い靴」のモデル、崎きみちゃんに会った日

 

 
東京・麻布十番パティオ通りに建つ岩崎きみちゃんの銅像。これは立像です。9歳で亡くなるころのきみちゃんのシルエットです。

 「田中さんとは、偶然の出会いが多いですね」と彼女はいいます。

都内銀座の教文館で偶然、彼女に会ったのです。ぼくはそのとき、ジロラモ・カルダーノの人生を知るために、本を手に入れた。ジロラモ・カルダーノはルネサンス時代の数学者で、占星術師でもあった。ダ・ヴィンチに敗けないぐらいのルネサンス期の天才といっていいだろう。

「お茶でも……どう?」と彼女にきりだすと、

「いいわね」と彼女は応じました。

ジロラモ・カルダーノは「わが人生の書」という本のなかで、偶然の確率についていろいろ論じているんだ、とぼくは彼女に話しました。彼女も偶然に興味があったとみえ、そくざに反応しました。

カルダーノはチェスとサイコロ遊びに没頭し、このために、せっかくの才能をすり減らし、財産と人生の大半の時間を失ったのですが、カルダーノの専門家は、「数学はギャンブルからはじまった」といい、「カルダーノがいて、近代数学ができた。その逆ではない」といっています。

森毅さんは「森毅の学問のススメ」で、カルダーノは明らかにスキゾであると指摘したうえで、つぎのように語っています。

「それで、医者、占い師で、賭博打ちというわけでしょ。その3つがなんかものすごくうまくミックスしているわけね。世俗的にはちょっと具合が悪いと言うとるけど、賭博打ちとして名前が広がることと、医者として名前が広がることとが、生活上しばしばぶち当たるというわけ」

「だから、占いとギャンブルの能力、それから、失敗したときには何とかかんとかもっともらしい理屈をつけてごまかさんといかんので、そのためのもったいぶったやり方、そういうのが混然一体となっとるわけでしょ。その上に三次方程式も解けるとかいう(笑)……」

こういう話は、カルダーノにかぎった話じゃなさそうです。

天才はギャンブルが好きだ。そして天才はみんな不幸です。

インドのラマヌジャンは大天才で、生涯に2000ほどの定理を発見したらしいのですが、彼の人生はけっして輝かしいものではなかった。むしろ不幸でした。

数学の歴史に大きな第一歩を築いたのは、16世紀の巨人カルダーノなのだけれど、その生涯は、あまりにも悲惨です。すばらしい才能を持っていたからといって、幸福になれるとは限らない。むしろ、その才能のせいで人生が狂ってしまうことのほうが大きいかもしれません。

――そのとき、店内で童謡「赤い靴」がBGMで流れていました。

「赤い靴よね」と彼女はいいます。

それからぼくらは近くのコーヒー店に行き、コーヒーを飲みました。

その話は、ロッキーとカラオケに行った席で、おしゃべりしました。

ぼくが勤務している会社のはす向かいに、東京・麻布十番のパティオ通りの林のなかに、ぽつんとした小さな銅像が建っています。きみちゃんの銅像です。――きみちゃん、――岩崎きみちゃんといって、童謡「赤い靴」のモデルになった女の子。とても可愛い女の子の銅像です。

おさげ髪にコートを着た少女の立ち姿です。

なぜか片手をコートのポケットに入れています。横浜や北海道にあるきみちゃんの銅像は、みんな立像ではないのですが、ここに建っている銅像は立ち姿です。

麻布十番に、きみちゃんの銅像が建ったのは平成元年でした。横浜の山下公園にはむかしからありました。横浜では、赤い靴をはいた少女が座って、海をじっと見つめています。

異人さんとともに遠い外国へ旅立った少女に思いを馳せて、そこに建てられたのでしょう。このふたつの銅像に秘められた詩のもつ哀愁感は、切ないまでにこころにひびきます。

この歌に海外への夢を託す人もきっといたに違いありませんね。

野口雨情が作詞し、本居長世が作曲した童謡「赤い靴」のモデルになった女の子です。

 

 赤い靴はーいてた女の子

 異人さんにつーれられて

 行っちゃった

 

――ぼくがこの詩をよくおぼえているのは、北海道と関係が深かったからです。ぼくは北海道の出身です。

明治35年、きみちゃんは静岡県で生まれ、まもなく、母かよとともに北海道に移住します。そこで、母は鈴木志郎という男性と再婚し、開拓農場に入植します。生活は貧困をきわめ、母はやむなく3つになったばかりのきみちゃんを、アメリカ人宣教師チャールズ・ヒュエット夫妻の養女にします。宣教師がまもなくアメリカへ帰国することも承知していました。

