■戦後の文学傾向。――

松本清張の「」で読む昭和時代

 映画「点と線」。――志村喬ほか、昭和33年東宝系で映画化された

 

きょうは素敵な1日を過ごしました。大宮の本部でお祈りをすると、顕彰会のメンバーふたりと雨の中、電車に乗って、草加駅の隣り町まで出かけました。ふたりの女性は、実は実の姉妹です。60歳を過ぎる年齢でしょうか。

ふたりは実に仲がいい。ぼくはお姉さんからずっと教えの指導を受けています。きょうもそのつもりでしたが、このほど退院した男性を見舞う話が飛び出して、「ごいっしょに、いかがですか?」と誘われました。むろんOKしました。

お見舞いする男性宅に向かうあいだ、ずっとお話をうかがっておりました。それが素晴らしいのです。その話は別の日にあらためて書いてみたいとおもっています。

さて、ある日の夜、――日本時間は17日午前0時15分、ニューヨーク時間は、16日の午前11時09分ごろでしょうか。

「神山幹夫先生、こんばんは。ぼくはいま、短編小説を書いていました」

どうせ、あすもお休みなのだからというわけで。登山家たちは山で用を足すことを「キジを撃つ」と表現するのですね。それはぼくも使いたくなります。戸塚文子さんは登山家なのでしょうか、男たちに混じって「キジを撃ってくる」といって、おしっこをしに山の岩陰に向ったという神山幹夫先生のお話は、とてもおもしろいとおもいます。

「鉄砲もないくせに!」

たしかに、女性には鉄砲はありませんから、どうやって撃つのでしょうね。「キジを撃つ」ときというのは、たいてい草むらの中にしゃがみこんで、音を立てないようにして、キジが飛んだとき、「ドン!」とやるわけですね。

この「ドン!」というのは、爆弾、……つまり排便のことでしょうか? 

登山家は漁師じゃないので、登山の最中に鉄砲でキジなんか撃つわけじゃありませんね。これは、用を足すことを表す男たちの隠語でしょうね。「この用を足す」ということばは、考えてみればおもしろいことに、用事を済ませたり、トイレに行ったりして「満足な状態にする」ことを「足す」というわけで、そこからきているのでしょうね。

戸塚文子さんといえば、むかしJТBの「旅」の編集長をしていました。むかしは仕事上、よく使いました。あのころ、――昭和29年、ぼくはまだ12歳でしたが、じぶんの知らないところで、戸塚文子さんのもとで、ある作家が誕生したことを想い出します。

旅行雑誌「旅」の編集次長、岡田喜秋が、朝日新聞東京本社広告部に松本清張(きよはる)を訪ねたのは、昭和29年の秋のことでした。

肌寒い、霧のような驟雨が降っていて、有楽町駅から少し歩いた数寄屋橋の本社ビルではなく、その近くにある、古びた建物の別館の2階です。――で、岡田喜秋の名前を、ここで記憶しておいてください。

岡田喜秋はのちに、雑誌「旅」の名編集長として知られ、全国の有名無名の山村を訪ね歩き、そうして描かれた紀行文は、いずれも名編といわれました。

1974年に初版が刊行された際、大きな反響があったそうです。また、河上徹太郎にも認められ、好評のヤマケイ文庫「定本 日本の秘境」や、「旅に出る日」に次ぐ、さまざまな紀行記事が文庫化されてゆき、広い読者を持つようになりました。さいきんでは、「人生の旅人・啄木」(秀作社出版、2012年)などがあります。現在、95歳で、1983年から横浜商科大学貿易・観光学科教授を務めています。

松本清張は、前年の昭和28年の12月24日に、九州・小倉から東京本社の広告部に異動になっていました。――それというのも、本人が東京への異動を願い出ていたからです。――岡田の用件は、原稿依頼でしたが、ちょうど昼時だったので、有楽町かいわいにある安い居酒屋のとなりにあるカレーライスの店に誘います。

清張は、このとき岡田とは初対面でしたが、彼は背が高く、茫洋とした顔つきで、一見、どこを見ているのか分からないような「ウドの大木を連想させた」とのちに清張は述懐しています。

その彼を見て、

「ちょっと時間がないので、……」といいわけをしながら、店に入った、……と書かれています。このとき清張のふところは、木枯らしのように、いや、木枯しよりも寒かったからでしょう。たいてい、原稿依頼の話となれば、もっと高級なレストランに誘うのでしょうが、清張にはゆとりがなかったのです。

 

 呼吸(いき)すれば、

 胸の中にて鳴る音あり。

 凩(こがらし)よりもさびしきその音!   石川啄木

 

