河越城の戦い (河越夜戦)

日本三大奇襲

年月日:天文15年4月20日(1546年5月19日)

場所:武蔵国河越城

指揮官と戦力

北条氏康・北条綱成 約 11000

上杉憲政・上杉朝定 約 80000

背景

北条氏綱が没し、跡を継いだ嫡男北条氏康は継承早々に一大危機を迎える。天文14年(1545年)7月下旬、今川義元が関東管領の上杉憲政と内通して背後から挙兵、駿河の北条領に侵攻する。氏康は駿河に出陣するものの武田氏までもが出陣してきたために状況は不利であり、更に在陣中に両上杉の大軍によって河越城が包囲されたという状況が知らされた。そのため10月下旬に武田晴信(信玄)の斡旋で義元に譲歩することで屈辱的ながらも和睦を成し遂げた(第二次河東一乱)。11月初旬には誓紙を交換した後に条件が履行され、氏康は挟撃されている絶体絶命の危機の中で西方を収め、関東方面へ転戦できる状況を得た。

開戦

天文14年9月26日(1545年10月31日)、関東管領の山内上杉家(上杉憲政)、扇谷上杉家(上杉朝定)、古河公方の足利晴氏、その他関東諸大名連合軍は約80,000の大軍をもって北条氏の河越城を包囲した。一説によれば関東の全ての大名家が包囲軍に参加して、加わらなかったのは下総の千葉利胤のみだったともいわれている。山内憲政は城の南に陣を張り、扇谷朝定は城の北、など三方を包囲した。河越城は氏康の義弟・北条綱成が約3,000の兵力で守備していたが、増援がなければ落城は時間の問題であったため、今川との戦いを収めた氏康は本国から約8,000の兵を率いて救援に向かった。またこの間太田資顕(全鑑)の調略に成功し、河越城へのルートを確保している。食糧を十分に蓄え籠城した綱成は半年も耐え抜き、戦況は数ヵ月間膠着状態であった。この間、長陣に飽きて上杉方の戦意は低下し、軍律は弛緩していた。氏康の救援軍にいた福島勝広(北条綱成の弟)が使者を申し出て、単騎で上杉連合軍の重囲を抜けて河越城に入城、兄の綱成に奇襲の計画を伝えた。

氏康は連合軍に対して偽りの降伏を申し出て詫び状を出し続ける。まず、足利晴氏に対して、諏訪左馬助に依頼し、「城兵を助命してくれれば城は明け渡す」と申し入れ、上杉方には常陸の小田政治の家臣である菅谷貞次に依頼し、「綱成を助命してくれるならば開城し、今までの争いについても和議の上、我らは公方家に仕える」と申し入れた。だが上杉軍は受け入れず、逆に北条軍を攻撃したが、氏康は戦わずに兵を府中まで引いた。これにより上杉連合軍は北条軍の戦意は低いと判断し、およそ10倍近い兵力差もあって楽勝気分が漂う。

天文15年4月20日(1546年5月19日)の夜、氏康は自軍8,000を四隊に分け、そのうち一隊を多目元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。そして氏康自身は残り三隊を率いて敵陣へ向かう。子の刻、氏康は兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせ、山内・扇谷の両上杉勢の陣へ突入した。予期しない敵襲を受けた上杉勢は大混乱に陥り、扇谷上杉軍では当主の上杉朝定、難波田憲重が討死、山内上杉方では上杉憲政はなんとか戦場を脱出し上州平井に敗走したが、重鎮の本間江州、倉賀野行政が退却戦で討死した。氏康はなおも上杉勢を追い散らし敵陣深くに切り込むが、戦況を後方より見守っていた多目元忠は危険を察し、法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせた。城内で待機していた「地黄八幡」綱成はこの機を捉えて打って出ると、足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入した。既に浮き足立っていた足利勢も綱成軍の猛攻の前に散々に討ち破られて本拠地の古河へ遁走した。一連の戦闘による連合軍の死傷者は13,000人から16,000人と伝えられている。