ことば。――「れにかなえられて喜する」 

 

夏の炎天下の季節ともなると、5月に聴いたスズメたちの囀りが、すっかり聞こえなくなった。

以前にも書いたけれど、ぼくは何もわからない高校生のころ、辞典をおもしろく読んだ。ほとんど読めないのに、読んでいくと、とてもおもしろかった。

「広辞苑」の初版には、見出し語にもあきらかな誤植があったけれど、たいていの解説記事は、読んでみるとおもしろかった。

たとえば見出し語に「だんぼらぼ」とか、「たほいや」、「すむつかり」、「けけれ」、「うんてれがん」などといった見出し語があり、こりゃあいったい何だ? とおもった。

それにしても、いまもってぼくは、日本語がわかっていないとおもっている。

 

田中幸光。草加のある和服店で

さて、Sさんがぶらっとやってきて、そんな話をすると、

「もしも島流しにあったら、何を持って行く? 田中さんなら、広辞苑ですか?」ときかれた。いかにも!とおもう。

亡くなった井上ひさしさんは「無人島に辞書を持って行く」といったそうだ。

この人ならではの名回答だろう。自分もそうだな、という気分になる。現代人は多忙なので、重い辞典なんか持っていかないだろうという。スマホか? 

「広辞苑」は1200万部も発行されている大ベストセラー本なのだが、多くは図書館、学校にあり、一般家庭にかならずあるという欧米の聖書なみとはいかないかもしれない。しかしあればあったで重宝するのだけれど、なくても生活にこれといって支障をきたさない。しかしことばはその国の文化の象徴であり、あるにこしたことはないだろう。

ことばは動詞でおぼえるといい、とだれかがいっていた。

生きたことばは、定義などそっちのけにして勝手に発達してきた。辞典といえば、岩波の「広辞苑」と相場がきまっているかのようにおもわれるが、そうではない。日本で最も売れているのは「新明解国語辞典」で、「広辞苑」の1200万部にたいして、「新明解国語辞典」は累計2000万部以上も売れているという。そればかりではない。

たとえば、よのなか【世の中】の項を見てみよう。

 

「愛し合う人と憎み合う人、成功者と失意、不遇の人とが構造上同居し、常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世間」――と書かれている。

(「新明解国語辞典」第3版)

 

「新明解国語辞典」の編纂者は山田忠雄。いっぽう、「三省堂国語辞典」の編纂者は見坊豪紀(ひでとし)。見坊豪紀先生の弟子が山田忠雄なのだ。

見坊豪紀、1914年生まれ。国語学者として稀代の天才辞典編纂者。

山田忠雄、1916年生まれ。国語学者にして反骨の鬼才辞典編纂者。

「広辞苑」の新村出の物語より、先のふたりの物語のほうがすっごくおもしろい。なぜなら、先のふたりは、1冊の国民的な国語辞典をつくりながら、とちゅうで、なぜか決別してしまった。

 

れんあい【恋愛】、特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来ることなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。

「新明解国語辞典」第6版

       

                 ―― 新明解国語辞典。

 

――と書かれている。

「出来ることなら合体したい」という気持ちがあっても、国語辞典の語義の説明に、いままで真しょうじきに正面きって、このように書かれたことはなかった。国語辞典に「恋愛・合体論」がひど出す辞典が生まれたのだ。というより、中学・高校生には、うんとわかりやすいかもしれない。できることなら合体したいというわけ。ははーん、じぶんもあのころは、そうおもった。

――さきごろ、「新明解国語辞典」(8版)を9年ぶりに改訂し、間もなく発売されるはずだが、「恋愛」は「異性」対象だけじゃなくなったというニュースがあった。もちろんそうだろうけれど、辞典にそんなことまで書けるのか、とおもってしまう。

「出来ることなら合体したい」は、まさにそうだ。

そして、外国語による文芸作品も、原作の意図を忽(ゆるが)せにする引用が見られる。辞典に引用される出典の文章には気をくばる必要がある。

 

そのころの「広辞苑」には、ふしぎなことに、「幸せ」という字がなかった。そのかわり「仕合せ」と書かれていた。どうしてだろうとおもったが、そのうちに忘れてしまった。

で、さいきん出た「辞書の仕事」(増井元、岩波新書、2013年)という本を読んでいて、その「幸せ」についての記事を見つけた。それにはこう書かれている。

――「しあわせ」というのは幸福ばかりを表す語ではありません。「しあわせ」は「めぐりあわせ」や「なりゆき」を意味することばで、その内の「よいめぐりあわせ」が「幸」であるわけだから、「しあわせ」の全体は「仕合せ」とは書けても「幸せ」と限定することができない、といっている。