ぜんぶで12人家族でしたが、小倉にはおばとその姉、その子供を残し、東京・中野区の下落合のアパートに、8人の家族がひしめく暮らしに耐えていました。夜の寝室は、居間まで伸びる雑魚寝状態です。彼は、その一家の長として大黒柱をつとめ、病気もできないかつかつの生活をしていました。6人の子供たちは、それぞれの学校へ行き、経費もかかります。

「先日、読ませていただきました。……国鉄のPR誌に載っていたあなたの旅の記事ですが、あれを読んで、ぼくはおもいました。これからは、日本も落ち着き、こころにゆとりを持つ時代になって、あんなひとり旅もいいだろうなとおもいました」

「ほう、読んでくれましたか。……電話では、原稿を書いてほしいといっておられましたが、どんな記事をご所望ですか? ――といっても、ぼくは九州の紀行文なら、おのぞみの原稿を書けますが、関東へは出てきたばかりなもので、取材に時間がかかります」といった。

岡田は水を飲みます。清張も水を飲んだ。そして腕時計を見た。

「いえ、あなたのひとり旅の記事には、門司からはじまって中津、豊後森、久住高原をへて、国東(くにさき)半島の富貴寺、さらに南にくだって宮崎、鹿児島、桜島の古里温泉、そして最後は日奈久(ひなぐ)温泉にまでおよんでいましたね。旅先で出会ったゆきずりの男女の人間模様、それが、ひとり旅の叙情をそえ、とってもいい印象を得ました。あのスケッチもよかったですねぇ。あなたは、本業は画家でいらっしゃるんですか?」と、岡田はききます。

「いえ、広告の版下書きをしています。本業は版下書きです。ときどき挿画も描きます」

「ほう。……絵もとてもいいし、なにしろ文章がとてもいい」

「――そうですか。……ところで、夏に出た《文藝春秋》の別冊号はもう読まれましたか? こっちのテーマも、《ひとり旅》なんです」と清張はいいます。

「ほう、それは知りませんでした。……」と岡田はいう。

「もう本屋にはないでしょうから、もしよかったら、お貸ししましょうか?」

「そりゃあ、どうも……」

昼時のざわついた店内で、ふたりはカレーライスを食べ、水を飲みながらそんな話をします。

岡田喜秋が、日本交通公社のPR誌「旅」の編集次長になったのは今年になってからでした。まだ39歳です。

1907年生まれの清張は、このときもう47歳になっていました。

小倉でも、朝日新聞社の広告部で版下書きをしていた。文学で身を立てようとおもって上京してきたのですが、私淑していた森鴎外はもういない。九州出身の作家・火野葦平もすでに死んでいる。そんな話をします。

これが縁で、このあと数回、雑誌「旅」に清張の《ひとり旅》の記事が載ります。その後の文章にも備後三次(みよし)盆地と九州富肥線の大野川沿いの2枚のスケッチがつきました。

松本清張の父峰太郎は中国山脈のふもとの村、鳥取県日野郡矢戸村の田中家の長男として生まれたのですが、若いころに事情があって出奔し、それ以来いちども故郷にもどらなかった。息子の清張は、あるとき広島までやって来たついでに、父の生地をひと目見ようと、その晩、広島発の汽車に乗りました。

終点の備後落合の駅で降りたときは、町に雪が降っていた。

近くの旅館の8畳ほどのひと部屋に7、8人の客が足をコタツに突っ込んだまま眠った。夫婦者もいれば、見知らぬ娘もまじる、ざこ寝で、ひとり旅の寂しさがそくそくと身に沁みた。

彼のこういう文章は、暗い内容ではありましたが、まるで小説の文章を読んでいるかのような印象を与えた。

昭和31年には、前年から国鉄で全国周遊券というのが発行されるようになったのを機に、「旅」の編集部では、松本清張に「高原と温泉の九州旅行」、「時刻表と絵葉書」の2本の紀行随筆を書いてもらった。いずれも孤独な旅情の、いかにも感傷的な漂泊感の流れる文書で、読者には好評だった。

清張が意図したものは、若いころに読んだ吉田弦二郎のような、しっとりとした文章を好んだ。秋の冷たい日差しに似た弦二郎のきびきびした文章は、17、8歳の清張のこころに刻まれていた。ある日、担当者の岡田の脳裏に、「松本清張に、連載小説のようなものを書いてもらったら……どうだろうか?」という発想がおもい浮かんだ。

「旅」は、日本交通公社の中心的な刊行物になり、書店売りも多いときは10万部を超えたが、編集予算が少なく、取材費もおもうように出せなかった。そのため、高額な原稿料を支払って著名な作家、流行作家に原稿を依頼することができなかった。

