争の跫音とともに聴いた20世紀音楽

 

雨が降った日、ぼくは街に出てコーヒーを飲みながら、むかしの雨の音を想いだそうとした。

想いだす街は、昭和37、8年ごろの東京・銀座である。

ぼくの見た有楽町界隈は、ガード下の靴磨きであり、足を失った傷痍軍人のたまり場だった。

そして米海兵隊員がやってきて、ぼくに、道をたずねたりした。そのころの映像が、音楽とともにいろいろ想いだされてくる。

 

 

 ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」カール・ベーム / ウィーン・フィル。

 

 

雨の降る銀座を歩くのは嫌いじゃない。

銀座の教文館を出たら、けっこうな雨が降っていた。外が暗くなり、雨も大降りなってきた。舗道わきの黄色い蛍光色のフェンスが雨にぬれて光っていた。じめじめした不揃いの雨音が、傘の下の劇場のはじまりを奏でていた。

切迫したような音響に気をとられていると、足元が少しすべった。

ぼくが歩く先ざきを、紫色の傘をさした中年の外国人風の女性が歩いていた。

黒っぽいスカートスーツを着込み、透けるような淡いグリーン色のサテンのスカーフをなびかせていた。スカートから伸びた脚はことのほか白く、まっすぐに、活発に伸びている。ハイヒールも黒かった。

彼女は水溜まりを跨いで、すーっと歩いていく。ぼくはこの女性の歩き方が気に入った。ぼくは彼女の歩く後ろからついていった。

そのとき、ある店の前を通り過ぎたとき、音楽が聴こえてきた。あれはベートーヴェンの「交響曲第6番」だった。とたんにぼくは、ブルーノ・ワルターのことを想いだした。むかし聴いたブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルの「第6番」である。

しかし、じっさいに流れていた曲はワルター指揮ではなかっただろう。ワルターとか、カラヤンとか、トスカニーニ、フルトヴェングラーといった往年の大指揮者は、ぼくにはいま聴くチャンスがほとんどない。

けれどもぼくの記憶には、依然としてワルター、カラヤン、トスカニーニ、フルトヴェングラーの音楽でいっぱいなのだ。ワルターはともかく、フルトヴェングラーは一時期、ぼくをとりこにした。そして嫌いになり、また好きになった。この人の音楽人生を理解することができなかった。

ヒトラー政権は、ドイツに居残っていたユダヤ人系の音楽家たちを解雇し、トスカニーニの機嫌をとる必要がなくなったとき、その排斥運動はますます激化していった。いくら招聘してもトスカニーニがドイツにやってこないとなれば、ますますフルトヴェングラーを手放すわけにはいかなくなった。そして、フルトヴェングラーは1933年6月、州立歌劇場の主席楽長のポストについた。はじめての常任契約だった。

トスカニーニがバイロイトの話を辞退したとき、世界のメディアはこれをいっせいに伝えた。

彼がバイロイトへ行かないのであれば、ザルツブルク音楽祭に呼ぶべきではないか、オーストリア首相のドルフスはそう考えた。ドルフスは右翼だったが反ナチスだった。それからはオーストリアでのナチスの活動を禁止した。その対抗処置としてドイツは、観光依存度の高いオーストリアへの出国には1000マルクというビザ発行の手数料をふっかけた。そのためザルツブルク音楽祭は痛手をこうむることになった。

けっきょくトスカニーニはザルツブルク音楽祭には間に合わなかった。リハーサルにだれよりも多くの時間をかけるトスカニーニには、時間がなかったのである。そのかわり、ウィーン・フィルで指揮することが決まった。――ぼくはそんなことをつらつら考えながら道を歩いた。黒い衣裳を身にまとった女性は、トスカニーニのことなんか考えてもいないだろう。

だが、彼女の歩くテンポは、1930年代のドイツを席巻した暗雲たれこめるアレグロ・テンポだった。そして、1934年7月、ウィーンの首相官邸に乱入したナチスによって、オーストリアの首相ドルフスは暗殺されたのである。この事態をうけてイタリアのムッソリーニは、オーストリア救援のために軍を派兵させた。

