「なにをってるの!」

 

さて、時は流れ、8月を迎えた。

いつだったか、CS放送の時代劇専門チャンネルで、藤沢周平のドラマが放送されていた。「蝉しぐれ」の文四郎や、「風の果て」の隼太の凛々しい生き方が描かれていた。娯楽小説としては、藤沢周平は、いまも並外れた人気がある。

亀山郁夫さんの「ドストエフスキー 謎とちから」(文春新書)の広告記事が目にとまる。――以前、江川卓の「謎解き『カラマーゾフの兄弟』」、「謎解き『罪と罰』」などを読んでいる。これにまさるドストエフスキーの謎解き本は、おそらくないだろうとおもっていたが、亀山郁夫さんの「ドストエフスキー 謎とちから」が出て、ぜひ読んでみたい本になった。

コーヒー缶を買うために、玄関のスロープを降りると、とつぜん、数学者の藤原正彦さんの話をおもい出した。

 

田中幸光

 

藤原正彦さんといえば数学者であるが、数年まえ、「国家の品格」という本を読んで、彼を見直した。ぼくはこの人の数学にかんする考え方に興味があった。「弱者を救え」という父・新田次郎さんの教えが原点になっているという内容の記事だった。

藤原正彦さんの顔は、年をとっても、どう見ても童顔で、数学者の風貌をしていない。

彼はケンブリッジ大学に研究生として留学し、英語がすらすら話せる。話せるだけでなく、とても優雅で、エレガントなしゃべり方をする。――数学者というのは、物事の本質にしか興味を示さない。直線的で、単純といえば、しごく単純な世界だ。御茶ノ水女子大学理学部の教授会で、「1対全員」の闘いに挑むことがあったそうだ。

帰宅して、きょうもケンカをしたと報告すると、

「そうか、よくやった!」と、父に褒めてくれたのだそうだ。

しかし、母は怒り出す。

「なにを正義ぶってるの。みんなは腹の中でせせら笑ってるんだよ。おまえを教授に推薦する人などいなくなるだろうよ。一生、助教授でいいんだね、おまえ!」と。

父・新田次郎氏は、そこで力をこめていったそうだ。

数学は真理の探究である。真理のためだったら、どんなことがあっても退いてはいけない。……退いたら負けになる。クビになったら、おれがおまえのめんどうをみてやる、といったのだそうだ。

それから1、2年たって、父・新田次郎氏はポックリ逝()ってしまった。

父は、損得を計算するなといった。

武士道精神の持ち主だったらしく、弱い者は身を挺してでも救えと、口を酸っぱくしていっていたそうだ。見て見ぬふりをするのは、義にそむき、卑怯だというのだ。その後、2005年に出した「国家の品格」(新潮新書)は、300万部も売れ、大ベストセラーになった。ぼくはこの本からいろいろ教えられた。

きょうは天気はいいのだが、炎天の下で、ときどき熱風が強く吹いた。

「お父さん、《ストン》を読んでね」とヨーコがいう。

「《ストン》のまえに、《運命を拓く》、中村天風さんの本を、もういちど読んでおきたい」といったら、

「中村天風さんの本ね。……だったら、いいわよ」という。

この本は、ヨーコが図書館から借りてきたものだ。副題に「天風 瞑想録」と書かれている。序章に「朝旦偈辞(ちょうたんげじ)」がついている。「朝旦」の「旦」は、元旦のことである。元旦というのは年のはじめの日を指す。

ここでは毎朝が、元旦のようで、信心をきわめるという意味らしい。仏教の経典の教えを讃えたものを「偈()」というのだが、それは「偈辞」だから、偈のことば、真理のことばという意味になる。ざっとだが、全ページを読んでみた。

                        ♪

こんどは、木田元さんの「新人生論ノート」(集英社新書)を読み、そして、ウィリアム・ゴールディングの「蝿の王」(ハヤカワ文庫)を読みはじめた。

木田元さんは哲学者だけれど、どこだかの新聞の人生相談コーナーを担当していたようだ。ぼくはその種の記事は読まない。が、この本を手にとってながめたら、ボードレールの有名な詩「旅へのいざない」が載っていた。

 

 わが児、吾妹子(わぎもこ)、

 想ひみよ、かしこに

 行きてふたりして住む愉しさを!

