
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JR恵比寿駅を西口から出て、駒沢通りまで出ると、
左前方にケンタッキーとウェンディーズが並んでいるところが見える。
その間の道を1、2分進むと、右側のビルの2階に『パイルカフェ』がある。
「こりゃあ、ずいぶんと昭和な感じの建物だなぁ」という雑居ビルの2階なので、
知らなければ入ってみようとはなかなか思わないが、入ってみればけっこう洒落たカフェ。
割合知られた店なのか、店内はいつもけっこう混んでいるが、
ほとんどがソファ席で、ゆったりとくつろぐことができる。
料理もそれなりにおいしくて、カシスウーロンも気持ちよくいただける。
要するに、合格ラインを超えている一般的なカフェという感じだ。
しかし、まあ『カシスウー論』も27回にもなると、店の紹介がパターン化してくる。
私の表現力の問題か、それともお店そのものがパターン化しているのかはわからないが・・・・・
『パイルカフェ』には、仕事の打ち合わせを終えた後、数人で訪れた。
どういう話の流れだったかは忘れてしまったが、その日はなぜか青春小説が話題にのぼった。
青春小説っていうのも、じつに大雑把な括り方だが、
若者が出てきて、恋愛したり、成長したり、冒険したり、挫折したりすれば、それは青春小説である。
読んでいる途中や読み終わった後に
「う~ん、青春だなぁ」と感じたら、そいつも青春小説と考えて差し支えない。
ちなみに、ウィキペディアでは日本の代表作として「青が散る」(宮本輝)、「三四郎」(夏目漱石)、
「潮騒」(三島由紀夫)、「ノルウェイの森」(村上春樹)、「限りなく透明に近いブルー」(村上龍)が紹介さている。
参考までに、海外の代表作は「ライ麦畑でつかまえて」(J・D・サリンジャー)、
「ムーンパレス」(ポール・オースター)、「悲しみよこんにちは」(フランソワーズ・サガン)が載っていた。
ウィキペディアの選別が正しいなんて、これっぽっちも思わないが、
偶然にも、私が青春小説と聞いて最初に思い浮かべたのも、宮本輝の「青が散る」だった。
本の内容というより、タイトルがいかにも青春っぽいところがいいんだろうなぁ・・・と思う。
だって「青が散る」だもん。
そもそも青春時代には、国境をまたぐみたいに明確な始まりとか、終わりがあるわけではない。
いつの間にか始まり、気がついたら終わっているのが青春である。
青が散る瞬間を意識することは誰にもできないけれど、
「たぶん、あの頃くらいに、オレの青は散っていったんだろうなぁ・・・」
とぼんやり振り返ることはできる。
そのリアルタイムでは気がつけない微妙な感覚を宮本輝は「青が散る」と表現したのである。
「青が散る」なんて、ちょっと叙情的過ぎるけど、そのセンチメンタルな感じも含めて、
青春小説としてすばらしいタイトルだ。
あの、別に、小説として「青が散る」を勧めているわけではないので、誤解のないように。
それなりにおもしろいとは思いますが、途中でテニスの実況中継みたいな描写が長々と入るので、
もし、これから読む人は覚悟しておいてください。
私が覚えている限り、一番最初に読んだ青春小説は氷室冴子の「なぎさボーイ」だった。
主に若い女の子が読むとされているコバルトというシリーズが集英社にあって(いまでもあるのかな・・・)、
その代表的な作家の一人が氷室冴子だった。
たしか、小学校5年くらいのときに読んだのだが、
「えっ、コバルトなんて読んでるの?」と言われるのが恥ずかしくて、
こっそり本屋へ行って、エロ本を買うみたいにコソコソ買ってきては、夢中で読んだ記憶がある。
「なぎさボーイ」は主人公・なぎさ(中学生の男子)目線で描かれていて、
ほぼ同じ時期の出来事を、相手の女の子(多恵子)目線で書かれた「多恵子ガール」という小説もある。
この2作はセットになっていて、恥ずかしながらこの二冊が私の処女・青春小説である。
年齢を重ねてからでも青春小説を読み、感動することはできるが、
青春小説のなかには、同時代(あるいは同世代)の読者にしか伝わらない何かがあると私は思う。
それはナイーブさだったり、無知さであったり、ある種の恥ずかしさだったりするのだが、
その強烈な共感こそが、青春小説の大きな魅力となっている。
いまさら「なぎさボーイ」を読み返す気にはならないし、
読んだとしても、たぶんまったく楽しめないだろうけど、
「当時、夢中で読んだ」というかすかな記憶だけでも、この作品の価値が十分にあるのだと思う。
それが小説の思い出なのか、
自分自身の青春の思い出なのかわからないくらいにごっちゃになっているが、
そんなふうに混ざり合ってしまうあたりも、青春小説の魅力なのだろう。
フランスの作家アナトール・フランスという人は
「もし私が神様だったら、私は青春を人生の終わりにおいただろう」という言葉を残している。
たしかに、青春は人生の終わりを飾るのに相応しいだけの、きらきらとした輝きを放っているけれど、
やっぱり私としては、しわしわの顔で、ひからびた手の甲を見つめながら、
「あの時は輝いていたなぁ・・・」なんて思いながら、ぽっくり逝きたいものである。
イケイケの青春時代に突如として人生が終わるというのは、なんだか怖いし、
刹那的で、暴力的な行為に見境なく走ってしまいそうだ。
やっぱり、人生の最後は寂しいくらい、細々としているほうがいいに決まっている。
余談ながら(もともとこの文章は余談しかないが)、
最近「BOX!」という高校ボクシングを題材にした青春小説を読んだ。
これは、文句なしにおもしろいのでスポーツ小説に興味のある人はぜひ読んでみてください。
「う~ん、爽やか。これぞ青春小説」っていう感じがすると思いますよ
