■淡路恵子や佐田啓二のいた昭和時代。――

ーガがんだ日、「仏してくれ」

 

むかし、早田雄二という写真家がいたことを想いだされる方は、きっと、かなり年配の方でしょうね。ぼくはひさしぶりに彼の撮った佐田啓二の写真を見ました。雑誌「Cómo le Va?」というフリーマガジンを見て。

このフリーマガジンと巡り合った日のことを想い出す。

 

 フリーマガジン「Cómo le Va?」。撮影は早田雄二氏

 

フリーマガジン「Cómo le Va?」っていう表紙を見て、ぼくはおもわず手をのばした。欲しかったからです。

だって「昭和の二枚目俳優の貌」っていう特集記事だったからです。

それはモノクロの写真で、淡路恵子さんの若いころの写真でした。ああ、モノクロはいいなあと一瞬おもいました。

先日、事務所に青年がやってきて、そこでDVDをまわして映画を1本みたとき、自分のカメラを、モノクロに設定してもらったのです。モニターにもモノクロででてきます。こいつはおもしろい! とおもいましたね。

 

佐田啓二。撮影は早田雄二氏

 

いえ、大した写真を撮るわけじゃないのですが、このフリーマガジンを見て、ちょっとモノクロ写真を撮ってみようかと考えたわけです。ニコンでも、むかしのニコンじゃなく、望遠だって、遠くの風景がただ近く見えるだけのレンズで、おもしろ味はちっともないのだけれど、あの昭和をもしも撮ることができれば、きっとわくわくするだろうなと勝手に想像しちゃって。

じっさい撮ってみると、おもしろくもおかしくもないのです。

で、ぼくは、木村伊兵衛の写真集を引っ張りだしてきて、ふーん、と腕を組み、考え込みましたね。そこへヨーコがやってきて、

「お父さん、今夜の夕食ですけど、マルイの上で食べない?」ってきくんです。

ヨーコは少しカゼをひいていて、頭痛がするとかいって、午前中は寝込んでいました。

降りてきたとき、すっかり和服姿に変身。カゼが治ったといっています。女は、そういうとき、気分を変えたくなるようですね。

「昭和だなあ、……」っていいました。

「なんですか?」

「その、和服だよ、昭和のかおりがする」といったのです。

「でも、きょうは冷えるわね。お父さん、うちの寒暖計は11℃よ。何かつくってもいいわよ」とヨーコはいいます。

「じゃ、今夜は鍋にしようよ、家で」

「そうする? じゃ、そうするわね」

「きょうは何の日?」

「きょう? ……1月16日よね。何の日?」

「ナーガが死んだ日だよ」ナーガというのは、外からやってきて、わが家に住みついた猫のことです。

「よく、おぼえているわね」

「おれが死んでも、葬式無用、墓も要らない、弔問供物もなし、いいよね?」

「わたしもそうよ」とヨーコもいっています。

 

ナーガ

 

「ヨーコはそうだよね。身寄りがいないのだから。……藤井洋武さんのこと、さっきちらっと想いだしたんだよ。彼の、イタリアて撮った写真を見て」

ほんの数年のおつき合いだったが、良き人を亡くした。彼につくってもらった落款(らっかん)、いまも使っている。ヨーコも使っている。

「そうだわね、感謝してるわ」

「で、何か用かい?」ときく。

「用? 用がなければ、きちゃダメっていわれているみたいね」といい、「鼻がとおって、すっきりしたから」とか、いい訳しています。

「たまご、ある?」

「あるわよ」

「そんなんじゃなくて、例のやつ」

「もうないわ。食べちゃったわよ」といっています。茨城の養鶏牧場から取り寄せているにわとりのたまごは、あれは、黄身が濃くて、つるんとしていて、栄養価満点だ。そのたまごで何かつくってあげようかって考えたけれど、きょうはやめにしました。ハーブもないだろうし、……。

「お父さん、またつくる気なのね、ははははっ、こんどまたね」といっています。「つくるときは、池田さんもきてね、ご馳走するわね」といっています。そばにいた池田青年は、にやにやしています。

このヨーコの写真は夏に撮ったものだけど、彼女はときどき和服を愛用し、気分を変えています。

 

 草加のマルイのレストランで、ヨーコ

 

きょう、家族連れのお母さんに出会った。

こんにちは。――少し見ないあいだに、あなたのお子さん、大きくなりましたね。高校生みたい。165センチですって? 今年、中学生になるそうですね。

「ぼく、ひげが生えてきた」っていっていました。

よーく見ると、そいつはひげじゃなくて、あごのホクロの真ん中に、ちょこんと黒い毛が数本生えているんですね。彼、とても自慢していましたよ。

自慢できるものがひとつでもあると、男の子って、勇気が出るんですよ。しょうしょう勉強ができなくても大丈夫。子供のころは勉強なんてできなくて結構。そのうちに目覚めます、とぼくはいった。

