の流れにをまかせ」

 

あれからもう6年になったという話を、さっき妻としていた。

ときどき午前4時ごろに起きて、リビングルームでそろって夫婦が会話を交わすって、おかしな感じがする。ヨーコはこれから新聞を読む。自分は記事を書く。

ヨーコはお茶を飲み、自分はコーヒーを飲む。

「じゃ、お父さん、時の流れに身をまかせ、かけて」といった。

テレサ・テンの歌う「時の流れに身をまかせ」には、ひとつ悲しい思い出がある。

6年前の土曜日、ぼくら夫婦はちょっと遠出をして、ある人の病気見舞いに彼の部屋を訪ねた。――というのは、6年前の春、ぼくはクルマの運転免許更新のため、ある講習会の会場に出向いた。そこでいっしょになり、70過ぎの男たち4人が、それぞれブースに呼ばれて、テストを受けることになった。われわれ4人が最後のグループだった。

テストとはいっても、

「きょうは、西暦何年ですか?」とか、

「お孫さんは何人いますか?」とか、

「きょうは何曜日ですか?」とか、まあ、そういう簡単な質問を受けるのである。認知症の人には運転免許証は更新されない、という説明があったからだ。

「もしも、お孫さんは?」ときかれたら、適当な数字をいえばいいんですよ、と別の人が知恵をさずけてくれた。そりゃあそうだろう、だって、べつに調べるわけじゃないんだからといって、みんなで笑ったものの、

「つぎ、田中さーん」と呼ばれると、緊張した。

ブースのなかに入ると、テーブルに天眼鏡が置いてあり、鉛筆もあり、紙もある。何かされるのか、と考えた。青い制服のようなものを着た若い女性は、ぼくの顔をちらっと見て、

「――田中さんは、いまおいくつでしょうか?」というのだ。

そんなこと、平気だ! 

誕生日と年齢をいうと、「お元気そうですね」と彼女はいった。

 

 

テレサ・テン「時の流れに身をまかせ」

 

「ええ、むろん元気ですとも! 本は月に50冊は読みますよ」といった。

「目はだいじょうぶですか?」ときくので、ちゃんと見えていますか? という質問らしい。両眼とも裸眼で1・2はあります、と答えた。

「そのメガネは?」ときくので、

「これ? わかるでしょ、ダテメガネですよ。……」と、よせばいいのに、余計なことをいってしまった。

「じゃあ、これ、裸眼で読んでみてください」と彼女はいった。

活字が大きな山本有三の「路傍の石」という本だった。すらすら読めた。少年少女向けの本である。

――主人公の吾一は、劣等生だったが奉公に出され、さまざまな苦難に直面する。母親が心臓発作で急死すると、吾一は東京にいるという父をたよって上京する。だが、きてみれば根津には父はいなくて、彼は店の女主人にたくみに丸めこまれ、奉公人同然の待遇でしばりつけられ、人質みたいにして暮らす。

「――これ、いい小説ですよね。未完なのは惜しいですけどね」とぼくはいった。

「未完なの? ほんと?」といって、その人は小首をかしげた。30代に見えるその人は、可愛いしぐさを見せた。

「はい、もうけっこうです」と彼女はいった。ぼくは不満だった。もう少し話していたかった。

ところが、みんなは、予期しない質問にびっくりし、ひとりはとっても長いあいだブースのなかにいた。ぼくら3人は心配した。

やつはきっとダメだろうといっていたが、なんとか合格し、その嬉しさに4人いっしょに、記念の写真を一枚撮ろうということになった。そして、ぼくはできあがった写真を3人に送った。

だが、ひとりからは、その後何もいってこなかった。

妻ヨーコ。そのころ彼女は、広告代理店のマーケティング部に勤務し、さまざまな調査の仕事をしていた。

年があけ、いろいろあって、つい先日まで、そのHさんの事情など何も知らずに、すっかり忘れてしまっていた。その彼から、手紙がきた。

便箋一枚に、細かな文字で、いろいろ書いてあって、心臓病が悪化し、不整脈に悩まされていて、夜も眠れず、外出もできず、息苦しく、長く入院していたので、写真のお礼の手紙も出すことができなかったと書かれていた。

文面には最初に「久闊(きゅうかつ)」という文字があって、「薬」とか、「心臓」とか、「死」とか、「離別」、「貧乏・貧困」とか書かれていて、一枚の便箋の最後には、「もうじき死にます」と書かれていて、ぼくはいたたまれなくなった。

どんな小説よりも、はるかに強烈なものだった。

便箋一枚に、こんなに盛りたくさんのことが書かれている、とおもった。

ヨーコは、いった。

「お父さん、お見舞いに行こう! ね? 行こう!」

「老人ホームへ?」

「そうよ、行くのよ! あした行こう? ぐずぐずしていると、亡くなります」というのだ。

「もうじき死にます」と書かれた文面が、強烈だったのだ。

便箋の余白に、彼の携帯電話の番号が書いてあって、さっそく電話すると、弱々しいかすれた声で、「はい」といっている。

「話しても、だいじょうぶですか?」というと、

「はい、だいじょうぶです」といっている。

最寄りの東川口駅からバスに乗って、「大塚」というバス停で降りると、近いといっている。じゃあ、あすの午後3時ごろ、そのバス停で降り、そして電話を入れますといって受話器を置いた。

