■ふたたび仏教の話。――

大乗仏教と大なるーガールジュナの活動

 

パリオリンピックの先陣を飾る男子サッカーD組、日本対パラグアイ戦で、日本は5対0で快調な滑り出しを見せた。その一戦をテレビで見ながら、ぼくは仏教の記事を書いた。

今夜は突然だが、ナーガールジュナの話を書く。

大乗仏教の起こりは、この人、――ナーガールジュナの活動と密接なかかわり合いを持っている。そもそもナーガールジュナの出家の動機づけは、釈迦が気品のたかい情緒として描かれているのにたいして、ナーガールジュナの生き方のほうは、死を賭けた快楽の追求と、そののちの絶望として描かれていることが特長的だ。

ひとりの人間に、かくも矛盾する要素を合わせ持っていることに驚きを禁じ得ない。

ナーガールジュナのばあい、既成の倫理や制度にはげしく反抗するニヒリストというイメージさえ持っている。旧来の仏教をまっこうから否定するという点で、一見ニヒリズムの精神に貫かれているように見える。

しかし、大乗仏教の最初の論理的な命題を投げかけた最初の人物、――それがナーガールジュナであったことはたしかで、大乗仏教の論理学的な内省を投げかけているのは明らかである。

人間関係でつまずき、そして波乱にみちた生涯をおくるというのも、多く空の哲学者に共通している。

ナーガールジュナの弟子アーリヤデーヴァも、インド教の神殿にしのび込み、神像の目をくりぬいて神と対決してみたり、アーリヤデーヴァのはげしい攻撃的な主張がわざわいして、闘争に明け暮れる生涯をつらぬき、しまいには、異教徒によって殺害されるという非業の死を遂げている。

さきのクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)にしても、長安にくるまでは西域の諸国をわたり歩き、長い流浪の暮らしに耐えなければならなかったし、その間、生まれ故郷の亀茲国、――現在の中国・ウイグル自治区・新疆クチャ――にいたときも、長安にやってきたときも、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)は王に強いられて、酒を飲んだうえで女を犯すという事件を身をもって体験している。

現在、日本人が仏教をやると、かならずといっていいほど、この「中観」を読むわけだけれど、この本の最初にのべられている「不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不来(ふたい)、不去」という、いわゆる「八不(はっぷ)の思想」というのが、とにかくわからない。

ナーガールジュナの「中論」は、とにかく、わからないのが当たり前というのだろうか、中国でも、チベットでも、ヨーロッパでも、日本でもわからないとされている。いろいろな人が、「八不」の現代的解釈をこころみている。

たとえば、上田閑照という人が考えた自覚についていえば、西田幾多郎のことばの定義にもおよんでいて、「主もなく客もない」という純粋経験を表現することばから、純粋経験の自発的な発展(自展)をとおして、「自覚」や「場所」の考えが導かれている。

「主観-客観」は対義語であり、これらのそれぞれの否定「主もなく客もない」は、「不生不滅」で代表される「八不」の構造ととってもよく似ており、「八不」の解釈にも応用できるのではないかと考えられたようだ。――こういうことを考えようというのがインド哲学なのである。

「八不」に示されている対(つい)の構造、すなわちそれぞれ対をなす対立することばのそれぞれは、固定されたある状態を示している。そしてこの対のそれぞれを否定し合うことは、その対を固定した状態にとどまらないことを暗示している。

すなわち「八不」は、対立する対のことばのフレームをいったん突き破り、「無」のかぎりなく開かれた無限の空間へと放たれ、ふたたびもどってきて、もっと開かれた自由な空間の体系として形づくっていこうという考えである。

こういうことを考える哲学が日本にも生まれた。

「考える自由ですか? ブーメランみたいですね」と、Sさんはいった。

「そもそも日本人は、インド哲学にはなじみがないので、西洋哲学の考え方、――演繹法でものごとを考えてきましたからね。なかなかわかりにくいんですよ」とぼくはいった。

「演繹法ですか?」

「そうです。その反対は帰納法です。インド人は帰納法で考えますから、川は流れている、いつまでも流れているように見える。しかし、いつまでも存在する川として考えない。いつかは涸()れて、水が消えてなくなる。これを空というわけです」