 

 のどかに愛し、

 愛して死なむ、

 君に似通ふその国にて!

 (ボードレール、村上菊一郎訳「悪の華」より

 

それでこの本を読む気になった。詩はいいなあとおもう。詩は書けるときには書けるが、書けないときには書けない。せっかく図書館に行ったのに、啄木の歌を借りてくるのを忘れてきた。啄木はいいなあとおもう。

 

 啄木の詩(うた)のリズムに乗せられて

 馬を曳かせば朝日のぼらん。

 

 かた雪に馬橇(ばそり)を曳けば朝焼けが

 真っ赤に燃えてせせらぎ聞こゆ。

 

 たがために詩の1行は迫りくる?

 韃靼(だったん)人の海の深さよ。

 

 啄木の神童の名こそ悲しけれ、

 北海道の荒海の地鳴りよ。

                      ♪

きのう、Sさんが庭を掃いてくれた。75歳のMばあさんに会って声をかけられたそうだ。

「あら、お仕事はどうなさったの?」

「お仕事? ……ん? まあ、ぼくは夜のホストをやってましてね、……真夜中、仕事をしておりますよ」といったのだそうだ。

すると、彼女、何もいわなかったそうだ。口やかましい老婆にはそう挨拶したそうだ。

「年寄りをからかっちゃダメですよ」とHさんがいう。

「顔を合わせると、いつもいうもんでね。……なに? 馬橇(ばそり)ですか?」

「馬橇って、Sさんの田舎にもありましたっけ?」

「ありましたなあ、……」といって、たばこの煙をぷーっと吹きだした。

「――モーパッサンの《脂肪の塊(かたまり)》をおもい出しますねぇ。……コロンビア大学の教授だった神山幹夫先生からメールがきて、モーパッサンの《脂肪の塊》は最高だ! といっていましたよ。――そう、馬車に乗って、パリを脱出しようとするんだけど、敵につかまる。馬車には、女ひとりと貴族数人が乗り合わせている。……そこで、貴族の男が女にいう。敵の将校に一夜抱かれろ、と。女は町の娼婦だ。彼女はしぶしぶ敵の男に抱かれる。……ことが終わって家から出てきた女はいう。もう行ってよろしいといわれたと。彼らはほっとする。町の娼婦に助けられたんですね。……それから、馬車は鈴の音をシャン、シャン、シャンと鳴らして出発する。あの鈴の音は、いまも鳴っているような気がしますね」

「……ほう。そいつはおもしろそうですなあ。……モーパッサンの《脂肪の塊》ですか。ルノワールみたいですなあ」という。

「ああ、ルノワールって、そういえば、喫茶店《ルノワール》のことでしょう? 店に入ると、むかしはルノワールのマッチが置いてありましたね。娼婦に見えますか?」

「娼婦に見えますな。……その鈴がどうしたんですか?」

「鈴の音といえば、松本清張さんの芥川賞受賞作「或る《小倉日記》伝」のおしまいにも、馬車の鈴の音が登場するんですよ。悲しい鈴の音なんですよ。こっちのほうもまだ鳴っているような気がしますね。――このモーパッサンは貴族の出身で、彼の名前にもdeがついている。Guy de Maupassantというんですがね。……スタンダールにもついていますが、あれは偽モノです。貴族になりたくて、勝手につけたものです」

「その、勝手というのがいいですなあ……」

「勝手といえば、直木三十五という作家の名前ですが、聞いたことあるでしょう? 直木賞の直木です。――彼は43歳くらいで死んでますけど、彼の直木三十五というペンネームは、たしか、1933、4年のときの最後のペンネームでしたね」

「ふ―ん、知りませんでしたな」

「彼は毎年、じぶんのペンネームを変えたんですね。数字を毎年つけ足していってた。――ところで、直木三十五の《荒木又右衛門》なんていう小説、読んだことあります?」

「読みませんな。……」

「本名は、植村宗一っていうんですがね、大阪の時事新報で、大衆文学の時評を書いて活躍した作家のようですよ。……いつから、ペンネームが使われていたのか、ぼくは知りませんけどね」

