あの澤征爾節を、もう一度きたい


 

新潮社、2013年

ぼくはよくよく考えてみれば、小澤征爾さんに巡り合えたこと、その音楽に巡り合えたことに、たいへん大きな喜びを感じている。

「俺これまで、こういう話をきちんとしたことなかったねえ」と語る小澤征爾さん。ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第3番、復活のカーネギー・ホール、60年代の軌跡へとつづく。

作家の村上春樹さんの問いに答えて語る小澤征爾さんの音楽について語るこの絶妙な取り合わせが、なんと1年におよぶロング・インタビューとなり、1冊の本になった。

この本で小林秀雄賞を受賞なさった。――あれから10年が過ぎた。

街の珈琲店で珈琲を飲み、冬枯れの戸外の寒々しい風景を見つめたとき、ふと、意表を突くような音楽が流れてきた。まさにベートーヴェン・ピアノ協奏曲第3番だった。

ぼくはピアニストのことを想わないで、そのときなぜか、小澤征爾さんのことをおもい出した。そういうことはめったにない。

さっきユニクロでシャツを買い、帽子を買った。帽子はユニクロのとなりの店で。ほんとうは女性用の帽子なのだが、かまうもんかとおもって、4000円のシルクっぽい肌触りの、というか、PP加工をほどこしたみたいな艶消しの、ちょっと粋な帽子なのだ。

気に入れば買ってしまい、ヨーコに何かいわれるのを覚悟してこっそり買ってしまった。

その楽しいこと。――まるで耳が、心地よい音楽に触れるときのようだ。

耳が耳なら指も指で、ピアノの黒い鍵盤に触れるような心地よいタッチ。果たしてどんな音が奏でられるだろうか、それはその帽子をかぶる人によるだろう。80代はもっと輝きたい。もっと溌剌として、街を歩きたい。猫背は嫌だぜ。きゅっと背筋をのばして、……。

 

小澤征爾さん

 

2024年は、新年を迎えてから、時の流れが一段と加速した感じがする。

そこには忘れがたい音楽がある。

ぼくはがんをわずらって、たいへん落ち込んでいたときに聴いたキングクリムゾンの甘いロック・ミュージック。初代のレット・ツェッペリンだってそうだ。あの時代の音楽は、もうどこにもないかのように、無性に愛おしく想いだされる。

「ただ僕が春樹さんとこうして話していて、面白いなと思うのは、もちろん僕の見る目とは見方があちこちで違うんだけど、その違いのあり方なんです」(小澤征爾)

「そう言っていただけるとありがたいです。僕はレコードで音楽を聴くことを大きな喜びとして生きてきた人間なので」(村上春樹)

「僕はそれで、そのレコード屋さんにいる間に思ったんだけど、この対話というのはマニアのためにはやりたくないんですね。マニアの人には面白くないけど、本当に音楽の好きな人たちにとって、読んでいて面白いというものにしたい」

「わかりました。マニアが読んで、なるべく面白くないものにしていきましょう」

 で、ぼくはマニアにはおもしろくないという本、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮社、2013年)という本を37ページさっき再読したばかりだ。目くるめくような、音楽の好きな読書家の魂に触れる話だった。

作家のことばによる表現力と稀代のマエストロのことばは、掛け算しても得られない音楽の感情からはみ出てしまう膨らみがある。

「俺、これまで、こういう話をきちんとしたことなかったねえ」とマエストロがいった。

インタビューのはじまりは、ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第3番。

復活のカーネギー・ホール。

60年代の軌跡、そして次代の演奏家たちへとつづく。「良き音楽」を求め、耳を澄ます小説家に、マエストロは率直に自らのことばを語る。東京、ハワイ、そしてスイスで、村上春樹が問うとマエストロが答える。あるときはヨーロッパの風景のなかを走る列車のなかで――。

「思うんだけど、この最初のオーケストラの出だしって、すごくベートーヴェン的というか、しっかりドイツ的な音ですよね。でも若いグールドにしてみれば、そういうのをちょっとずつずらしていって、ほぐしていって、自分の音楽を構築していきたいという気持ちはありますよね。そういう両者の姿勢がもうひとつ噛み合わないというか、端々でちょっとずつずれていくというか。かといって、ときに悪い感じはしないんですけど」(村上春樹)

