■フェルマーの最終定理と「志村・谷山・ヴェイユ予想」。――

Andrew Wilesのひらめき

「ドミノ倒し」理論

   ピュタゴラスの定理

 

 

おはようございます。朝から、またまた数学の話なんか書いたりして、すみません。突然むかしのイメージが湧いてきたのです。

 

つまり、【直角三角形について】

まずもって驚くべきことは、どんな直角三角形においてもピュタゴラスの定理が成り立つということです。つまりこれは数学における普遍的な法則のひとつといえます。逆にピュタゴラスの定理にあてはまる三角形があれば、その三角形は直角三角形であると自信をもっていうことができます。

といっても、じつはピュタゴラスよりも1000年もまえに、すでに中国やバビロニア人はこれを知っていました。しかし、定理がすべて直角三角形で成り立つことは知られておりませんでした。具体的などれかの直角三角形ではたしかに成り立つけれど、すべての直角三角形で成り立つことを示す手がかりがなかったわけです。

 

 

アンドリュー・ワイルズ

 

この定理を発見したのはピュタゴラスであるといわれるのは、この定理が普遍的に成り立つことをはじめて証明したのが彼だったからです。

しかし、ピュタゴラスはどうやってこの定理の普遍性を知ったのでしょうか。

無限に存在する直角三角形のすべてについて確かめることは至難のことです。にもかかわらず、ピュタゴラスはこの定理の普遍性を確信していました。

その確信の根拠は、数学的証明という考え方にあったからです。

数学的証明を探すことは、他のどんな学問分野で蓄積された知識よりも絶対的な知識を探すことになります。この2500年のあいだ数学者たちを突き動かしてきたのは、まさに証明という方法によって究極の真理をつかみたいという強い願望があったからに相違ありません。

数学的証明は、上のような図式によっても確認することができます。

ひるがえって「直角三角形において、斜辺の2乗は他の2辺の2乗の和に等しい」というのが分かります。斜辺の2乗は25となり、他の9と16の和と等しくなります。同様に各体積の和においてもしかりです。

ピュタゴラスの定理は、17世紀まで西欧の数学的定理として威厳をもって君臨していました。ところが、17世紀フランスで、たいへんな事件が起こりました。ピュタゴラスの定理には限界があると異議を申し立てた変わり者の数学者が出現したのです。

その人の名は、ピェール・ド・フェルマーという人物で、今日、彼のいい分だけが残り、彼自身が証明したという肝心の論文が未発見のまま、今もって出てきません。

問題の記述を記すとこうなります。

ピュタゴラスの定理がもし真理ならば、「直角三角形において、斜辺の3乗は二辺の3乗の和に等しい」という定理も成り立つはずであると。「2乗」を「3乗」にしても同様に算出されてもおかしくないと考えました。

ところが、3乗ではどのように計算しても、少し多いか少し少ないか、整数や分数、小数を用いても、結果は満足しないことが分かりました。

また、2乗以外では成立しない定理であることも実証されたといわれています。つまり3乗以上のいかなる乗数においても解が得られないことを証明したのだと。

フェルマーは、のちに「フェルマーの最終定理」として、3乗以上にした場合、解がないことを証明したといわれています。紛失した彼の数学的証明を巡って、以来350年間というもの、あらゆる数学者が挑戦したけれど、だれも証明に成功することができませんでした。「フェルマーの最終定理」は、数学上もっとも難問といわれるゆえんです。

 

 

Andrew Wiles - The Abel Prize interview 2016.

 

 

ところが先年、――といってもだいぶたちますが、――1993年、日本の数学者が「ニューヨーク・タイムズ」紙一面に「フェルマーの最終定理の証明に成功」という記事が載りました。このニュースは世界じゅうを駆け巡りました。数学上の奇跡といわれました。

ところが、半年くらいたって、世界じゅうの数学者が証明の記述を綿密に検討したところ、わずかに計算上の瑕疵が発見され、その前提に立った計算式のほとんどが残念ながら「フェルマーの最終定理」を証明するに至っていないことが分かりました。

「フェルマーの最終定理」をめぐって、なぜか日本人の数学者が多く登場します。1955年、東京と日光で、「国際数学シンポジューム」が開催され、若き数学者谷山豊がそこで論文を発表しています。

その要旨の核心部分をかんたんにいうと「ある楕円方程式のE系列は、おそらくどれかの保型形式のM系列になっているのではないか」というものです。

むずかしいことばが出てきますが、くわしくはすでにのべたとおり、一見するとだれもが無関係なテーマがむすびついた感じに見えたといいます。お互いに関係ないとおもわれるテーマ同士がむすびつくことは、どんな学問分野においてもそうであるように、数学においても建設的な意義をもっているものです。

谷山は、他の数学者の研究を調べることによって、2、3の保型形式のM系列が、それぞれ楕円方程式のE系列にぴたりと対応していることに気づきました。それはあまりにも突飛すぎて、しばらくはこの奇妙な結びつきに賛同する者はいませんでした。

そのなかで、同僚の志村五郎だけが唯一の援軍となりました。志村は、谷山豊の天才的な仮説に衝撃を受けたひとりです。

しかし、谷山はその後ある事情で自殺してしまい、彼の婚約者もその後、あとを追うようにして自殺します。若き数学者の自殺は奇妙な醜聞を呼んで報道されました。

谷山はその5日前に31歳になったばかりでした。志村は、谷山の遺した偉業「フェルマーの最終定理」の難問に挑んだ彼の優れた予想を世に知らしめたいと願い、ほとんど彼の生涯を「谷山=志村予想」の完成にささげました。

のちにアンドリュー・ワイルズを指導することになるジョン・コーツが、その研究に着手したのは10年後の1966年でした。

 

 

Interview with Andrew Wiles.