「ドイツによるオーストリア併合は断固として許さない」というのが多くの国際世論であった。

だがドイツの独裁はますます先鋭化し、「国家元首にかんする法律」が制定されると、ヒンデンブルク大統領の死後、大統領と首相が一元化され、その政権をアドルフ・ヒトラーひとりに託された。ヒトラーは「大統領」を名乗らなかったが、「指導者兼国家元首」を名乗った。

日本ではこの「指導者(Führer)」のことを「総統」と訳された。

ヒトラーはナチスが野党だったときも「総統」と呼ばれた。

そのころ、音楽の世界でも、のんびりしたアンダンテの歩調で歩く気分ではなかった。

ザルツブルク音楽祭を指揮したのはブルーノ・ワルターだった。そこでの仕事が終わると、ワルターはさっさとアメリカにわたった。

いっぽう、戦時下でのベルリン・フィルでは、日本からやってきた指揮者・近衛秀麿が客演指揮をしていた。近衛秀麿は、ナチス・ドイツ占領下のワルシャワでは、ナチス将校らのための演奏を指揮したり、ユダヤ人音楽家を擁護したりして、彼のヨーロッパ活動はとつぜん終わった。

カラヤンはまだ失業中で、あちこちで面接をしかけている最中だった。

 

 

1933年7月22日、バイロイト音楽祭はドイツ首相アドルフ・ヒトラー隣席のもと開幕した。

ヒトラーはワーグナーのファンだった。ヒトラーがはじめてワーグナーのオペラを見たのは1906年、ウィーンで画家を志していたときといわれている。

ヒトラーが見たのは、ウィーンの宮廷歌劇場で上演された「トリスタンとイゾルデ」だった。指揮は、とうじ総監督をしていたグスタフ・マーラーだった。ユダヤ系のマーラーは、ワーグナーを得意としていた。

このとき以来、ヒトラーはワーグナーに心酔する。

そして、ドイツ音楽を盛り上げる総統の考えには、指揮者としてどうあってもフルトヴェングラーが必要になった。ユダヤ人を排斥するヒトラーと、ドイツ音楽の伝統を守ろうとするフルトヴェングラーとのあいだでおもわぬ確執を生み、彼は、あることからヒトラーの逆鱗に触れる。そうでありながら、ヒトラーはフルトヴェングラーにすがるより手がなかった。

フルトヴェングラーはフルトヴェングラーで、ヒトラーの思惑とはちがって、ドイツ音楽を根絶やしさせないために、あらゆる手を使っていたが、多くの音楽家は、フルトヴェングラーの誘いに乗らなかった。音楽と政治は無関係だという芸術性のみを訴えたため、空気の読めない男とされた。

いっぽうカラヤンは、その時代の空気を読んでナチス党員になったものの、最後にはベルリン陥落とともに、ベルリン脱出を模索した。

だが、1944年の秋、ミラノのコンサートを口実に、ドイツを脱出するつもりだったが、飛行機の座席は軍部が抑えていて、カラヤン夫妻がそれを入手するのはひじょうに困難となり、1ヶ月たっても脱出のメドはつかなかった。

年が明けた1945年2月、ベルリンはさらなる大規模な空襲をうけていたが、ベルリン州立歌劇場弦楽団のコンサートが開かれ、ウェーバーの「魔弾の射手」その他がカラヤン指揮で上演された。

そして4月、クラウス指揮によるウィーン・フィルのコンサートが開かれ、それが戦中最後のコンサートとなった。

そして4月末、サンフランシスコでルービンシュタインはコンサートを開いた。会場にはポーランドの国旗がないのを確かめると、彼はステージにあがり、ショパンを弾くつもりだったが、「星条旗よ永遠なれ」を弾き、会場の全員が直立不動で聴いた。

