高屋城の戦い

年月日:天正2年(1574年)4月、

天正3年(1575年)4月8日 - 21日

場所:大阪府羽曳野市古市とその周辺

指揮官と戦力

織田信長・柴田勝家・細川藤孝 約100000

三好康長・顕如 不明

この戦いは2回に渡って行われた。

1574年4月、に摂津国の池田勝正、讃岐国の十河一行、雑賀衆の鈴木孫一ら雑賀衆や、三好義継に従っていた若江城の残兵や、池田勝正に従っていた池田城の城兵が加わり、信長方であった堀城の城主・細川昭元や堀城周辺の城を攻め落とした。この動きに高屋城の遊佐信教も呼応し、阿波国の三好康長を呼び寄せ、大和国衆の一部とともにも高屋城に立て篭もった。この際、石山本願寺も挙兵している。

信長はこの報を京都でうけ討伐軍を編成。武将は柴田勝家・筒井順慶・明智光秀・細川藤孝・荒木村重と共に出陣した。

この年、織田軍は7月から9月にかけて、長島一向一揆を全滅させた。また、佐久間信盛・細川藤孝・筒井順慶・明智光秀・塙直政・森長可らが若江城に入城し、9月18日に飯盛山城や山城下で三好康長、顕如連合軍と激しい戦闘になり、飯盛山城を落城させ萱振城も落城し、高屋城下を放火している。ここで織田軍は一旦、兵を引いた。

第2回

天正3年(1575年)本願寺の一揆勢は大和田に大和田砦をつくり、渡辺や神崎あたりまで進軍した。これに対して荒木村重が兵を送り破れてしまったが、村重は策を巡らし、一揆勢を十三の渡し周辺に誘い出し攻撃を加え、大和田砦と天満砦を奪うことに成功する。これを好機とみたのか、4月6日、信長は秋を待たずに京都を出発した。

織田軍は八幡を経て、7日に若江城へ入城。8日には駒ヶ谷山に布陣し、高屋城攻城に動き出した。三好康長も高屋城の不動坂口より出撃し、双方激しい合戦となった。織田軍は高屋城の周辺を焼き討ちにし、麦苗も薙ぎ捨てにした。

新堀城には十河一行や香西長信が立て篭もっており、高屋城と石山本願寺との中間にある城で両城を支援していた。17日、織田軍はこの城を取り巻き、19日に堀に草などを入れ埋め立て、夜になって火矢を射かけ大手門、搦手門の両方に突撃し、170余の首級をあげた。十河一行は討ち死にし、香西長信は生け捕りにされ、斬首された。

新堀城が落城すると、三好康長は信長の側近であった松井友閑を仲介にして降伏を申し出た。信長は康長を赦免し高屋城の戦いは終結した。河内守護の城として長い歴史を重ねていた高屋城はこの戦いで廃城となった。