正木ひろし先生。1896(明治29年)ー1975年
弁護士・正木ひろし先生との出会い 3
昭和26年といえば、サンフランシスコ講和条約発効によって日本が独立国となる前年である。敗戦後の混乱、国民の窮乏はつづいていた。そのころ、この種の強盗殺人事件はあちこちで起きていた。
さて、これが「八海事件」のあらましである。
ところが、吉岡晃はのちに自分ひとりの単独犯行ではなく、4人の仲間といっしょにやったと自供をひるがえしたことから、大きな事件になり、明白な冤罪であるにもかかわらず、事件が確定するまでに、18年もの月日が流れた。
昭和30年3月、正木ひろし弁護士は、八海事件の取調べや、1審、2審の有罪判決の不当を告発する「裁判官」という本を出版した。
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当時は作家の広津和郎が「中央公論」に、「松川裁判」を連載中で、大きな反響を呼んでいた。
このふたりの裁判批判にたいし、5月には、当時の最高裁長官・田中耕太郎が、最高裁判所長官と地裁・家裁所長の全国会同で「裁判官は雑音に耳をかしてはならぬ」と、裁判批判を攻撃する発言をした。
この「雑音訓示」がきっかけとなって、法曹界、学界、マスコミで大論争が巻き起こり、この騒ぎから正木ひろしの「裁判官」がベストセラーとなった。
さらに、それを原作にした、今井正監督、橋本忍脚本の映画「真昼の暗黒」が製作され、ヒットした。主犯格の阿藤周平とおもわれる男が鉄格子に「まだ最高裁がある! まだ最高裁がある!」と叫ぶラストシーンは、観客に強い印象を与えた。
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4名無罪判決。
そして、さらに興味深いリアクションが発生した。正木ひろしの「裁判官」出版の翌年のことだった。1審の裁判長をつとめた藤崎晙判事が、正木ひろしへの反駁として「八海事件・裁判官の弁明」という本を出した。
イギリスには、もっぱら「裁判官は弁明せず」という諺があり、日本の場合も、これが司法の不文律となっていたが、彼はこれを破ったのである。さらに翌昭和33年に出版した藤崎晙判事の第2の著書「証拠・続八海事件」が出た。
それには、
「八海橋への集合時間は、午後10時10分から10時40分ごろまでの間であって、何時何分かははっきりしていない」
と訂正した。しかし、自分の判決を著書で訂正したことは、書評などで酷評を浴び、かえって判決の不備をさらけ出すかたちとなった。のちに、原田香留夫弁護士も現地をたびたび訪れ、関係者に面接して「八海裁判記・真実」という本を出版した。
このように二転三転した判決であったが、昭和34年9月、村木友市裁判長の判決公判では、吉岡の単独犯行であって、ほか4名は吉岡の口車に乗せられたものであると断定し、吉岡をのぞく他の4名は無罪となった。
――これが、「4名無罪」である。
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被告たちは、この年2月の阿藤周平の釈放を最後に、みな釈放され、無罪判決によって天下晴れて自由の身になった。
映画「真昼の暗黒」を観て感動し、以来4年ちかく阿藤と文通していた女性がいた。彼女は広島拘置所へ面会に訪れ、別れぎわ、ふたりは金網をはさんで結婚の約束をした。
釈放された阿藤周平は故郷へ帰ったが、周囲の冷たい空気と警察の昼夜の尾行に耐えられなくなり、東京の正木ひろし弁護士のもとに身を寄せた。
9月の無罪判決後は、正木ひろし弁護士の紹介で、彼は、大阪の佐々木哲蔵弁護士の事務所で走り使いをすることになった。
昭和35年が明けると、阿藤周平は富山を訪れ、婚約したまき子の両親に会い、結婚の許可を頼んだ。
しかし親たちからは、いうことをきかないなら娘を勘当するといわれ、阿藤は、まき子を連れて大阪に帰った。翌月、ふたりは広島市内のキリスト教会で結婚式を挙げた。
阿藤が八海事件以前の前科を悔い、獄中で洗礼を受けた。
彼は、「八海事件・被告と家族を守る会」の人びとなど、大勢の人から祝福を受けた。
新婚生活はアパートの3畳ひと間からスタートしたが、はじめて味わう家庭のぬくもりが、長く獄につながれていた阿藤周平を心の底からあたためた。
昭和35年11月、長女が生まれ、「大恩ある正木ひろし先生の名」にちなんで、浩子と名づけられた。ほかの3人の元被告たちも、みなそれぞれに家庭を築いた。しかし、八海裁判はまだ終わってはいなかった。
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松本清張は、この八海事件を小説には書いていない。
このように書きだすと、まるで小説を読んでいるような心地になる。この世のものとはおもわれない凄惨きわまりない惨状が書かれているのだ。
阿藤修平は、4度の死刑判決を受けている。
最高裁が下級審の事実認定をくつがえし、差し戻しという通例の方法をとらず、自判して死刑の原判決を無罪にしたのは、日本の裁判史上これがはじめてだった。
