洋を制したギリス外交の何を学ぶか

 

仰々しくタイトルに「海洋を制したイギリス外交の何を学ぶか」と書いてみると、「まてよ……」とおもってしまった。

ぼくがむかし、イギリスで手に取って読んだ本は、V・S・プリチェット(1900年-1990年)の著作だった。ぼくはV・S・プリチェットについては詳しくない。

詳しくないのだけれど、もう40年以上もまえ、彼の「London Perceived(ロンドンの感触)」という、恩師小野寺健さん翻訳の本に触れ、イギリスについての彼の文章を何度も読んできた。

作家としての評価はどういうものかぼくにはわからないが、さすがは作家で、その本による多方面におよぶ教養の高さに恐れ入った。

この種の本は、旅行者には不人気で、おそらく学生も読まないにちがいない。いったいだれのために書いたのだろう? 

そんな感慨をもって読んだことがある。

「パリは知性、ニューヨークは活動、ロンドンは経験だ」と書かれている。

経験だって?

そう、経験なのである。

 

 

イギリス・ロンドン「紅茶の飲み方」論争。

 

パリはなるほど哲学が流行した知性派の街だし、ニューヨークは世界エネルギーの発電所のようなところだ。その伝でいくと、ロンドンはそのいずれでもなく、それはいったい何だろうとおもってしまう。ぼくがはじめて渡英したころは、ロンドンはビートルズの街だったし、1990年ベルリンの壁が破壊されるころは、デヴィッド・ボウイの街だった。デヴィッド・ボウイならば、ロンドンは「経験である」といい得たかもしれない。

多くの作家がロンドンを舞台に何か書こうとすると、ひとむかし前までは、濃霧、黒煙、ホコリ、夜の暗さ、雨、すべてが広すぎること、醜悪な風景、侘しさ、陰気、愚劣さ、孤独感……などなどが、かならずといっていいほど繰り返し描かれている街だった。

――その第1章には、重苦しい都会、頭痛の町、これがロンドンなのである。だいいち、ロンドンは「ロン」と「ドン」という具合に、この2音節は、ハンマーでずしんずしんと叩かれるような趣きがあるといっている。そういう街を歩いていると、権威とか、寡黙とか、尊大さとか、得体の知れない重圧が否応なくのしかかってくる。

1964年の秋、はじめてロンドンを訪れたとき、まさにそういう重苦しい雰囲気にのみ込まれた。街には濃霧が立ち込め、鉄道を走る蒸気機関車からは黒煙が吐きだされ、風景はどこもモノクロの世界なのだ。

「――3ヶ月以上、ここに滞在しますか?」ときかれ、ぼくは「イエス」と答えた。すると、住居が決まったら最寄りの警察署に出頭してください、というのだ。

「警察署だって?」

「そこで手続きをおこなってください」というのである。ははーん、じぶんは日本人だから、20年前までは敵国人だった。敵国人は何をするか、見届けようというわけか? とぼくは咄嗟(とっさ)に考えた。

「だからといって、ぼくは犯罪者じゃないぞ!」と、こころにおもった。

作者のいう「Perceived」という最初の洗礼がこれだった。

パリからやってきたじぶんは、パリのおおらかな人びととはきょくたんに違う、どこか胡散(うさん)臭そうにながめやる長身のイギリス人に接し、「はい、そのようにします」と、東洋からきたぼくは潔く答えた。

そのとき、もしもV・S・プリチェットの「London Perceived」という本を読んでいたら、もっと落ち着いた気持ちになれたかもしれないが、あいにくと、この本が出たのは、それから10年後の1974年だった。

ぼくはいまでもロンドンの街を好きになれない。そのときの重圧がわすれられないというのではなく、ぼくはイギリス人と話していて、笑顔を見たことが一度もなかったからだ。

イギリス人は笑わないのか? とおもった。

いまもひとりのイギリス人とつき合っている。彼の笑顔も見たことがない。いや、ときにはにやりと薄笑いを浮かべたりする。そんなふうに見えただけかもしれない。これはのちにわかったことだけれど、ぼくは長いあいだ彼らを誤解していた。

