想い出の人、淀川長治さん
淀川長治さん
ぼくは都内のテレビ局で仕事をしていたころ、――平成4年から7年間でしたが、――各界の、実にいろいろな方とお目にかかりました。それはいいのですが、もっとも尊敬し、ぼくに勇気をくださったのは映画評論家の淀川長治さんでした。そのころはお年を召しておられて、ときどき元気をなくされ、車椅子で館内にやってこられたときは、椅子を押してさしあげたかったくらいでした。編成局の女性に押されて、館内を移動されていました。
ぼくがあいさつすると、
「やー」といって片手をあげます。
そんな日々がつづいていた、ある深夜、――「ニュースステーション」のスタジオのそばにいたぼくは、札幌にいる娘から、とつぜん電話を受けました。
「お父さん、落ち着いて聞いてね。――」といいます。
何かよくないことが起こったらしい。
「お母さんが、さっき交通事故にあって、いま、たいへんなの。頭やからだが、ぐちゃぐちゃになって、内臓も破裂しちゃって、……」といったきり、娘はもう声にはなりませんでした。で、こんな深夜では、航空チケットもとれないので、総務局の緊急取材の手を使って、翌朝一便のチケットの予約をしました。
テレビ局というところは、こういうときは便利です。社内でチケットの確保がかんたんにできるのです。
ぼくは、テレビ局から大急ぎで札幌へと向かいました。
平成10年11月11日(水曜日)のことでした。
で、ぼくが聴いた淀川長治さんの訃報は、まさに、札幌へと向かう機内で聴いたのです。淀川長治さんは、この日、亡くなられたのです。享年91でした。
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六本木のアークヒルズ(ARK Hills)は、高層のオフィスビルや、ホテル、マンション、コンサートホール、放送局などから構成される複合施設として、1986年(昭和61年)に完成し、当時の民間による都市再開発事業としては最大級の規模だったそうです。
アーク放送センターはそこにありました。お隣りは、サントリーホール。
そこで、いまは亡き黛敏郎さんなどにもお会いしました。淀川長治さんは、そのお隣りの全日空ホテルに住んでおられて、そこからテレビ局のスタジオまでは、目と鼻の先で、ふだんは、ホテルからつづくカラヤン広場を、ことことひとりで歩いてやってきます。
雨の日は傘を差して、風の日は精いっぱい前かがみになって、杖をついて歩きます。
カラヤン広場に屋根がつけられてからは、雨の心配はなくなりましたが、いよいよ晩年のころには、目も不自由になり、だれかに車椅子で押されてやってきます。しかし、メイク室でメイクをして、スタジオのカメラの前に座ると、たちまちしゃんとして、まるで別人みたいになる人です。
なにしろ映画については、なんの気取りもなく、視聴者の知りたいツボをぴしゃりと射抜く、あのしゃべり方はちょっとありませんでしたね。映画が終わって、ふたたび淀川長治さんが登場し、そして次週の予告につづくエンディング部分で、
「今週はこのへんで。来週またお目にかかりましょうね。それではさよなら、さよなら、さよなら」と余韻を残して終わります。ぼくは、淀川長治さんと会っていると、ほっとしてくつろいだものです。彼の「さよなら、さよなら、さよなら」は、ほんとうに「さよなら」なんだなと思いました。そして「ぼくは明日死にますからね」というあいさつ。なんていうほがらかなことばだろうと思います。
明日死ぬ、そうであってもいいとおもう、きょう精一杯生きぬいた人のことばは、強く身にしみました。そういう達観は、淀川長治さんをおいて、けっして見ることのなかった人生達観の人だったように思います。エンターテインメントの極致。飄々たる人生だったなとおもいます。