 

ちょうど「谷山=志村予想」が世界を席捲しつつあったころです。

ところで、アンドリュー・ワイルズという名をここで記憶しておいてください。アンドリュー・ワイルズは当時ケンブリッジ大学の若手研究者でした。

この「谷山=志村予想」には世界じゅうのだれもが驚き、すべての楕円方程式がモジュラーになるのだろうかと、この問題に深い関心と真剣な眼差しを向けはじめました。

当然アンドリュー・ワイルズも大きな関心をもったに違いありません。1984年、ドイツで数論研究者によるシンポジュームが開かれました。

彼らが集まったのは、楕円方程式の研究におけるさまざまな進展について論じ合うためでした。そのメンバーのひとりだったゲルハルト・フライは、「谷山=志村予想」を攻略する方法については何もアイデアはもっていませんでしたが、「谷山=志村予想」を証明することは、そのまま「フェルマーの最終定理」の証明につながるという驚くべき主張を行ないました。

もしも「谷山=志村予想」が成り立てば、何世紀ものあいだ未解決だった楕円の世界の問題を、モジュラーの世界の側から攻略することができ、その価値は大変なものになると考えたのです。

「楕円方程式の領域」と「モジュラー形式の領域」との統一は、数学者にとってまったくの希望の星だったからです。

プリンストン高等研究所のロバート・ラングランズ、ハーバード大学のバリー・メーザー、20世紀の数論のゴッドファーザーともいわれるアンドレ・ヴェイユAndré Weilなど、多くの著名な数学者たちが「谷山=志村予想」を今世紀最大の偉業と誉めたたえました。

「谷山=志村予想」は、たしかに証明そのものではないけれど、「予想」の名に相応しい鋭いアイデアと意表を突いた斬新な展開に満ちていました。

超一流の天才的な数学者がいう、驚嘆すべき「谷山=志村予想」なる論文は、残念なことにぼくにはまったく突飛な代物で、ついていくのも至難です。しかし、その秘めた想像力の才の大きさに圧倒されつつも、その計算がどのように周到に準備されていったかを知るにおよんで、谷山豊の死は、はかり知れないほどの衝撃を受けました。

無限との闘い。――それは、人が素朴に考えたり、実際にやってみたりしたことはどれもみな、要するに楕円方程式とモジュラー形式をそれぞれ勘定して、どちらも同じ数だけあると示すことでした。

しかしこれまで、かんたんにやれる方法をだれにも見つけられませんでした。第1の問題は、楕円方程式もモジュラー形式も無限に存在するからです。人間は、無限までは数えることができません。数える方法がないのです。当時も今も、これからも永遠にないのです。

ワイルズが採用した方法は「帰納法」でした。

帰納法は、強力な証明方法になってくれるはずでした。なぜなら、この方法によればたったひとつの場合を証明するだけで、無限にあるすべての場合を証明することが可能になるからです。

第1段階では、その命題が1について真であることを証明します。

次の段階では、その命題が1について成り立つならば、2についても成り立ち、2について成り立つならば3についても成り立ち、3について成り立つならば4についても成り立つ……と、どこまでも無限につづくことを証明すればいいのです。帰納法による証明は、本質的に次のふたつの手順から成り立ちます。

 

 (1)最初の場合に命題が真であることを証明する。

 (2)命題がある場合に真ならば、次の場合にも真であることを証明する。

 

帰納法というのは、「ドミノ倒し」理論とも別名いわれるように、ドミノ倒しの感覚で作業をすすめます。ワイルズの課題は、無限に存在する楕円方程式のひとつひとつが、無限に存在するモジュラー形式のひとつひとつに対応することを、帰納法によって証明することでした。

この着想に辿りついたとき、ワイルズは、この考えがなんと19世紀フランスの悲劇的天才数学者エヴァリスト・ガロアの研究のなかに潜んでいることを発見したのです。「最初のドミノ牌を倒す」、これです。

ガロアの計算の中心にあったのは、「群論」と呼ばれる概念です。

数学でいう「群」とは、加法や乗法などの演算によってむすびつけられる要素の集合のことです。「群に含まれる2つの要素を演算によってむすびつけた結果は、やはりその要素になる」という考えです。

たとえば整数は、加法という演算の下で群になっています。実際、ある整数と別の整数とを加法でむすびつけると、第3の整数になります。

 

       4+12=16

 

「整数は加法について群をなす」というわけです。

整数は除法については群をなしません。なぜなら、ある整数を別の整数で割った結果はかならずしも整数になるとは限らないからです。

ワイルズは、ガロアの研究の成果をつぶさに検証することで、無限の要素からなる群ではなく、ある特定した方程式をとりあげ、その小数の解を構成することに着目したのです。

ガロアが5次方程式に関する結果を導くことができたのは、こうして作られた群のおかげであったといいます。

こうしてワイルズは、「志村・谷山・ヴェイユ予想」を証明するための出発点として、ガロアの研究を利用することを思いつきました。

ワイルズの独創的な点は、他の数学者とは根本的に異なるアプローチをとったことです。話の要点を簡略にまとめていうと、これまでの研究者が辿ったやり方は、まず、ある楕円方程式のDNA(E系列)が、あるモジュラー形式のDNA(M系列)と一致することを示し、しかるのちに、楕円方程式について同じことをつづけていこうというものでした。