教養のあるやつは、じぶんの教養を相手にぶつけてくる。それとわかるようなあからさまな態度ではなく、ぐっと控えめに。そこに女性が通ると、彼らは大急ぎで服を着て会釈をする。相手が学生であろうとなかろうと、それは変わらない。イギリスにも貧富の差はあるが、貧富の差で人間を見ようとはしない。貧しいサーカス芸人の息子が、首相になれる国なのである。

日本の男子学生は、女性がきたからといって、ブレザーを大急ぎで着たりしないだろう。

歌川広重の浮世絵にもあるように、ふんどし一本になって、客人を乗せて櫓を漕ぐ姿は美しい。女のまえで、ふんどし一本とはなんと不謹慎な! とおもうかもしれない。庭先で女性が行水をすることなどもってのほか! 路上での立小便ももってのほか!

日本人は、いまでもふんどしを締めている、相撲がそうだ。ふんどし一本で仕事をしている。これが国技なのだ。

この国は、しかしふしぎだ。

黒人奴隷制は、18世紀に、ロンドンの法廷の一治安判事の一言によって非合法化されたのだ。いっぽう、地下鉄のベルサイズ・パーク駅で降りるとき、パスポートを出さなければならない。これは古いジョークだが、そのころ、ぼくは何も知らなかった。

その後ティムズ川に抱かれたロンドンは霧が消えたかのように陽気な街になったという。それは信じられない話だ。

 

わたしの年齢だと、ロンドンの異なる時代を、三つは見ている。鉄道馬車にも乗ったし、二人乗り一頭立ての辻馬車に轢かれたこともある。マフィン売りのベルの音も聞いているし、ロンドン市庁前で、白い上っぱりを着た前途洋々たる何十人という若者たちが往来にとび出して行って、馬糞あつめにかかるところも見た。二、三〇年代の、すさんだ革命前夜のようなロンドンも経験していて、ひと目でそれとわかる仕事のないひとり者の列が、たがいに二〇ヤードずつ離れて口もきかず、店のウィンドからウィンドへとふらついていたのも見ている。彼らは失業者たちだった。

(V・S・プリチェット「ロンドンの感触」より、小野寺健訳

 

その朝から、グレイト・ブリテンは島ではなくなった。何世紀ものあいだ、手に負えない海と靄にかくれて敵の侵入をのがれていたロンドンも、ついにヨーロッパの攻撃にさらされたのである。一九一八年に第一次大戦が終わったときには、シティはアメリカに投下した海外資産を失い、すでに世界の主要な資本市場ではなくなっていた。ロンドンが蓄積した知識と頭脳は力を持っていたものの、支配力は失っていたのである。一九四〇年を待たずに帝国は連邦に変わり、一九四六年までには帝国の名残りが、大部分は平和裏に現地住民に引きわたされて以来、ロンドンはたかだか小国の首都となった。

(V・S・プリチェット「ロンドンの感触」より、小野寺健訳

 

これらはいわれのない話ではない。

1918年といえば、日本はいろいろ曲折はあったものの、「日英同盟」のさなかにあって、いっぽうでは、イギリス政府も世論も、はじめは反日親清的な態度を示していた。

イギリスには、「日英同盟」締結にたいするマイナス要因がいっぱいあった。それは、東トルキスタン、チベット、ペルシャ湾、アフガニスタン、バルカンなどで対立するロシアを敵にまわしてしまう危険性があったからである。

それにも増して、通商国家としてイギリスは、極東における国々とは平和をのぞんでいた。しかし、同盟をむすんでも、イギリスは日本の軍事力に期待できなかった。

それでもイギリスが「日英同盟」に踏み切らせた要因は、日本の海軍力の成長にあった。欧米諸国は、日本の協力なくして艦艇を長期間極東に配置することはできなかったからである。