そういう意味では、これは歴史的な判決といえる。判決いい渡しのあと、奥野裁判長は、
「この事件は旧憲法下の科学的捜査時代への過渡期に起こったが、もう少し科学的捜査に慣れておれば、こういうことにはならなかっただろう」と語った。
八海事件はあきらかな冤罪が無罪と確定するまで、足掛け18年もの時間を要した。
警察、検察、裁判に多くの反省や教訓を残した。
まず警察では、事件直後の捜査側の「予断」。――事件現場の凄惨さに眩惑され、「複数犯」という強い予断を抱いたため、見込み捜査が走り出した結果である。
吉岡晃が逮捕され、いちどは単独犯行を自白するが、吉岡は自分の罪を軽くするために警察に迎合してウソの供述を重ねた。この事件は5人の共犯とし、阿藤周平らに主犯役を押しつけたのである。
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警察では「共犯者」4人を逮捕し、過酷な拷問によって自白を強要した。新憲法下でも自白偏重の意識にとらわれていた。令和の現代においても、それが否定できない事件がいまだに起きている。自白の強制が明るみに出たケースもあった。
検察では5人を起訴し、これは「検察官一体の原則」というのであろうか、検察の面子にかけて、どこまでも1審どおりの「5名有罪」を主張した。
これが裁判を混迷させたのである。
これまでの7回の裁判で、全員有罪の判決が下ったのは、3回。全員無罪の判決が下ったのは、2回。無罪判決の「一理不再理」はなかった。
「一裁判官の回想」という本を書いた佐々木哲蔵元判事の文章がある。それには、つぎのように書かれている。
「同一証拠から、区々たる裁判の生まれる原因は、自由心証のあり方の問題、もっと根本的には、裁判官の基本的な法意識の問題に関っている。《事実の認定は証拠による》という刑事訴訟法第317条の規定を裁判官が謙虚に守るか否かに帰着する。
換言すれば的確な証拠の裏づけのない心証で裁判をしてはならないという、わかりきった鉄則を守るか否かということである。
八海事件での有罪側の裁判は、最高裁をふくめて、すべて、このわかりきった鉄則を無視したものであるという一語につきる。
第2次最高裁が正当に検察官の上告を破棄しておれば、少なくとも6年間の無駄はなかった。第2次最高裁から差し戻しを受けた原判決(河相判決)は、不当にこの最高裁判決の拘束を受けたものとみられ、事実認定の基調は最高裁と同様であって、証拠を無視した主観的な心証で裁判した典型的な予断判決といいうるであろう。」
刑事訴訟法第308条で、「証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる」と定められている。
これは、裁判官の自由な心証主義である。
しかしその自由が、証拠を無視した主観的、独善的な心証で裁判する権力に変わることはとてもおそろしい。すでにはじまっている「裁判員裁判」では、権力とは無縁の率直な目が、公正な心証をつくりあげる力になることを期待したいものである。
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正木ひろし弁護士は、かねてから、事件で使われた凶器が、重さ2キログラム、柄の長さが約80センチもの長斧であったということに疑問を抱いていた。そんなもので一撃すれば、惣兵衛さんの頭蓋骨は粉砕されてしまったはずではないかという疑問だった。
しかし、最初から最後の最高裁判決まで、証拠上疑いの余地がない事実として、18年間も凶器は「長斧」とされてきた。
その判決も終わり、4人の被告の無罪が確定してひと月ほどたってある日、正木ひろし弁護士は、ほかの弁護士数人といっしょに、広島刑務所で吉岡晃に面会した。
吉岡は、頭を机にたたきつけるようにして、過去の罪悪によって迷惑をかけたことを陳謝した。そのあとで、正木ひろし弁護士は、吉岡晃にきいた。
「事件の凶器は、ほんとうは何だったのか?」
吉岡は、顔をあげて、
「出刃包丁です」と答えた。
これは、一犯人のウソによって、多数の関係者が長年翻弄されつづけた裁判の、一面のむなしさを暗示させるものである。裁判では、終始、凶器は長斧とされてきたからである。
――なーんだ、凶器は長斧ではなくて、出刃包丁だったのか!
それが分かったのは、裁判が終了したあとだった。
明治29年(1896年)生まれで、当時正木ひろし弁護士は、50代なかばであった。すでに数々の大事件を手がけ、権力に屈しない正義の守り手として、広くその名が知られていた。
獄中から無実を訴える阿藤周平の手紙を受け取った正木先生は、半信半疑ながら、つづいて送られてきた1審、2審の判決文謄本を読んで、そこに多くの深い疑惑を抱いた。
この事件はそこからはじまったのだった。
そして最後も、正木ひろし弁護士によって、かんじんの凶器が確定された。――先生の八海事件にかんする話は、先生ご自身の口から直接聞いたものである。四谷にあった弁護士事務所の執務室には、当時の凄惨な殺人現場の絵がところ狭しと壁に何枚もかかっていたのを、ぼくはいまも覚えている。