弁護士・木ひろし先生との会い 4

 

正木ひろし「裁判官――人の命は権力で奪えるものか」、カッパブックス、1955年。

 

ぼくは橋本忍という稀代の脚本家を知り、この人のドラマづくりに圧倒されたことがある。八海事件を描いた映画「真昼の暗黒」には、無罪をいい渡されるシーンはない。

「まだ最高裁がある! まだ最高裁がある!」

と、阿藤周平が拘置所の金網にぶら下がって叫ぶところで映画は終わっている。

映画では阿藤周平役には草薙幸二郎、その婚約者役には左幸子、正木弁護士役には内藤武敏、被告の母親役には北林谷栄、捜査主任役には加藤嘉というキャスティングで制作された。

最初、橋本忍がつけたタイトルは「白と黒」だったが、ハンガリーのジャーナリストで作家のアーサー・ケストラーの小説「真昼の暗黒」を借用することになった。

資料によれば、ケストラーの「真昼の暗黒」は、1940年に発表され、スターリン体制のソビエトで拷問による自白強要、粛清の惨状を生々しく告発したものだった。

主人公のモデルはブハーリン。

彼は、スターリンによって粛清されたソ連の政治家である。タイトルはミルトンの詩「闘士サムソン」の1節、「ああ、暗い、暗い、暗い、真昼の炎の中にいても……」から取られた。

ケストラー自身もスペインでフランコ軍に捕らえられ、死刑判決を受けた経験を持つだけに、迫真の心理描写で書かれているようだ。ウソの自白によって死刑にされるという点は、八海事件にぴったり当てはまる。

原作は、正木ひろし氏のベストセラー本「裁判官――人の命は権力で奪えるものか」であるが、この本は、1951年に単独犯だった犯人が罪を軽くすることを目的に、知り合い4人を共犯者に仕立てた冤罪事件である八海事件を扱ったノンフィクションである。

監督の今井正は、この本をもとにして映画をつくった。

完成した「真昼の暗黒」は、東映系で上映されるはずだったが、係争中の裁判をテーマにした映画の公開は好ましくないという理由で、最高裁判所は東映に対して上映しないように圧力をかけた。

他の大手も同様に配給を断り、「真昼の暗黒」は大手配給網から完全に閉め出された。さらに、最高裁は直接プロデューサーの山田典吾や今井正監督を呼び出し、制作を断念するように迫ったという。だが、屈しなかったのである。

シナリオは、橋本忍氏がもっとも得意とするカットバック方式が豊富に盛られていて、先に法廷の描写からはじまり、その証言の際にカットバックで犯行を再現する手法がとられている。これはのちに、松本清張原作の「霧の旗」(山田洋次監督)でもさかんにカットバックが使われた。

おもしろいのは、映画「真昼の暗黒」では、正木ひろし弁護士の反対尋問のなかで、検察側の主張によれば、こんなふうな犯行になるはずだが、果たしてこんなことがあり得るだろうかと述べるシーンがある。

犯人とされた5人が集合場所から犯行現場まで、まるで陸上部のロードワークのように走りながら、おまえは羽目板を外せ、おまえは家人を殴り殺せと役割を分担させる。犯行現場では5人が、コマまわしのように、ユーモラスに動きまわりながら人を殺し、周囲を物色をする。