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――そんなことをつらつら思い出し、きょうBS朝日で放送された番組「昭和偉人伝」に淀川長治さんが登場し、ぼくはこの番組を見て、涙が止まりませんでした。ぼくにとっては、なつかしいお顔で、「もっと映画を見なさい」という最後のことばを聴いて、むかしのことをおもい出し、ああ、この方にもう一度お目にかかれたきょう、なんて幸せな日なんだろう、とおもいました。
淀川長治さんは、テレビ朝日系列の「日曜洋画劇場」という番組を、ずいぶん長いあいだ持っておられた方です。
ぼくの妻が札幌で交通事故にあったおなじ日、――平成10年11月11日(水曜日)に天に召され、その数日前には黒澤明氏も亡くなられ、日本の映画界にはなくてはならない方をなくしました。
テレビ画面で見ると、淀川長治さんの顔色も色つやもいいのは、メイクのせいです。出演するときは、スタジオのまえにあるメイク室に入り、だれでもお化粧するわけですが、きのうまでテレビに出ていた人が、きょう老衰で亡くなった! と聞いて、世間の人びとはびっくりしただろうとおもいます。ほんとうは老衰ではありませんでしたが。
機内では、ちょうどマーラーの「交響曲第5番」第4楽章、そのアダ―ジェットにさしかかったころだったでしょうか。神韻ひょうびょうたる曲が、淀川長治さんへの鎮魂を奏でる曲のように聞こえたものです。
女優の菅野美穂ちゃん(当時、テレビドラマ「イグアナの娘」に出でいたころ)と、淀川長治さんがアークヒルズの放送センターの受付あたりで鉢合わせになると、美穂ちゃんに向かって、
「大きくなとったねぇ」といって、淀川長治さんは自分の娘みたいに喜ぶんです。
彼女にはいつ会っても、大きくなったねぇといいます。
淀川長治さんはたいがい車椅子に乗っていましたから、大きく見えたのでしょう。
「ええ、おかげさまで、大きくなりました」と美穂ちゃんは胸を張って応えます。
美穂ちゃんは、かわいい顔をしているけれど、それからちっとも大きくならない。そばにはぼくがいました。淀川長治さんは美穂ちゃんがお気に入りだったようです。
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さて、「日曜洋画劇場」がはじまったのは、昭和42年4月。そして平成10年10月まで淀川長治さんが解説者としてテレビに毎週登場していましたから、なんと36年間もテレビ朝日系列のブラウン管に出ていたことになります。
おりしも、「ニュースステーション」に出ていたニュースキャスターの久米宏さんが務め上げた18年間のちょうど2倍にあたります。おどろくべき長寿番組でした。
すべて洋画にしぼり、しかもゴールデンタイム2時間枠のレギュラー番組として定着。テレビ朝日のカンバン番組になっていましたね。
「チャンピオン」「子鹿物語」「裸足の伯爵夫人」「帰郷」など、話題の洋画をどんどん放映し、《淀川長治》の番組として亡くなるまで話題をさらっていました。晩年になればなるほど、この番組の視聴率がアップし、視聴者の多くは、淀川長治さんのお元気な姿を見たかったからでしょうか、彼の「さよなら、さよなら、さよなら」は、お経のように聞こえたものです。
亡くなられるころには、すっかり総白髪になり、目もはっきり見えなくなって、苦労されていたようですが、テレビ朝日の編成局には淀川長治さん担当の女性がいて、館内を車椅子に乗って彼女に押されていました。
だいたいは、13階の試写室というところへ行くのですが、淀川長治さんはそこで夜遅く、11時を過ぎるころまで仕事をされていました。その部屋は、淀川長治さんしか使いません。そこで、次週の予告映画も見ますから、時間はだいたい4、5時間くらいかかったでしょうか。そして、ちゃんとメモをとる。
映画が好きという程度の人間ならざらにいるとおもいますが、淀川長治さんは、映画がなければ生きられないほど狂っているんですね。こういう人はすごいとおもいます。
