真田戦記

采女城

三重県四日市市釆女町

文応元年、後藤基秀が三重郡釆女郷の地頭となって一族郎党とともに移り住み、釆女山に築城したのが始まりといいます。他に、文治3年に後藤基清が築城したとする説もあります。その後、後藤家15代300年の居城として栄えましたが、永禄11年に織田信長の家臣・滝川一益の攻撃を受けて落城、時の城主・後藤釆女藤勝は自害して果てました。落城の際に、藤勝の妻や娘が身を投げたといわれる井戸が主郭に残っています。

後藤基清

後藤基清は、頼朝に仕えた御家人で、一条能保の家人でもありました。1184年、源義経とともに頼朝に無断で任官された者の一人で、頼朝に

「目が鼠に似ている奴め、おとなしくしていればいいものを。任官などとんでもないことだ!」

と罵倒されたこともありました。

1221年(承久3年)の承久の乱で朝廷軍に与し、乱後、幕府方についた子の基綱に斬首されています。