同様に、「すし」も、「寿司」とは表記できず、「鮨・鮓」と書かれるというのである。

つまり「寿司」は当て字なのだ。

さいきんの「広辞苑」では、「幸せ」も「寿司」もちゃんと表記されているが、この伝でいくと、「手のうらを返す」はあっても「手のひらを返す」はおかしいとおもう。おかしいのに載っている。「とるものもとりあえず」は載っているが、その上の句が省かれていたり、「掃いて捨てるほどある」の上の句も載っていない。

「踏ん切り」ということばは、通常使われているが、この語はほんらいは「糞切り」である。いかにも生々しいので、いつのころからか変えたのだろう。

「賃銀」がいつのころからかこっそり「賃金」にきり変わったが、銀行は現在も「銀行」のままだ。

金庫はいつから「金庫」と表記されたのだろう。

彫心鏤骨の「鏤骨(るこつ)」は載っているが、「彫心」がない。こころに彫り込み、骨に刻むという四文字で成り立つ熟語なのだが、「鏤骨」だけが表記されている。慈悲喜捨もそうだ。「喜捨」のない「慈悲」はあり得ない。「慈悲」と「喜捨」はワンセットになったことばだからである。

ぼくは迷ったとき、「広辞苑」だけでなく、「大辞林」、「大辞泉」を引く。上の2冊は定番だが、「大辞泉」は、特長があってなかなかおもしろい。語義の説明がすぐれているとおもう。

辞典は使えば使うほど味わいがあるとおもっている。

「割り勘」はもともとはオランダ語からの翻訳語である。

そんな話は辞典には書かれていないけれど、これには歴史がある。「Dutch account」の訳語である。

一般的には「ダッチカウント」と呼ばれている。ついでにいうと、「広辞苑」には「スランガステーン【slangensteen】近世、オランダ人が持って来た薬。毒蛇の脳にあるという石。黒くて碁石に似て、腫物の膿を吸って、毒を解く効があるという。ヘビ石。吸毒石。蘭説弁惑「すらんがは蛇の事、すていんは石の事」」と出ている。

「おぼっぼ」、「もみじ鳥」、「べかこう」、「しろうるり」、「じれった結び」など、一見して「何だろう」とおもわせることばがけっこう載っている。これらもりっぱな国語なのだ。

オランダ語からきたことばはけっこうある。トタン、ガラス、カバン、ランドセル、インキ、コーヒィ、ピストル、……それにオルゴールもそうだ。ランドセルはほんとうはランセールといった。医学用語ではメス、カンフル、ブロック、船のマストもそうだし、ブリキもそうだ。もうすっかり日本語として定着している。当時の翻訳は、オランダ語をそのまま音訳したものだった。

同様に、明治期になるちょっとまえから、翻訳語がいろいろと出現している。おそらく哲学用語はほとんど翻訳語だろう。日本は哲学や刑法はドイツから仕入れた。軍隊、民法はフランスに倣った。大学では哲学はドイツ語で講じられた。その他は英語で講じられた。だが1919年、大学令が出たころ、官学も私学も日本語で講義されるようになった。早稲田をつくった大隈重信の発案だった。

「経世済民」ということばがある。または「経国済民」ともいう。

江戸時代の中期ごろ、荻生徂徠(そらい)の弟子に大宰春台という儒学者がいた。彼は「経済録」という本を書いた。このときはじめて「経済」ということばが生まれた。

つまりeconomyの翻訳語である。民を救い国をたすける学、という意味である。そこで当初は「経世済民学」などと訳されたりした。人間の生活の基盤をなす、生産・分配・消費行為により成り立つ社会関係の総体をあらわす概念という意味になり、economyを深く熟知しした訳語といえる。

そのころ辞典はあったが、事典はなかった。

平凡社の創業者・下中彌三郎が1931年に「百科事典」をつくって以来、「事典」ということばができ、あらゆる「事典」が誕生した。

辞典のほうは、にわかに翻訳語が載り、現在使われている漢字のうち、そのころに大急ぎでつくられた国字がたくさんふくまれるようになった。それらは中国の漢字にない語である。これもいってみれば翻訳のおかげだろう。しかし、日本独自にうまれた日本生まれの語もたくさんある。