「……ひょっとすれば、松本清張さんなら、引き受けてくれるのではないか?」と岡田はおもったそうです。岡田は、このときに編集長だった戸塚文子、――のちの紀行文作家で、彼女は生涯独身だった――に提案してみた。彼女も同意見だった。というより、戸塚文子は、松本清張という無名にちかい作家に大きな興味と期待を示していた。

彼は戸塚編集長の承諾を得て、松本清張にさっそく会いにやってきた。また例によって、昼時だったので、有楽町でカレーライスの店で落ち合い、昼食を食べながらの相談となった。すると、

「きみのところで、ほんとうに連載をやってくれるのかね? しかも、こんどは小説の連載だよ!」と清張はきいた。

清張は、この話を聞いても半信半疑だったが、若い真面目そうなこの男を信用してみようかとおもった。だが、いきなり長編小説の連載である。いちどスタートしたら、途中で止めるわけにいかない。岡田のことよりも、清張自身にも、そうとうの覚悟が要る。

「もちろんです。……」

 

 

 

 

連載小説といえば、清張にとってまったく経験がないわけではなかった。

中学生や高校生向けの月刊雑誌や、地方のスポーツ紙に書いたことはある。清張にとって、これはあくまでも売文業という卑しいおもいがつきまとい、原稿料が入っても、友人にもそういう原稿を書いていることは秘密にしていた。

とうぜん、岡田にもいわなかった。

「じつは、編集会議の席で、あなたの紀行文は、小説のスタイルに近いという意見が出ました。物語ふうなんですね。あなたの文章の勘どころは、その見知らぬ人びとの物語の局面を小説のように描くというエッセーになっています。これには、小説的な感動と共通するものがあると思いまして、……」と39歳の岡田はいった。

松本清張は、若い編集者にえらく褒められたことに、ひそかに嬉しさを噛みしめた。そういう見方をしてくれていたことに、清張はむしろ、岡田は信用できるとおもった。文学仲間はだれもいなかった。

上京してわかったことだが、本社のある同僚は、小説を書いていた。だが、清張は書く傾向が違うからではなく、なにしろゆとりがなかった。銀座かいわいで飲み歩くような文学仲間をほしいとは考えなかった。

「つまり何かい、鉄道小説のようなもの?」

「そうです。……ストーリーが全国展開で、列車が出てくることが条件です。船が出てきても、飛行機が出てきてもかまいません。これを読む読者は、全国にいます。《旅》は全国の鉄道を利用する人びとへの宣伝がおもな狙いです。いかがでしょうか?」というと、「やりましょう! やらせてください」と清張はいい切った。                                                             

――さて、さっきの松本清張の小説の話ですが、交通公社に所属する編集部には、全国に通じる鉄道電話があり、地方の鉄道事情などただちに取材することができるのだそうです。ただし、原稿料は1枚1500円、格安なものでした。これに、清張は乗ったのです。

編集長の戸塚文子だけは、不安だった。だが、不安以上に、ひとりわくわくしていた。

はたして無名にひとしい松本清張という作家がはたして誕生するかどうか、それは、読者が決めてくれるもので、作家ひとりに物語の展開プロットまでまかせていいものかどうか、考えていた。

 

 映画「点と線」

この話があってから、清張は全国の鉄道、ホテル、旅館をしらべ、物語が熟成する期間をじゅうぶんに持った。短い期間に、清張はあらゆる取材をした。

東京駅にかんする運行ダイヤの取材には、数週間、ホテルに缶詰になって調べ上げた。東京駅のなかにあるステーションホテルは、清張の書斎がわりになり、夕方勤務が終わると、そこへ日参し、ホームに立ち、コンコースを歩きまわり、売店の配置や長距離列車の入りと出を実見し、ふしぎなダイヤ編成に注目した。

連載がはじまるまえ、清張から「縄」という短編の題名が提示された。

清張は当時はやっていた、シュリーマン・クロフツというイギリスの推理作家の名作「樽」の連想から1字名のタイトルに凝っていた。清張の最近作「顔」や「声」は、それにしたがってつけられたものだった。もちろん岡田には、そのことは分かっていたが、この「縄」というタイトルには抵抗し、彼はすぐに再考を申し入れた。

折り返し、清張から返事がきた。

「それでは、《点と線》ではどうでしょう」といってきた。

連載の「旅」は、昭和32年2月号からスタートしたが、第1回分の原稿ができたのは昭和31年11月だった。清張が「点と線」というタイトルをつけたのは、人間をひとつの点としてとらえ、この点と点を結びつける線を幾何学的な人間関係になぞらえたからでした。