そのあすがやってきて、草加煎餅を買い、われわれ夫婦はバス停で降りた。すると彼がそこにいたのだ。

「Hさん、だいじょうぶですか?」というと、にこにこして、

「ええ、ゆっくり歩いてきました」といっている。

そこでヨーコを紹介した。

「こんなに歩いたりして、いいんですか?」とヨーコはいう。

「田中さんご夫婦がきていただけるなんて、おもってもいませんでしたから、嬉しくて、……、待ちきれずに、ここまで歩いてしまいました」といっている。

「どこかで、腰かけるといいんですが、……」とヨーコはいっている。

「でも、だいじょうぶです。なんとか、歩けます」といっている。

できたばかりのような真新しい感じの老人ホームに着くと、2階に招かれて階段をのぼった。建物は閑散としていて、どこかで水を流す音が聞こえ、くしゃみをする老人の声も聞こえ、真新しい建物のなかは、どこもきれいだった。

いま生活保護を受け、なんとか生きているという。

何があったのか、肉親とはつきあいがなく、別れた元女房のいる札幌の話を聞き、むかしの彼のいい時代の話を聞いたりした。

札幌では、Hさんは陸上自衛隊員として活躍したらしい。真駒内駐屯地はむかしからある。彼は、そこで奥さんと巡り合ったという。

奥さんは千歳で魚を売る店ではたらいていた。

「よっさ、よっさ、ほいさ、ほいさ、はいさ」の掛け声で、彼女は魚をつめたカゴを天秤棒に吊るして街中を走っていたそうだ。

雪も降りそうだというのに、彼女は乳房を揺らしてあちこち走りまわっていたという。それを見ていたHさんは、カレーを一尾買い、ある日声をかけたそうだ。

「精がでるねぇ、……そこらで一杯やらないかい?」と。

「だんなさまは、陸上かい? 海上ならOKよ」といってたそうだ。

「だって、うちらは海の魚を商うんですから、海が好きな人ならいいわよ」といったそうだ。

「だったら、おれ、海上自衛隊に移ってもいいよ! お姉さんの願いならね」というと、いっしょに一杯やることができたという話を聞いた。

「それからどうしました?」ときくと、ヨーコが目をぱちぱちさせて、自分の袖を引っ張った。

「彼女とはその夜、ぼくの女になりました」というのだ。

「鼻っぱしの強い女で、あっという間に子供ができ、そしてまた子供ができまして、ちょいとほかの女と浮気したのがばれまして、ぼくはその女房に捨てられたってわけです、ははははっ」

Hさんは、はじめて会ったときも札幌の話をしていた。

北海道生まれのぼくとは息が合い、コーヒーを飲みながら、そのときもたっぷりと彼の思い出話に付き合った。そのうちに、ヨーコが目をパチパチさせて、「お父さん、もう帰ろう」という合図を送り、ぼくの手を引っ張った。

そして、金銭的な話におよび、年金もすべて施設のオーナーに支払い、食べること、寝ることだけは満たされているものの、病気になると、友人たちはみんなぱーっと一斉に離れていったという。

「ぼくは、13年間、ここで暮らしておりますが、ここを訪れたのは、田中さんと奥さんだけです」という。13年間も? 

「そう、13年間も」

Hさんは涙をためていた。

「さびしいもんです」という。

「元気だしてください」とヨーコはいった。

ええ、と答えただけだったが、Hさんには「明日はないのだ」という覚悟があって、元気になれない。そんな感じを受けた。

小一時間ほどいて、ぼくらは帰った。

6月18日に大きな手術をひかえているそうだ。

「ぼくは、それまでの命とおもっております」というのだ。手術中に死ぬかもしれないという。そんな予感がしているともいっていた。

「いつ死んでもいいように、大学病院の検体の登録もしておりまして、このからだ、どうぞ使ってやってくださいというわけですよ。もちろん葬式はしません。葬式にやってくる人なんかいませんから……」といっている。

その登録証というのを見て、ヨーコは驚いたみたいだった。

登録証は、いつも上衣の内ポケットのなかに縫い込んでいて、いつ倒れてもいいようにしているという。

外でもしも倒れたら、それを見れば、この老人ホームの住人であることがわかるという。そして登録先の人間がやってきて、遺体はどこかに運ばれていく。

「せめて、今年のサクラを見て死にたいです」といっている。

「もう、咲いてますよ!」と、ヨーコがいった。

「ああ、ここにはサクラの木がないんですよ。ここは、さびしいところです。ちょっと歩けば見られますけど」

「サクラ、見られますように、……祈っています」

「あのう、これなんですが、テレサ・テンのレコードですが、もらってくれませんか? 別れた女房が好きだった曲なんですよ。これしか、ありませんけれど」という。

見ると、自分も好きな「時の流れに身をまかせ」という曲だった。

「大切なものを?」

「これ、見ていると、自分は、ますます切なくなります」といっている。

「それじゃ、いただきます。4月29の祭日、クルマでやってきますよ。ここで、また会いましょうよ!」といってぼくらは別れた。

ぼくは、こんなに切ないおもいをしたことはなかった。

彼には、友人はいないといったが、自分がその友人になろうじゃないか、とおもった。

帰りもおなじバスに揺られて帰ってきたが、どこかでうまい物でも食べようといっていたのに、その気もなくなり、ほとんど無言でマンションに帰ってきた。

これで、Hさんとは二度会ったことになる。4月29日にはまた会える、きっと会えるとおもった。――その日の前日、電話をすると、ホームの人が出て、「4月21日の夜に、亡くなりました」といった。

「えっ!」といったきり、ぼくらはことばにならなかった。そしてヨーコはいった。

「お父さん、テレサ・テンの歌う《時の流れに身をまかせ》、聴きたいわ」といった。