そして、ルービンシュタインはいった。

「つぎに、ポーランドの国家を弾きます!」と。

ルービンシュタインにとって、それが、戦争の終結を宣言する音楽になった。

4月27日、イタリアでムッソリーニが逮捕され、翌日処刑された。

30日、ヒトラーは自殺した。ヒトラーの死を告げるラジオからはブルックナーの「交響曲第7番」と、ワーグナーの「神々の黄昏」、「ジークフリートの葬送」が流された。

音楽家レナード・バーンスタインの戦争史観、あるいは、音楽家近衞秀麿の戦争史観といえば、へんにおもわれるかもしれないが、歴史家とはちがった史観を持っていることは確かで、そういう意味では、レナード・バーンスタインの最後の本、――「発見(Findings)(1982年)という本は、みごとな本だったなとおもう。

人にはさまざまな転機があるように、バーンスタインもまた、さまざまな転機をくぐり抜けている。1970年のことだ。30年前、タングルウッドでクーゼヴィッツキーと出会ったときの話を、そこで学ぶ若者たちに語っている。そのページにぼくは釘づけになった。

バークシャー音楽センターの創設者であるセルゲイ・クーゼヴィッツキーによって、バーンスタインは指揮クラスのひとりとして受け入れられた。ボストンに暮らしていたバーンスタインは、それまでクーゼヴィッツキーには一度も会ったことがなかった。

「わたしにとってクーゼヴィッツキーは、シンフォニー・ホールの目もくらむ存在だった」といい、彼は正直に告白しているが、偉大なクーゼヴィッツキーは、

「ここに立ってわたしたちに語りかけていました。彼の献身、――芸術への献身、音楽への傾倒、仕事への専心について話しました。彼は《中心線》という語を使って、この線は、芸術家がどんな犠牲を払っても辿りつかなければならない線、永遠の発見に繋がる線、音楽芸術で示される真実への神秘的な線という意味です」といい、そのときのバーンスタインの彼から受けた印象深い話をつづけている。

そして、

「今日では、途轍もなく古臭い決まり文句といっていいかもしれない。もはやだれが《専心》とか《献身》の話をするでしょうか? 勤勉、信仰、相互理解、忍耐といった《価値》や《美徳》の話をあえてする人がいるでしょうか?」と問うている。

「答えは《イエス》です」

たとえ30年後であろうとも、霊感的雄弁をそなえたクーゼヴィッツキーでなかろうと、あなた方がそんなことを聞く気分でなかろうとも、美辞麗句にうんざりしていたとしても、しかし、……

「わたしがここにいて、顧問(アドバイザー)という肩書きで、しかも三人組の最年少のひとりとして、助言するのはたいへんむずかしい。なぜなら、もはや30年前とは違うのです。何かが根本的に変化してしまったのです」と語る。

そして、30年前の、じぶんがそこに坐っていた1940年当時の状況について、バーンスタインはそのおもいを回想している。

 

バーンスタイン

 

クーゼヴィッツキーとの出会いは、バーンスタインにとって、目もくらむ衝撃だったろう。この時代の30年間の違いは、音楽的な見地からすれば、もっと鮮明なはず。

1940年前後の10年間は、音楽的にも崇高なひびきがあったという。

ショスタコーヴィッチの「第5番」とプロコフィエフの「第5番」、コープランドの「第3番」、ヒンデミット、バルトーク、ロイ・ハリス、ビル・シューマンによる傑出した交響曲作品。これらはすべて英雄的な音楽だったし、苦闘と勝利の物語だった。そんな時代にセルゲイ・クーゼヴィッツキーが登場したのである。

 

 

 

 

しかし、もはや交響曲という崇高な音楽の糧を得ることなく、時代は流れた。あるものは、教訓的な音楽から、浅薄なダダにいたるまで、新しい音楽は多数の運動、グループ、試みに分裂し、この両極端のあいだには、あるものは魅力的、あるものは刺激的、あるものは感動的で美しくさえあり、あるものは日和見的であったが、ひとつ欠けていた。それは、ゼヴィッツキーの「崇高さ」である。――バーンスタインはそういっている。

そして、彼は一冊の本の話をする。

「現代ドイツの哲学者エルンスト・ブロッホによる《希望の原理(Das Prinzip Hoffnung)》という本です。……かつてドイツナチスから逃れ西ドイツに移住したブロッホが、重要な哲学的著作として《希望の原理》と題した本を書かなければならなかった」と語る。