たとえば、――榊、辻、畑、畠、働、樫、𢰝(もて)、椚(くぬぎ)、峠、凧、布巾(ふきん)、頭巾(ずきん)、巾着、朝凪、夕凪、颪(おろし)、躾、毟(むし)る、鞄など。……。最後の「鞄」は、ほんとうは「革包」だった。店の看板に「革」と「包」がくっついて見えたので、明治天皇は、あれは何という字か? とたずねられた。それ以来、カバンは「鞄」という字になった。

翻訳語とともに1000以上もの創作漢字が日本でつくられた。これを国字というのだけれど、おもしろいことに、そのうち中国に900語ほどわたり、現在は中国語にもなっている。おもしろいのは、中国語に「怠ける」という語があるのに、「働く」という語がなかった。これも人が動くことなのだから、人偏に「動」と書いて「はたらく」という字をつくっている。

これらに加えてさまざまな派生語が生まれた。

これで日本語がたいへん豊かになり、西洋にひけをとらないほどの語林が生まれていったわけである。そのため、「朝凪」、「夕凪」という語感をもつことばは、西洋にさえなく、俳句や短歌にあらわれていることばで、季語を示す語は、日本語としていっそうおくゆかしい語感を添え、それらのほとんどは翻訳語ではなく、やまとことばのあらわれだった。(「今野真二「百年前の日本語」岩波新書、2012年)

 

100年まえ、夏目漱石の諸作品の原稿に書かれている語で、いま、デジタルフォントにない語がいっぱいある。それだけでなく、たとえば「嗅ぐ」という語は、右下は「犬」となっているが、以前、これを「大」にしようという動きがあった。もしも「大」にしたら、本来の語感が消えてしまい、嗅覚のするどい犬だからいいのにと、ぼくなどはおもってしまう。

ぼくはデスクのそばにいつも置いている辞典は、「大辞泉」である。用例が多く、語感がすぐつかめて、出典文献をちゃんと載せているからである。

たとえば「礼記(らいき)」。――明治になるまえ、藩校は日本におよそ200ほどあって、学校では漢文を教えていた。日本は儒教の国だったので、「礼記」まで教えている。わかってもわからなくても、頭に叩き込まれた。

杉本鉞子(えつこ)は長岡藩(新潟)の家老の娘として生まれ、きびしい躾けと教養を身につけた女性だった。当時6歳だった彼女は藩校に通い、男子生徒といっしょになって漢籍を学んでいる。彼女が学んだのは、大学(だいがく)、中庸、論語、孟子(もうし)だったという。鉞子の「鉞」は、「まさかり」という意味である。

女性が漢籍を学ぶのはごくまれなほうだったといっているが、彼女はさいわいにも幼いころから漢籍を学んでいる。のちに彼女はコロンビア大学の教授になっている。ぼくも「礼記」を読んだことがある。「入るを測りて出(いず)るを制す」も「礼記」に出ている。「戦後日本漢字史」(阿辻哲次、新潮選書、2010年)には盛りたくさんのエピソードが書かれていて興味深い。

国語の話で、ぼくは少年のころから疑問におもっているものに、日本語の活用形がある。この小文ではじゅうぶんに書ききれないけれど、動詞活用表を見ていて、疑問におもうことがある。

「行く」という動詞を考えるとき、未然形、連用形、終始形、連体形、仮定形、命令形と書かれ、「行こう」という意志を表すとき、どこにも当てはまらない。むかし、――昭和33年ごろは、最後に「志向形」というのがあって「行こう」を活用表現されていたが、数年後、現在の活用にもどってしまった。

これはどういうことなのだろうとおもう。

むかしは「行こう」は「行かう」と書かれ、未然形に置かれていたが、現在のことばでは、それもかなわないとすれば、可能動詞形の活用として完全なものとはいえない。

現在の活用形では、「第一段・未然形」のつぎに、「――う、――よう」につづく「第二段・未然形」として表記されている。これは、むかしの未然形にそのまま当てはめた考え方である。「――ない、――ぬ」につづく未然には違いないけれど、「行こう」は、あきらかに意志をあらわし、たんなる否定未然形とは考えにくい。「――ない、――ぬ」はあくまでも否定形であるはず。否定形に可能動詞のはたらきを活用させるというのは理屈に合わない。

これは、国語教育に大きな業績をあげられた橋本進吉氏の「文節中心主義」のあらわれだろうとおもわれる。活用語尾の変化ひとつで、別の意味をもたらすのが日本語の特長である。

さいきん、まとまりなく、そんなことを考えている。