「空?」

「空は、存在するけれど、非存在でもある。けれども日本語でいう無ではけっしてない。あるけれども、ない。両方の語義がちゃんとあって、……」

「神秘的なんですなあ」と、Sさんはいった。

これを2000年前の中国では、「道(タオ)」として孔子、孟子、老子、荘子、荀子の思想に発展していく。

「あるがまま」とか「自然のまま」を否定し、魚はつねに「道」にしたがって泳ぐけれど、人間は道にしたがわず、わが道を生きたいと考えたりする。たとえ孔子を信仰している人でも、孔子なしで生きる。ほんとうに強い者は、じつは弱いのである。ほんとうに硬いものは、やわらかいものだと悟る。

老子はいう。

「相手が弱まるまで待て」と。

なんにもしない者こそ、実践する人であると説く。

「道はいつもなにごともなさず、それでいて、なされていないことは一つもない」といっている。

「道はつねに無為にして、しかもなさざるなし」といっている。

「――そっちのほうが、おもしろそうですね。老子ですか?」と、Sさんはいった。

人間釈迦がおのべになった教説は、人間の一生は短く、そして苦であるとする神秘性のまったくない現世的な考え方だった。

それを切りかえる必要があると唱えた。

一部、くりかえしになるが、たとえばその結果、大乗仏教を代表する「法華経」の「如来寿量品」のなかにのべられているような久遠成仏した如来像を描くことになった。

じっさいの人間釈迦ではなくて、法身仏(ほっしんぶつ)としての象徴的な釈迦像をつくって、神秘的な釈迦を考えだしたのである。

 

余がこの上なく完全な悟りを悟って以来、すでに幾千万億劫という多くの時間が経過しているのである。たとえてみれば、すなわちその数は五十、千万億という世界にある大地の微粒子の数に等しいのである。云々……。

 

――と「法華経」には書かれている。「劫」というのはカルパ(kalpa)の音写「劫波」の省略した名詞形である。

カルパというのは、ヒンドゥ教の世界観をしめすときに使われている数の単位で、1カルパは43億2000万年だから、気後れするくらいの長い時間を意味する。想像することも、計算することもできない長い時間。

しかも、「法華経」に描かれている如来は、生まれるはるかむかしに、すでに成仏していると説かれ、はるか以前に入滅したけれど、「あれは方便であった」とのべられ、通常の時間の概念を、はるかに超えたむかしということをのべている。

「あのとき、この世で余は入滅したのではない。僧たちよ。あれは余の巧妙な手段なのだ。云々……」――とのべられている。

如来がじぶんの死を示して、あれはたんなる方便なのだと説いた。じぶんは死んだのではない。じぶんは死んでみせたのである。それは衆生への巧みな方便のひとつでしかなく、じぶんは久遠のむかしに成仏し、衆生の世界にくだって入滅してみせたのである、といっている。

 

また、「弥勒(みろく)の世」とは、大乗仏教では、弥勒菩薩がこの世にくだって衆生を救うとされる未来の世をいうけれど、どれぐらい未来なのだろうか。弥勒は仏になることを確定しているところから、「弥勒仏」ともいわれる。

釈迦の入滅から56億7000万年後の未来にこの世にくだり、衆生を救済するとのべられているので、これもまた、とんでもない未来ということになる。

いっぽう「般若心経」では、手きびしいほど釈迦の四諦説を否定している。

小乗仏教においては、四諦は釈迦仏教の根本命題であったけれど、大乗仏教では、あまり四諦には触れられていない。

この世は苦であり、苦ばかりであるなどという思想はすこしも出てこない。「般若心経」ではもっぱら、四諦が否定されている。四諦というのは、苦、集、滅、道の4つだけれど、「般若心経」には、こう書かれている。

 

「無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。……」

 

このようにおしなべて実体がない世の中であってみれば、迷いもなく(無無明)、また、迷いがなくなるということもない(亦無無明尽)。さらには老い滅ることも死もなくなり、また、老いることと死がなくなるということもない。同様に苦しみ(苦)も苦しみの原因(集)もなく、苦しみを滅することも(滅)、苦しみを滅する道(道)もなくなるのである。――と。