「グールドの音楽って、結局のところ自由な音楽なんですよ。それともうひとつ、彼はカナダ人というか、北アメリカに住む非ヨーロッパ人だから、そういうところの違いは大きいかもしれないね。ドイツ語圏に住んでないってことが。それに比べてカラヤン先生の場合は、ベートーヴェンの音楽というのがもう揺るがしがたく自分の中に根付いていて、だからもう出だしからドイツ的というか、かっちりしたシンフォニーなんですよね。それにカラヤン先生の方には、グールドの音楽に器用に合わせようというつもりは、まったくない」(小澤征爾)

そんな語りの端々に、西洋音楽の古き時代の息吹が音楽のように流れるのだ。

人は何かを語る。語らずにおられないのだ。

このふたりは、ずーっと語ってきた。マエストロはタクトを振って、作家は自分の描くイメージを追って。

「(カルロス)クライバーの《ラ・ボエーム》はそんなに素晴らしかったんですね」(村上春樹)

「あのね、指揮者がもう、あの芝居の中にずっぽり入り込んでしまっているんです。指揮のテクニックなんてものはもうどっかに吹き飛んじゃってる。僕はあとで訊いたんです。どうしてそんなことができるのかって。そしたら彼はね、《おいおい、何を言っているんだ、セイジ。俺はね、《ラ・ボエーム》なんて眠ってたって指揮できるんだ》って言った」(小澤征爾)

「ははは、すごいなあ」

この話、――そう、ずっと前、小澤征爾さんがどこかで書いていたかしゃべっていたのを知っている。その「ラ・ボエーム」っていう響きが、ぼくにはとっても心地よいのだ。

青柳いづみこさんの「どこまでがドビュッシー? 楽譜の向こう側」(岩波書店、2014年)という本を読んでいたら、巻末に差し掛かるころに出てくる「村上春樹さんと小澤征爾さん」の項がおもしろかった。

「小澤征爾さんのお父さまの小澤開作さんが家にいらしたことがある」と書かれていたからだった。青柳いづみこさんの祖父と開作さんは山梨県のおなじ村の出身、おなじ小学校に通ったそうだ。正確にいえば、「地つづきに住んでいた亡祖父でフランス文学者の青柳瑞穂を訪問するため」であるという。

2009年12月、小澤征爾さんが食道がんを宣告されてから、さかんに指揮活動をしているころの小澤征爾さんが、音楽以外の話をすることも多かったという。

手術を受け、療養生活にはいると、音楽を語るだけでも「なんとなく生き生きした顔つきになった」そうだ。

ある日、小澤征爾さんを、村上春樹さんのご自宅に招待したとき、グレン・グールド、バーンスタインとブラームスの「ピアノ協奏曲第一番」を共演したときの想い出話をきき、それがあまりにおもしろかったので、ぜひとも文章として残したい、それができるのは自分(村上春樹)しかいないと感じたという。

オーケストラがピアノのバックで3つの上昇音を奏でるシーンで、小澤征爾さんは、「ほら、《らあ、らあ、らあ》っていうやつ。そういうのを作っていける人もいるし、作れない人もいる」と語る。

 

 

小澤征爾、79歳

 

 

ぼくが学生だったころは、ベトナム戦争前期で、米海兵隊員来日の日々がつづく時代だった。

1960年代の銀座2丁目の銀座通りに、ピアノの生演奏を聴かせてくれる、とってもいい名曲喫茶があった。その名も「ラ・ボエーム」っていうんだけど、その店にミミみたいな女の子がいて、ぼくの伝票に赤鉛筆で「友人」と書いてくれて、半額の30円で珈琲を飲ましてくれたのだ。