そして義和団事件。――義和団に包囲され、各国の公使やその家族が北京に籠城したとき、陸軍の武官だった柴五郎中佐の活躍は世界の人びとを驚かせた。

日本人わずか24名で、数万人の敵の包囲網を蹴散らしたのである。はたしてそんなことができたのだろうか、といぶかる向きには、当時の「ロンドン・タイムズ」を見せればよい。

「ロンドン・タイムズ」はこのニュースを一面トップで報じ、社説では、北京籠城中の外国人のなかで、「日本人ほど男らしく奮闘し、その任務をまっとうした国民はいない。……日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのである」と報じた。

この報があってからしばらくして、日本の海軍力の成長と動員数の規模が大きくなるにつれて、逆に、日本への警戒心がふくらんでいった。同時に、極東における日本の存在感が日増しに増していったのである。

「日英同盟」の成立は、不平等条約が改訂されたわずか2年後だった。

世界に黄禍論が吹きすさぶなかで、近代化したばかりの小国日本が、世界の海を支配する大国と対等の立場で同盟条約を締結することができた。

それからの日本は、日露戦争の勝利へと歴史が大きくうねりを見せた。

少なくとも、16世紀以降の歴史では、制海権の獲得に成功した国が覇権をにぎってきた。オランダ、スペイン、イギリス、アメリカと、シー・パワーのパワーバランスの変化が歴史にちゃんと描かれている。そのころの海上交通路は、いまではシーレイン(Sea Lane)と呼ばれ、海洋を制した国が世界を制してきた。

それはなぜか?

海洋国家は、海洋が天然の城壁の役割をになってきたからである。他国の侵略を受けることも少なく、第3国の領土を経由することなく自由に外国と交易することができ、必要な物資や文化を導入することができた。

イギリスと日本は、ともに島国であり、海洋国家である。

大陸国家と海洋国家は、政治的にも経済的にも、軍事上の相違点もそれぞれちがった形態をとってきた。

フランス、ドイツ、ロシアはともに大陸国家で、国境の向こうから敵が侵入する脅威にさらされてきた。とくに中国は、元の侵攻に悩まされ、自国文化の優越性から、周囲の民族を「東夷」、「西戎(せいじゅう)」、「南蛮」、「北狄(ほくてき)」と呼び、それらの国々と対等の国際関係を維持してこなかった。中国の世界観は、中国の正義に服する属国としてあつかってきた。

イギリスもまた、日本を、劣等民族の一員と考えられていたが、その黄色民族の日本が、対等な関係で軍事同盟を締結し、日本が海洋を経由してヨーロッパ文明圏に入ることを認めたのである。

日本は、日英同盟によって、ドイツやフランスの日露戦争への干渉を抑え、白色人種に打ち勝ち、世界に登場することができたのである。

かつて長州藩の伊藤博文や井上馨より1年遅れて、1864年に幕府の禁制を犯してイギリスに渡った男がいた。広島藩の村田文夫である。それに佐賀藩士の石丸五郎、馬渡(もうたい)八郎を加えた3人である。

彼らが見たティムズ川沿いのウーリッチ造船所のドックは、長さ2000メートルを超え、鉄製の軍艦が建造されていた。3人は、木造船しか見たことがなかった。しかも、鉄製の外壁が破壊されても、その内側にある内壁で守られるという代物だった。船腹には巨大な「車輪」があり、船尾には「螺旋車」をそなえ、蒸気機関を動力にしていた。

やがてリバプールにも巨大なドックがつくられていることがわかり、港からは世界にのびた航路が何本もつくられ、港湾は活気に満ちていた。

こんなふうにして、日本の若者は、世界の先進軍事大国を見て、キモをつぶしたのが奇縁となったのである。