線には、友人や恋人、後輩たちにもよく分かる単純なものもあるが、もっと複雑で、外からは見えない社会的な因子をはらんだ線もある。彼はそこに着目した。松本清張が本格的に推理小説の分野に足を踏み入れた瞬間でした。

それから「張込み」、「殺意」、「顔」、「共犯者」と、つぎつぎにミステリー作品を発表していった。彼の作品の多くは、倒叙手法で書かれた。――倒叙手法というのは、犯人があらかじめ明示されるので、一般の小説スタイルとおなじく、余韻を残した形で結末を終えることができる。これまでのように最終シーンで名探偵が登場し、事件のタネ明かしをする説明的な部分がないので、おもしろく物語を展開することができた。

清張はミステリー小説にリアリティを導入し、読者に絵空事でない実在感を与えるために、犯罪における動機をもっとも重視した。さらに、その動機には社会性を加えることで、ミステリー小説という形式で、人生や社会の真実に肉薄できるのではないかと考えた。

これが清張の根本的な取り組みでした。

昭和31年2月、――つまり、ちょうど岡田から小説執筆の依頼を受けていたころ、清張は前年に書いた「顔」(講談社)で、第10回「日本探偵作家クラブ賞」を受賞した。

この賞は戦後、江戸川乱歩が初代会長をつとめ、日本探偵作家クラブによって創設されましたが、第2回の坂口安吾をのぞけば、受賞者はすべて既成作家だったので、乱歩は専門外の松本清張がこの分野に進出してきたことを、ことさらに歓迎した。

ちょうど「点と線」が雑誌に載ったころ、それと並行して「週刊読売」に「眼の壁」の連載がはじまっていた。と同時に、つぎつぎに各出版社から原稿依頼が舞い込んだ。

そして、「点と線」が完結したとき、編集部に光文社からひとりの女性がやってきた。松本恭子という当時35、6歳の女性です。彼女は光文社編集部の単行本の編集担当者でした。

 

左から江戸川乱歩、水上勉、松本清張の各氏 

 

「松本清張氏の《点と線》の単行本出版、うちでやらせてほしい」といった。

日本交通公社では、そのころ財政的に単行本出版を売り出すほどの実力はなかった。膨大な宣伝費をかけて、もしも失敗すれば命取りになるからでした。光文社の申し出を受け入れ、出版契約を取り交わします。

この「点と線」は、松本清張の社会派ミステリー小説の分野で画期的な成功をおさめ、以来、彼は流行作家になりましたが、この小説を高く評したのは、文芸評論家の平野謙でした。

彼は先に名前が出たシュリーマン・クロフツの愛読者でもあったのです。たいそう好意的な批評でしたが、15番ホームを歩く男女のシーンが、案の定問題視された。それからは、平野謙によって松本清張の小説は大きく羽ばたいたのです。

のちの、新潮文庫の平野の解説記事を読んでもわかるとおり、緻密な読まれ方をされ、たいへん正鵠(せいこく)を射る話が展開されています。作者にもわからないもうひとつのストーリーが隠されていることに触れています。

戸塚文子。――ぼくには、松本清張作品を世に送り出した謎の人物なのです。部下の編集次長・岡田喜秋を通して時折り垣間見える人物なのです。松本清張の深い人生模様を写す構成プロットを見せられても、いつまでも戸塚文子は心配顔をしていたようです。

以前、ある友人から指摘されて、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」のヒースクリフが、キャサリンから雲隠れして、何年もどこで過ごしたのか知らないが、再会したときは、おなじ昔のヒースクリフとおもわれないほど、立ち居振る舞いも高潔な人物に変身していたことをふしぎにおもったことがありました。

彼はどうやっていまの身分を手に入れたのかは語られていないのです。それは、作者であるエミリーも知らない話なのです。

だから、ヒースクリフは謎の人物ということになっているのです。ミステリー好きで、あら探しの読書好きな英国民の嗜(たしな)みからいっても、彼らにとって「嵐が丘」は、世界最高のお気に入りの小説なのです。

で、ぼくはいま、松本清張の作家としての正統な資質に、疑義を呈することはしません。描かれなかったもうひとつの「推理小説」だからおもしろいのでは? とおもっています。みなさんは、どのようにお考えでしょうか。ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

 

■松本清張直筆の「点と線」の初回原稿は、長いあいだ行方不明になっていましたが、1998年12月に、JTBの倉庫内から発見され、現在は、北九州市立「松本清張記念館」に所蔵されているそうです。