最後の「無苦集滅道」というのが、それである。

そういう苦はないのだといっている。――釈迦の唱えた四諦はないと、はっきりいい切っている。「無、無、無、……」と書かれているのが特長である。

「般若心経」は、大乗仏教の空の思想を解き明かした最初の経典とされている。わずか262文字しかない。

それでいて、文末には真言が書かれていて、遠大な宇宙を感じさせるこのお経は、きわめて短いので、写経にもっとも適したお経として、わが国では人びとに親しまれている。

ほんらいの写経は、一字書いて拝み、一字書いて拝むという「一字一拝」がくり返される。

さて、もっとも積極的に生を肯定する仏教は、密教である。

日本では空海の真言密教が知られている。――大乗仏教がはじまった背景には、以上のような理由があったと考えられている。その立場で理論的に体系化して、この世は「空」であると論じたナーガールジュナは、それまでの釈迦仏教をいくぶんかポジティブに反転させ、補強していった最初の人といっていいかもしれない。

しかし、空は空であり、当時のインド哲学において衝撃的な命題となったが、それから100年後にいろいろと緒論があらわれ、先述したようなアーサンガ、バースバンドゥらの出現によって、唯識説が確立されていった。

ナーガールジュナの「中論」は、くりかえすようだが、のちにクマーラジーヴァによって中国に伝えられ、「中観(ちゅうがん)」と訳されて以来、中国では空論時代を迎えた。

なかでも中国の南宋時代は、かんかんがくがくの空論時代を迎えた。

クマーラジーヴァは、「妙法蓮華経」など多くの経典・論典を漢訳し、中観仏教を中国じゅうにひろめた。

われわれ現代人は、宗教の話のなかで、よく「絶対」とならんで、この「空」の話をしたがる。この話をする人は、古代ギリシャの哲学体系が示す概念で「空」をとらえ、「空」を知ろうとする。

もともと仏教的な「空」は、哲学的な「空」とはずいぶん違うので、仏教的な「空」を論ずるために、哲学的な物差しを用いてみてもわからない。

ギリシャ哲学の形而上学的な物差しでは、仏教的な「空」を押し測ることはできない。これは、むしろ中国の儒教のなかにあった「無」に近いもので、中国で仏教が受け入れられた背景には、少なからず儒教的な「無」に共通する部分を持っていたためであろうといわれている。

そのように説く説がある。

もとより古代の中国人は、仏教は「道理」と考えた。

これに対して西洋人は、仏教を「倫理」と考えた。

宗教ではなく、倫理であるというのである。なぜなら、絶対者の神がいないからだ。キリスト教・ユダヤ教・イスラム教には絶対者としての神がいる。しかし、仏教には神がいない。

中国人もおなじように考えたらしい。

西洋人に仏教が知られるようになったのは、18世紀の終わりごろからといわれているけれど、いまもって、宗教というよりは倫理だとおもわれている。

ひところの西洋人は、仏教を嫌っていた。なぜなら、ニルヴァーナ――「魂を吹き消す」宗教だからだ。

ニーチェは仏教が大嫌いだった。そして、西洋人はここでいう「空」を、不気味な語ととらえた。しかし、われわれ日本人は明治期になって、大急ぎで大挙してヨーロッパの大学に出かけていき、仏教学の古典や基礎を学んだのである。

日本人は、明治になるまで、釈迦仏教をしらずにいた。パーリ語、サンスクリット語による釈迦のことばをまとめた経典(「スッタニパータ経」など)の存在をまったく知らずにいた。それまでの日本の仏教は、中国仏教一辺倒だった。

さて、空の話は、一般には10世紀から12世紀にかけて、北宋時代に端を発する中国の仏教的「空」が、近世時代を経て、いっそうにぎやかに、いっそう豊かになっていく。

それとともに、ひろい意味での宋学=新儒教Neo-Confucianismの勃興期――たとえば、「五経正義」の中心となる訓詁注疏(くんこちゅうそ)の学派から出た批判主義的な経学(けいがく)や、春秋学、歴史学、仏教、道教といったさまざまな、たがいに競合し合う学問が総花的に奔流のようにどっとあらわれた。

この時代を見ると、いきなりドラスティックな転換をもたらしたのは、「空」のほうではなくて、「実」と「有」の思想だったようにおもわれてならない。

それは、仏教や老荘の道教的「虚」、「無」、「空」の思想の呪縛から解放される「実」、「有」の思想へと転換したことを意味していたのだろうか。

北宋時代はひと言でいえば、「空」にはじまり、「空」に終わった時代であり、「実」、「有」への転換は、じっさいには南宋期へと引き継がれていったのは確かである。

――その話は、べつの機会にゆずることとしたい。