昼間行っても、夜行っても「30円」だった。

「24日のクリスマス・イブの夜、きてくれるなら、お席とっておきます」といってくれたっけ。

で、ぼくは可愛い女の子をむりやり連れていった。

その夜は珈琲代は特別高かったけれど、ぼくだけ「30円」で飲ませてくれた。

ぼくは悪いな、とおもって、ミミに、有楽町のピカデリーのロードショー映画のチケットを数枚プレゼントしたっけ。そしたらミミは恐縮してキスをしてくれた。

彼女はたぶん、ぼくよりもずっと年上で、ぼくのことを弟みたいにおもっていたのか、ぼくの銀座時代は「ラ・ボエーム」が、ぼくのお気に入りの独学室になった。

教文館で本を買うと、きまってその店で本を読む。

ユージン・オーマンディなんていう指揮者も、そこで知った。ぼくは村上春樹さんみたいに、コンサートではなく、レコード音楽を通して、さまざまな曲を聴いてきた。

「おお、マンディ」なんていって、ぼくをからかった先輩がいて、登山家みたいな人だったが、その人はカラヤンが好きで、多くのカラヤンのエピソードを聴いていた。野村あらえびすの「楽聖物語」をはじめ、いろいろな西洋音楽の本を読んで、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」の話も読んだが、本をいくら読んでも音楽はわからない。その彼らの音楽を聴かなくては。

野村あらえびすというのは、作家・野村胡堂の音楽関係のペンネームである。

 

樫本大進

世に「N響事件」というものがある。

NHK交響楽団は1964年に小澤征爾さんと「客演指揮者」の契約を交わした。これからの日本のクラシック界を盛り上げようがために、この若き指揮者を迎え入れて、最初はメシアンの「トゥーランガリア交響曲」の日本初演をするなど順調な船出となった。

しかしNHK交響楽団の東南アジア演奏旅行中、両者の間に修復不可能な軋轢(あつれき)が生まれた。

この演奏旅行から帰国後、NHK交響楽団の演奏委員会側から今後、小澤征爾とは二度と演奏・録音はしないとの発表がなされた。この騒動を称して「N響事件」と呼ばれている。

小澤征爾さんは27歳だった。生意気なやつ! というわけである。

樫本大進さんの場合はどうか。2009年9月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団第1コンサートマスターに樫本大進さんを内定したのは、30歳のときだった。生意気だったかどうかは知らないけれど、それは凄いことだとおもった。いま橋本大進さんは45歳で、ベルリン・フィルの顔である。

ぼくにとって音楽は、想い出とともにあった。

タングルウッドもザルツブルクもこの目で見ていないのに、ぼくはじゅうぶん知り尽くすほどの知識を持つと、グールドっていうピアニストは、どうやって巨匠カラヤンとの共演をこなすようになったかがわかる。その確かな証言が、小澤征爾さんの語りのなかで聴かされて、やっぱりそうだったのか、とおもう。

グールドは、ちっともカラヤンのことを恐れていないのだ!

若造のピアノに合わせないマエストロは、わが道をいくというように、あくまでもドイツ音楽式にベートーヴェンを振るのだ。

グールドは、きっと鍵盤に突っ伏すように、斜めになったピアノベンチに座って、彼のスタイルで演奏したに違いない。その映像は、おそらく若き日の小澤征爾さんとは違ったスタイルだったに違いない。

ふたりとも、けっして優雅とはいえないスタイル。ヤン・パデレフスキーの振る舞いとは天と地ほどの違いがあって、それでいて、ホロヴィッツやルービンシュタインに飽きた聴衆は、そんなグールドに熱狂したのだ。だが、小澤征爾さんの語る1950年代の話は、まさに20世紀は音楽の世紀だったことを物語っている。

ぼくにはぼくのスタイルというものがあるらしい。それは、どういうものだろう。

村上春樹さんの時代に近いせいか、ぼくはレコード音楽に慣れ親しんだ世代で、あとの世代が怒濤にように押し寄せてくる戦後の団塊の世代に追われるようにして聴きまくった世代かもしれない。村上春樹さんの小説「風の歌を聴け」は、そういう世代の歌なのだ。それが英訳されたはじめての処女長編「Hear the Wind Sing」で、世界でも多く読まれたが、そのシーンはそっくりぼく自身のシーンでもある。

きょう、この本を再読して、頭の芯がじーんと痺れた。この本を企画したのは、もしかして、村上春樹さん?  どうもそうらしいとおもい直したとたんに、寂しげな小澤征爾さんの横顔が目のふちを掠める。「ああ、小澤征爾さんは亡くなったのだ!」というおもいで。