大物崩れの戦い

年月日:享禄4年6月4日(1531年7月17日)

場所:大阪・兵庫一帯

指揮官と戦力

細川高国・浦上村宗 約20000

三好元長・赤松政祐 約10000

経緯

管領の権威が失墜した高国の援軍に援軍を差し向ける勢力が無い中で備前守護代の浦上村宗が要請に応じた。

開戦

享禄4年6月4日、赤松政祐が細川晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃したため、一気に勝敗が決した。赤松政祐は以前から父・赤松義村の仇を討つために村宗を狙っていたのである。政祐は出陣する前から堺公方の足利義維へ密かに質子を送って裏切りを確約していた。この赤松軍の寝返りは細川軍の動揺をもたらし、浦上軍に寝返りを誘発した。

そのような状況で赤松軍が中嶋の高国陣営を奇襲すると、それに呼応して三好軍が総攻撃をしかけたので、村宗を始め和泉守護細川澄賢(すみかた、細川政賢の子)・侍所所司代松田元陸・伊丹国扶・薬師寺国盛・波々伯部兵庫助・瓦林日向守ら主だった部将が戦死した。

三好元長が前線に出てくる「中嶋の戦い」からの2ヶ月間こそ膠着状態に陥ったものの、それまでの細川・浦上連合軍は連勝を重ねて戦意も高く、圧倒的有利であった。だが、新たに参戦した赤松政祐には細川・浦上連合軍の背後(西宮方面)から、続いて正面(天王寺方面)の三好軍からも攻撃されたことによって大打撃を被った。

この結果、戦局が大きく崩れて、高国の滅亡につながった。そこから地名とあいまって「大物崩れ」と呼ばれるようになった。