山王堂の戦い

年月日:永禄7年4月28日(1564年6月7日

場所:常陸国真壁郡山王堂(現・筑西市)

交戦勢力 上杉軍 約8,000

     小田軍 約3,000

損害  上杉軍 不明 死傷者 数百?

    小田軍 甚大 (死傷者2000の説有)小田城落城

経緯

北関東で小田氏と佐竹氏の対立はいよいよ激しくなり、佐竹義昭は宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹らと連署して、上杉謙信の出馬を要請した。

永禄7年(1564年)4月、上野国平井にいた謙信は義昭らの要請に応え、ただちに陣触れして出陣。夜に日をついで一気に押し進んだ。あまりの速さに関東諸大名の援軍は間に合わず、兵力は8000余騎であった。

開戦

小田氏治は謙信率いる上杉勢が押し寄せたと聞いて、菅谷政貞を先鋒として3000余騎を率いて小田城を出発。28日(7日)辰の刻(8時)、上杉軍は丘上から静々と降りてきたが、突如疾風の如く、鬨の声をあげて深田を真一文字に突き進んできた。小田方の菅谷政貞、信太治房、平塚弥四郎、赤松凝淵斉らは敵を寄せつけじと、弓・鉄砲・槍・薙刀で応戦。多くの死者が出たが、上杉勢は怯まず、討たれた味方の人馬を足代にして泥田を踏み越え、叫びながら切り込んできた。さすがの小田勢も、この猛攻に耐え切れず十町ばかり退いて陣容を立て直そうとするも、上杉勢が追撃にかかったので、両軍入り乱れて鎬を削り、鍔を割り、黒煙を蹴立てて戦った。

申の刻(16時)まで激戦は続き、小田勢は地の利を生かして奮戦したものの敗色は濃くなる一方であった。氏治は朝方渡った筑輪川に馬を乗り入れ引き返そうとしたが、あまりに馬が疲れているので馬首を川上に引き向けて水を飲ませているところへ、上杉勢が6,7騎追いかけて来て矢を放った。札よき鎧なので裏まで貫通せず、氏治は川岸を駆け上り敗れた兵をまとめて小田城に帰還し防御に手筈をして上杉勢の攻撃に備えた。

謙信に出兵を要請した佐竹義昭・真壁氏幹は山王堂の戦いが終わった頃にようやく到着し、敗走する小田勢を追撃して小田城に殺到した。氏治は篭城したが、小田城は平城で防御がさほど強固でなく、大軍に包囲され攻め立てられては持ち堪え切れなかった。北条の後詰もなく、氏治は夜ひそかに数十騎とともに藤沢城へ逃れた。氏治に代わって戦い指揮を執った老臣・信太治房は最後まで城内で戦い自害。小田城は落城した。