「ぼくは映画ファンなんですってよく聞きますけど、じゃあ、年間何本見てらっしゃるのってきくと、せいぜい、20本。そうなんですね。映画ファンを自認するくらいなら、70本は見てください。ぼくはいつもそういっております」というんです。
「ぼくは読書家っていったりしますが、読書家っていえるのは、いったい何冊ぐらいでしょうか?」とききますと、淀川長治さんは、即座にこう応えます。
「月に50冊は読んでください。ぼくも、50冊は読みますよ」といいます。
「でも、ぼくは読書家じゃありませんよ。映画ファンなんですよ」と、念を押すようにいいます。
カラー放送が開始されたのは、昭和41年の第1回目からで、そのときの放送作品は、ユナイト映画の「誇りと情熱」というアメリカ映画でした。
ケーリー・グラント、ソフィア・ローレン、フランク・シナトラといった大物俳優による自信作。ぼくは後年、テレビ局からいただいたビデオで見ました。イタリアの女優ソフィア・ローレンの全盛時代で、いちばん美しいころの映画です。いらなくなった映画ビデオを大量にもらい受けました。放送用のビデオはベーターカムといって、大型フィルムになっているので、その再生機がないと見られませんでした。
まだそのころは、どこも音声吹き替えはやっていなくて、スーパーインポーズという字幕方式で放映されていました。テレビ朝日では、これを大胆にも音声吹き替えを決断した最初のテレビ局です。劇場映画の音声を、吹き替えで放送するということで、編成局内では意見が真っ二つに割れ、洋画ファンにとって、名優の演じる声が替えられていたら、がっかりするだろうという意見が根強く、字幕方式はもう古いと考える若手の意見とぶつかり、最初からもめたという記録が残っています。
それまで「土曜洋画劇場」で放送した「ローハイド」「ララミー牧場」で得た視聴データを参考に決断を下します。この映画もなつかしいですね。声優を使って全編吹き替えるという方針にしたわけです。これがあたって、視聴率がぐーんとあがったそうです。
たとえば、アラン・ドロンならば野澤那智、フランク・シナトラならば家弓家正、オードリー・ヘプバーンならば池田昌子、マリリン・モンローならば向井真理子という具合に、俳優と役柄にあった声優たちの厳選がおこなわれ、現在のテレビ映画の音声吹き替えを決定づけていったわけです。
これに最初から貢献したのは、淀川長治さんでした。この検討委員会の主要なメンバーでした。彼は映画とともに生き、映画の未来を信じた人でした。
彼の「さよなら、さよなら、さよなら」は、ほんとうに「さよなら」なんだなとおもいました。そして「ぼくは明日死にますからね」というあいさつ。淀川長治さんをおいて、けっして見ることのなかった人生達観の人だったようにおもいます。エンターテインメントの極致。飄々たる人生。
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11月のグレーイッシュにたそがれゆく雲海を見て、そこに残る残照を見詰めながら、機内のシートベルト着用のアナウンスを聞くと、いよいよ北海道だ、とおもいました。
機体がじょじょに降下していき、海岸線の縁取りがモノクロームの、色のない風景に見え、千歳上空にさしかかったとき、白と黒の平坦な大地が顔をあらわします。
白く見えるのは雪です。粉をふいたような大地の形そのままの白い平野が見えてきました。
白く見える大地に、人の血管のように、くねくねした黒い川が見えはじめ、重々しく水膨れしたような空の下で鼓動しているかのように見えたものです。
いままで見た風景とは、まるで違いました。機体が上下に揺れ、降下するとキーンというエンジンのパワー音が聞こえてきます。いつの間にか、風景が目のまえにひろがってきました。そこには記憶の余焔をともすように、自然に溶け込んだ人類の痕跡が見えてきます。
機内から出てボーディング・ブリッジを歩きはじめたとき、風が鳴り、そしてぼくは涙が止まりませんでした。ぼくら家族の人生は、この先、どうなるのだろうとおもいました。