そこに何が書いてあるのか、ぼくは知らない。けれどもバーンスタインはわかりやすく要約する。

「まだ起こってはいないが、期待をこめて感じられるもの、まだ意識されないものは、人間の意識全体のなかで、《無意識》と《潜在意識》とおなじように不可欠であり、先んじて夢見ること、将来に向かって夢見ることと呼んでいますが、ここに出てくるTrāumen nach Vorwārtsをどう訳すか、わかりませんが、それは予知したり、何が起こるかを感知する働きであり、わたしたちの夢、わたしたち普通の一般人が希望と呼べるもの――もっぱら《希望》を科学的に記述したものなのです」といっている。

それはこうもいえるかもしれない。

「まだ実現していないもの」。それは、わたしたちの手の届くところにある何かだ、といっている。

しかし、そこには落とし穴があった。

あなた方に教えたことは、「わたしたちがヒロシマ以前に学んだことです。わたしたちは戦争をふたたび起こす必要はないと教えたのですが、あなた方がそこから学んだことは、二度と戦争を起こしてはならないということでした。ヒロシマへの原爆投下が、わたしたちにとってあなた方ひとりひとりを見知らぬ人にしてしまったこと、わたしたちが学んだものと、あなた方に手渡そうとしているものが、瞬時性の現象ゆえに、自動的に化学変化を起こしてしまったこと、これらをどのようにわたしたちは知ることになったのでしょうか?」

「――答えはこうです。それは絶望ではなく、――性急さ、不満、憤りです。さあ、もういいでしょう。お話はもうたくさん、政治的な自分探しも権力の強奪も憎悪のキャンペーンももうたくさんです。……おわかりでしょう? セルゲイ・クーゼヴィッツキーのモラルにもどるのです。原子力だろうとなかろうと、ヒロシマのジェネレーション・ギャップがあろうとなかろうと。なぜなら、瞬時の救済は、瞬時の過剰殺戮とおなじように、危機的で愚かなものになりうるからです」

そして、後半の最後のほうで、バーンスタインはアーロンとモーセの話を書き、コープランドの話を書いている。彼はアーロン・コープランドと知り合ってからやおら半世紀がたっていた。「アーロンとモーセ」については、「出エジプト記」に登場する人物で、アーロンはモーセの兄であり、モーセとともに抑圧されたユダヤ人のエジプト脱出を指導した。

「30年代半ばに学生だったわたしがはじめてコープランドの曲を聴いたのは、《ピアノ変奏曲》のレコードだった。わたしはこの荒涼とした不協和の音楽にたちまち圧倒され、たぶんホイットマンのような顎鬚(あごひげ)をたくわえた、間違いなくモーセに似た開祖のような作曲家を自然と心に描いた。……つねに預言的な言明、深い瞑想があり、ふしぎに愛情のこもったためらいがある。アーロンを装ったモーセ。……いってもムダなことだが、彼の命が永遠につづかんことを!」

ヨーロッパでの戦争は終わったが、日本ではまだつづいていた。

ワルター、カラヤン、トスカニーニ、フルトヴェングラーの時代をつづる「戦争交響楽 音楽家たちの第二次世界大戦」(中川右介、朝日新書、2016年)に見る戦争と音楽家たちの時代は、はたしてどういうものであったか、歴史的な事実とともに、そのなかで繰り広げられるいまわしい音楽家たちの戦いの日々が克明に描かれている。ぼくは、この小さな本のなかから、雨音のように鳴り響く20世紀の苦闘の音楽を聴いたのである。

ぼくは彼らの音楽をあらためて聴きなおしたい気分になった。

ぼくは銀座の道を歩きながら、はじめてワルターの音楽に触れたむかしのことを想いだした。ぼくにとって、ワルターははじめて触れた最初の音楽家だったからだ。いまはもう遠いむかしになってしまった。

が、その音楽は、わざわざヴァイオリンを弾かなくても、いまでも鮮明に想いだすことができる。