「ちかごろ、逝く人が多いですなあ」

「そうそう、きのうだったか、むかしの先輩が亡くなったという知らせがありましたよ」

「じぶんもそうですな。それも今年、正月の3日だったかな。むかしの、改装の仲間がひとり亡くなりましたよ。去年も亡くなった。暮れに亡くなったやつ、あいつは、いいやつでしたな」といっている。

Sさんはしみじみと、たばこの煙をくゆらせていう。そして、たばこの煙をまたぷーっと吹かす。そのとき、北原白秋の詩がポンと浮かんだ。

                      ♪

 時は逝く。赤き蒸気の船腹(ふなはら)を過ぎゆくごとく。

 穀倉(こくくら)の夕陽のほめき、

 黒猫の美しき耳鳴りのごと、

 

 時は逝く。何時(いつ)しらず、柔かに陰翳(かげ)してぞゆく。

 時は逝く、赤き蒸気の船腹過ぎゆくごとく。

 (北原白秋「思ひ出」のなかの「時は逝く」より

 

ぼくは蒸気船に乗ったことはないけれど、喫水線の下は、真っ赤に塗られていたのだろうか。「赤き蒸気の船腹の過ぎ行くごとく」と歌われている部分が、とてもいいおもう。

「そういえば、北原白秋の童謡の《とんぼの眼玉》なんていうの、読んだことあるねぇ」

「Sさんもふるいねぇ」

北原白秋は、文壇でも有名な姦通事件を引き起こしている。

いまどき「姦通」といってもピーンとこないだろう。愛人をこしらえて、女といっしょに暮らす。

それを知ったら、ヨーコはたぶん、北原白秋のことを嫌いになるだろう。先年、ヨーコと柳川を訪れたとき、北原白秋の家を見てきた。

女にだらしがないのだ。

幾人もの女たちと交わり、捨てている。捨てた女には、何もしてやらない。

それでいて、「どんぐりころころ、どんぐりこ……」の歌をつくったりした。「この道は、いつか来た道、……」もつくっている。愛人をつくればいいというものではないだろう。

彼は、ラジオとともに一世を風靡した。

小学唱歌をたくさんつくった。ラジオから流れる音楽は、戦後の人心の荒廃した日本には必要だった。北原白秋は、じつにうさん臭いやつだったけれど、ラジオから聴こえてくる歌は、みんなよかった。横浜の埠頭に立つと、21歳のじぶんをおもい出す。

ここからフランスの貨物船カンボッジ号に乗りこみ、32日間かけて、ヨーロッパの軍港オラン港に着いた。戦後17年目のパリは、じぶんを受け入れてくれた。

横浜に行くと、「赤い靴」の銅像を見る。

先年の夏に、べつのSさんに会うために横浜に行ってきた。その埠頭はまだあった。山下公園のわきをとおり、「赤い靴」のまえでヨーコと写真を撮った。Sさんが撮ってくれた。

「へー、そうですかい。北原白秋ねぇ、……」

「彼の晩年は、目が見えなくなった。糖尿病と腎臓病で、眼底に出血し、それが原因で視力をうしなったんですよ。ぼくの好きな歌があります。《馬鈴薯の花咲き穂麦あからみぬあひびきのごと岡をのぼれば》というんですがね。この、岡をのぼればというところが、いいんですね」といった。

「だったら、灯がともる夜道を、これからちょっと歩いてきますかな?」といってSさんは立ち上がった。

それから散歩に出かけようとしたら、マンションの階段のそばの駐車場で、ふたりの女の子がサッカーボールで、遊んでいた。中学生のようだ。

「おじさん、木刀の素振り、こんど見せて!」といった。

「いいとも? 朝ははやいよ。午前5時だよ」といった。

彼女たちは「うん」といった。

きょうは、いつもの道をやめて、反対側の産業道路を歩いてみた。日が暮れてきた。ペンライトをとり出して、点灯するかどうかためしていたら、

「おじさーん、また写真撮ってね」

といって、小学5年生の男の子が自転車に乗って通り過ぎていった。