それでも間に合わない。

最後のひとりは、「忍術のかっこうで飛んでいくしかないではないか!」と弁護士が主張すると、カットバックシーンの犯人はいきなり忍術のかっこうをしてパッと消える。

すぐに法廷場面に切り替わり、傍聴席の爆笑を写す、という具合である。それでも判決は死刑だった。

理不尽な判決に対してラストシーンで、主役の阿藤周平が拘置所の金網をつかみながら、面会室から去っていく母親に向かって、

「おっかさん、まだ最高裁がある! まだ最高裁がある!」

と叫ぶシーンは、裁判の不条理を劇的に表現しているとおもう。

のちに阿藤と結婚するまき子さんも、この映画を見て感動したひとりだったという。――とうじ、まき子さんは富山県の紡績工場に勤務していた。

映画を見たあと原作の正木ひろし弁護士の「裁判官」という本を読み、広島拘置所に励ましの手紙を書いて、ふたりの文通がはじまった。

また五番町事件という殺人事件の犯人が、この映画を見て、五番町事件でも別の人が有罪とされていることに良心の呵責を感じ、真犯人として自首するという珍事も起こった。

この事件では、担当の検察官が辞職に追い込まれた。

「真昼の暗黒」は、キネマ旬報でベストワンに輝く。

橋本忍氏の、はじめての快挙だった。これは、単独脚本での初の受賞作品となった。阿藤周平は、無罪判決のあと、はじめてこの映画を見ている。

阿藤周平ら4人の人生をめちゃくちゃにした真犯人の吉岡晃は、その後どうなったのか。彼は無期懲役だったが、服役態度がよかったので、17年目に仮釈放となった。

「吉岡はもう死にましたよ。亡くなって、もう10年以上になります。吉岡は無期懲役になって17年目で出所しました。わたしが無罪になったあと、一度謝りに来たことがあるんですよ。わたしは当時、小さな運送会社を経営していて、事故で大怪我をしましてね、危篤状態になりました。そのとき吉岡が、病院に弁護士先生といっしょに来ましてね、たぶん、わたしが死ぬと思って、そのまえに謝りたいと思ったんじゃないかな。でも、わたしは断りました。会う必要がないと」

それからしばらくして、吉岡が謝罪の記者会見をすることになり、広島まで4人全員と出向いた。「いまさら謝らなくてもいい。ほんとうに謝罪する気があるなら、警察といっしょになって、ずーっとウソの供述をつづけた内幕を、ぜんぶ世間に暴露しろ!」というと、

「そうします」といって吉岡はうなだれたという。それから吉岡は間もなく、結核で死んだ。じぶんの死期を知っていたふしがあるという。

今回は、橋本忍の代表作となった映画脚本「真昼の暗黒」を取り上げたけれど、おなじ正木ひろし原作の「首」という映画がある。

これも橋本忍の単独脚本だが、これは、ぼくがちょうど正木ひろし弁護士と出会った年に公開された。この映画の話も先生から聞いてはいたが、見る機会がなかった。むろん、「橋本忍 人とシナリオ」にはシナリオが載っている。森谷司郎監督、小林桂樹主演。

正木ひろし氏が戦中に手がけられた警察官による公務員特別暴行致死事件、――俗に「首なし事件」と呼ばれ、その顛末を書いた正木ひろし氏の「首」が原作である。

警察の暴行によって殺されたらしい被害者の遺体は、すでに埋葬ずみだった。

暴行の事実の立証を依頼された正木ひろし氏は、証拠である被害者の遺体を司法解剖するしかないと判断した。

しかし地元警察が目を光らせている。

現地ではとうていできそうにない。

司法解剖するなら、親しくしている東大法医学教室しか考えられないが、そのためにはまず遺体を掘り起こし、さらには首を切断した上で、東京まで運ばなくてはならない。いくら遺族の依頼とはいえ、果してそんなことができるだろうか。

逡巡する正木ひろし氏には、「おれの首を斬って、調べてくれ」という被害者の叫びが聞こえるようだったという。

正木ひろし氏は決断し、東大の法医学教室で解剖助手を務めている老人をともない、現地に向かった。

ヘタをすれば死体損壊の現行犯で逮捕されかねない。

正木ひろし弁護士は老人に指示して墓を掘り返し、首を切断して容器に入れ、満員列車に乗り込む。鉄道の臨検におびえ、異臭をあやしむほかの乗客に冷や汗を流しながら、東京へと向かう。

運ばれた首は東大法医学教室で福畑博士によって解剖され、ようやく、暴行の生々しい痕跡が明らかになるというストーリーである。

――それから、正木ひろし弁護士について、もうひとつ書きたい。

この人は、もともと画家を志望しておられた。その話はすでに書いた。これは、直接ご本人から聴いている。

「ぼくは画家になりたかった。東大法科と、東京藝大を受験したら、両方とも受かってしまった。親にかくれて絵描きになりたかったが、受験の年に親が死んだので、断念した」という。

「先生の絵は、すごいですね」というと、

「ぼくはこれを毎日ながめて、事件のことばかり考えて過ごすんですよ。絵のほうは、こういうことでしか用を足しません」という。

氏の2階の執務室に、八海事件の惨状が描かれた模造紙全紙の絵が、部屋中に貼られている。ぼくはその絵をつぶさに見たのである。

正木ひろし氏が亡くなられたのは昭和50年だった。

ある日、高島博士の医務室におじゃますると、正木さんが亡くなられたという話を聴いた。高島博士は、昭和55年、ぼくが札幌へ転居したとき、

「きみがいなくなって、さびしいよ」という手紙を頂戴している。それからのことは分からない。