女性飛行家アン・モロー・ンドバーグ、「Gift from the Sea

 

 

アン・モロー・リンドバーグ

 

ヒコーキ野郎といえば、もちろん男のことを思いだすでしょう。それはそうなのですが、女性で飛行家といえば、なんといってもアン・モロー・リンドバーグ(Anne Morrow Lindbergh1906年-2001)ではないでしょうか。

アメリカでは、リンドバーグとおなじぐらい有名な飛行家に、アメリア・メアリー・イアハート(Amelia Mary Earhart1897年-1937 )という女性がいました。彼女はアメリカの飛行士ですが、1927年のチャールズ・リンドバーグの快挙につづき、女性としてはじめての大西洋単独横断飛行をしたことから、「ミス・リンディ」の愛称をもっています。

なかなか知的で、とてもチャーミングな女性であったため、当時から人気があったそうです。

最後のフライトは、74日のアメリカ独立記念日。

その日にアメリカ本土に到着することを企図したものの、1937年のこの日、赤道上世界一周飛行の途中で、南太平洋で行方不明になりました。

それはそれとして、ぼくはチャールズ・リンドバーグの妻、アン・モロー・リンドバーグ(Anne Morrow Lindbergh1906 年-2001)には、格別のおもい出があります。彼女の書いた「海からの贈り物」という本を紹介してくれたのは、大学時代、同学年だったある女性です。彼女は英文科に籍をおき、学部学生としてはめっぽう多読の女性で、シカゴに住んでいたとこもあって、彼女は英文をすらすら読めます。その子がある日、「Gift from the Sea」をという本を読んでいて、

「ぜひ、読んでください」といわれたのです。

それはすばらしい本でした。訳文はすでに吉田健一訳で出ていたとおもいます。その本には、たとえば、――

「貝殻はわたしたちに孤独を教える。地上と、海と、空の美しさが、わたしにとって前よりずっと深い意味があって、わたしはそれとひとつになる。すると、宇宙のなかに自分が溶け込んでしまい、それは教会で多勢の人びとが讃美歌を歌うのを聴くのに似ていた。わたしたち人間はみんな、孤独な島なのだが、それらはおなじ海のなかにあるのだ」

彼女の「海からの贈り物」は、いまも多くの読者をもっています。

彼女はもちろんアメリカの飛行家ですが、このように彼女は文筆家でもあり、ぼくは彼女の本を読んでとても興味をもちました。

夫チャールズ・リンドバーグ大佐については、日本でもよく知られていますが、フランスの援兵が2ヶ月以上の費やして乗り切った大西洋無着陸横断飛行、――1927年5月、33時間30分で征服。チャールズ・リンドバーグ大佐の名前を有名にした出来事でした。「スピリット・オブ・セントルイス号」で、ニューヨーク・パリ間の無着陸飛行に成功したのです。

そして1931年、アン・モロー・リンドバーグは夫とともに、空の上から日本に飛来し、その模様を書いたのが、妻の書く「日本紀行」という文章です。

 

私はJOCからの第一信を筆記しました。今まで私たちがシベリア海岸に沿って南下する飛行を忠実にあとづけ、そしてこれから東京まで導いてくれるはずの、日本の根室無線局からです。そのとき私たちは、カムチャツカと北海道をつなぐ千島列島の上空を飛んでいたのですから、国際法の上ではすでに日本の領土内にあったわけです。

これがブロトン湾にちがいない、この緑の火山のなかに盃(さかずき)のようになっている小さな港が――と私は地図を調べました。見たところ、まるで「日本式庭園」の小模型で――湾のそばには、草葺()きの屋根をもったおもちゃの家があり、水の上には小ちゃい平底(ひらそこ)の小舟が用心深く浮かんでいます。

アン・モロー・リンドバーグ「日本庭園」より

 

夫は操縦席のカバーをはねのけて、飛行ヘルメットをかぶり、飛行用のめがねをかけ、遠くまでよく見るために座席を高くして前方にのりだしました。さあ、また戦闘だ! 私は夫のこの見慣れている激戦にのぞむ武装を見て戦闘開始だと覚悟しました。夫はアンテナをひっこめろと手まねで命じます。不時着水の意味です。私はベルトをしっかりしめました。私たちは雲の上に出ている峰のいただきを旋回して、大胆不敵にもすぐ近くまで近づいてから、急降下を試みました。発動機を止めて、下へ! 下へ! と空中滑走をしていると、濃霧につつまれて、一時、なにも見えなくなりました。

アン・モロー・リンドバーグ「日本庭園」より

 

ものの表面をあくまで精細に見ることを知ったあとで、私もその下にかくれているものを見ることを学びます。私は事物の本質――あるものとほかのものとが共通していることを知り、そこでシミール(明らかに目で見ることのできる物と、そうでない物とをくらべることの喩え)を学びます。そうすれば、私たちに茶の湯を説明した日本人のように、ある敷石が、「むいたばかりの梨(なし)のように」ぬれているのを見ます。

そのつぎに、私はメタファー(隠喩)を学び、私の子供のなかにも「とんぼ釣る子」の姿を見ることができます。そして最後に、私はシンボリズムを学びます。

ある日本の友だちが、説明しました。

「竹は繁栄、松は長寿、梅は勇気――」と。

「どうして梅が勇気なのでしょう?」

私はたくましい樫(かし)の木こそ、最もよく勇気を代表していると考えながら、尋ねました。

「そうですとも!」と友だちがいいます。「梅は勇気の象徴です。なぜなら、まだ大地に雪が残っているうちから、梅は花を咲かせますから」と彼女はいいました。

アン・モロー・リンドバーグ「日本庭園」より

 

アン・モロー・リンドバーグは、夫リンドバーグとともに、1931年8月23日に北海道根室に着陸し、1時間後、根室を離陸し、こんどは26日の5時10分に霞ヶ浦に着陸。13日の3時22分に霞ヶ浦を離陸し、6時27分に大阪に着陸しました。そして、最後に17日の7時1分に福岡に着陸し、18日の23時56分に福岡を発ち、中国を目指しました。

 

彼女は、日本語のおもしろさに痛く感動したようです。日本滞在はほんのわずかでしたが、彼女が見た日本は、ことばとともにありました。彼女は日本を去るとき、日本語で「さよなら」をいい、のちに、日本語の「さよなら」は、ほんとうは「そうであるなら」という意味だと知り、「これほど美しい別れの言葉を私は知らない」と書いています。