ふたたび会うことはないと覚悟し、すこしでも娘が幸せになるならばという願いをこめて娘を手放したわけです。

その後、母かよは、夫とともに農場を離れます。生活は窮乏のどん底に落ちてはいましたが、夫志郎は意を決して、札幌の小さな新聞社に勤めます。そこで知り合ったのが野口雨情でした。

そして、この歌ができた。

ところが、横浜から船に乗って外国へいったはずのきみちゃんは、じっさいはそうではなかったのです。宣教師夫妻は明治39年にアメリカに帰国します。とうぜんきみちゃんを連れていく予定でした。

ところが帰国の直前、きみちゃんは重い結核をわずらってしまった。当時は不治の病です。そのまま長旅をつづければ、きみちゃんの命をうばってしまうだろうとおもい、宣教師夫妻は、やむをえず麻布のメジスト系教会の孤児院にあずけ、帰国してしまったのです。

きみちゃんは、まだ6歳の幼女でした。

孤児院でひとり病魔とたたかっていましたが、明治44年9月、きみちゃんは息を引き取ります。わずか9年の短い人生でした。

「赤い靴」が世にでたのは、大正11年。

この事実は、母も雨情も知らなかった。きみちゃんが息を引き取った場所は、麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院でした。この話を友人のロッキー話すと、

「……そうなの。北海道って、どこなんですか?」ときいたのです。

「留寿都村(るすつむら)です。そこにもきみちゃんの銅像があるんですよ」とぼくはいいました。そのとき、隣りの男たちがカラオケの準備をしてうるさかったのですが、むかしの演歌が流れたりして、

「そうだったんですか。野口雨情は北海道の人かい?」とロッキーはききます。

「いや、ちがうけど、小樽の新聞社にいたんですよ。そこには啄木もいたんですよ」

「石川啄木?」

「同僚の啄木といっしょに、主筆の排斥運動かなんかやっちゃって、クビになるんですよ。啄木はケンカ早かったですからね。……啄木は室蘭に向かう。雨情は札幌に出る。そして雨情は札幌のある新聞社に勤める。そこで鈴木志郎という人に会うんです。ある日、志郎は、自分の娘を宣教師にあずけ、遠いアメリカに連れていってもらった、その話をするんですね」

「それが、童謡《赤い靴》になったわけ?」

「そうなんですよ」

鈴木志郎さんは、留寿都村の開拓農場や、郵便配達、炭坑夫、そして樺太にも行き、伝道師としての布教活動までしています。

アメリカ人宣教師チャールズ・ヒュエット夫妻といつごろ、どこで出会ったのかは分かりませんが、きみちゃんには幸せになってほしいという一念で、チャールズ・ヒュエット夫妻の養女にします。まさか、きみちゃんが、麻布十番の孤児院で亡くなっているとは露知らず、きっと幸せに暮らしているものと思っていました。

その後、「赤い靴」は世に知られるようになり、きみちゃんが亡くなっていたことを知ります。母かよは、「きみちゃん、ごめんね」といって、泣きながら亡くなったといいます。

明治44年(1911年)9月15日、9歳で亡くなったきみちゃんは、いまも9歳のままで建っているんですね。

麻布十番の像は、けっして立つことのできなかったきみちゃんの立ち姿を描いています。きみちゃんは現在、青山霊園の鳥居坂教会の墓地に眠っています。

「東京都麻布区史」によると、孤児の女の子たち3人の人身売買の記事があります。ミス・マンロー、ミス・カートルというふたりの宣教師が、明治29年に社団法人永坂孤女院を興し、彼女らの救済に乗り出したという記事が見えます。

のちに「永坂ホーム」と改称し、明治17年に、宣教師マクドナルドという人が麻布永坂町50番地に東洋英和学校を設立。永坂ホームや孤女院の生徒たちの勉強の場として活動を行なっています。

明治18年には、麻布教会堂が建ち、信仰と社会奉仕の精神を学ばせたというのです。貧困児童のための学校「恵風学校」も建ち、おなじころ「孤女院」がつくられたといいます。

いっぽう、広尾町には財団法人乳幼児保育施設が誕生するなど、救済すべき子供たちが数多く麻布にいたことを伝えています。

麻布十番のきみちゃんの像のまえに、だれからともなく、お金を置いていく人が増えていき、東日本大震災が起きて、その復興を願って一年間の義捐金をユニセフにも送られたといいます。総額1211万円にもなったそうです。

会社は、ちょうどきみちゃんの銅像のはす向かいにありました。友人のロッキーの家は5階建てで、屋上からながめると、にぎやかなパティオ通りが一望できます。

「カラオケに、《赤い靴》なんか、ある?」とロッキーがききます。

「さーて。……歌ってみますか?」といいますと、

「はははっ、ぼくはいいですよ」といって、ビールを飲んでいました。

――この物語は、ぼくにとって、近代文学を背負っていた石川啄木と野口雨情、このふたりの活躍する姿と重なって、きみちゃんのことが想い出されます。