「ぼく、絵が描けるよ」っていってたけれど、息子さんの絵は、しょうじきにいってヘタっぴです。だからといって、絵の才能がないなんて考えちゃダメですからね。才能なんて、自分じゃわからない。

「この数行はいらないんじゃないかな」といわれ、そこに乱暴にもバッテン印を入れられた男がいましたっけ。

「才にまかせて会話を多くすれば、品格が下がってしまう」といわれ、

「下品だとおっしゃるんでしょう。じゃ、この小説、捨てましょう」

そう答えたのは、だれあろう、その後作家になった三島由紀夫です。

相手は昭和の名編集者・木村徳三です。三島由紀夫はまだ東大の学生でした。三島由紀夫は木村の鼻をあかそうとして、小説をすっかり書き直したそうです。その文章は舌を巻く見事に描写に変わっていました。

いえることは、打たれ強くならなければならない、ということのようです。恥をかいたり、打たれたりして、強くなります。もしも木村にそういわれなければ、三島は下品のまま小説を書いていたかもしれません。

ついでにいいますと、この木村徳三という人は、にくまれ口をたたきながら、じつに多くの新人を世に送っております。いずれも「打たれ強く」成長しています。林房雄という作家も例外ではありません。彼も木村徳三にこっぴどくやられましたね。作家は彼をうらんだことでしょうね。

そういう木村徳三(1911-2005年)ですが、彼は東京帝国大学フランス文学科在学中、1935年に太宰治の「逆行」を読んで、自分の才能に絶望し、創作の道を断念しているんです。で、彼は改造社に入ります。そのうらんだ話が残っています。

林房雄の書く小説に、「徳三」という男が出てきます。中国人の「陳徳三」という名前なんですが、これは悪党です。けれども、三島由紀夫はちがった。作家だけではありません。評論家の江藤淳も、学生時代に「三田文学」の編集長にこういわれています。

「大事なことを、かんたんに書いちゃダメだよ!」と。

彼のデビュー作「夏目漱石論」です。で、彼は書き直します。相手の男は、山川方夫という先輩です。このばあいは、三島由紀夫や林房雄のばあいとはちがっているけれど、まあ、おなじです。

ぼくは学生時代に、論文指導をしてくれた文芸評論家の平野謙さんに、とても奇妙なことに、こんなことをいわれました。100枚の論文原稿のなかに出てくる語について、ある指摘をしてくれました。「貶黜(へんちゅつ)」ということばと、「衒学(げんがく)」ということばの意味をたずねられました。論点とはなんら関係ない語彙に引っかかっての質問でした。

「そうか、……だがきみ、もう貶黜なんていう語は死後だよ」といわれました。でも、ぼくは我慢できなくて、

「先生、三島由紀夫の《金閣寺》に、この貶黜がでてきます」っていったんです。

「きみ、三島由紀夫を読んでいるのか? だったら、わかるはずだよ」っていわれました。で、それから20年ぐらいたって、ぼくはひりひりするくらい、それがわかったのです。

「貶黜(へんちゅつ)」という語は、唐代に使われていたことばで、官位を落とすという意味です。森鴎外の「渋江抽齋」には、「此年前(さき)に貶黜せられた抽齋の次男矢嶋優善は……」と出てきます。「貶斥(へんせき)」ともいい、「貶斥(へんせき)」のほうは、むかしの「礼記(らいき)」にちゃんと出ています。上田敏の「海音潮」には、「象徴派の貶斥(へんせき)に一大声援を得たる如き心地あるは、毫(ごう)も清新体の詩人に打撃を与ふる能はざるのみか……」などと出てきます。

ぼくは高校生のころ、いちいち辞典をしらべて読んでいました。

そのころ、ぼくは「広辞苑」の初版を持っていて、この辞典がたよりでした。学校の先生はほとんど当てになりませんでした。「広辞苑」にもいろいろ不備なところがあり、おもしろいことに、見出し語がまちがっていたりしました。「ギリシア」が「ギンリシア」になっていました。辞典に自分流に書き込みをしていきました。

そこへSさんが顔をだしました。

やーっといって、ふたたび顔を出しました。何か話してから、

「華麗に墓原女陰あらわに村眠り」という句がありますといったのです。

下品な話ではありません。金子兜太さんの句です。「女陰」ということばが目にとまって、Sさんに、「ここに、田中さんみたいな句がありますねぇ」といいました。

その隣りには、

「おちんこも欣欣然(きんきんぜん)と裸かな」(相馬虚吼)という句もあります。「欣欣然」というのは、歓びでいっぱいという意味ですね。われながら、おかしさがこみ上げてきます。こんな句が俳句辞典にちゃんと載っているのです。

「空蝉の羽におく露の木()がくれてしのびしのびに濡()るゝ袖かな」

「いいですなあ。……露のように、はかない自分かあ。《しのびしのびに濡()るゝ袖》? なんだいそれは」とSさんはたずねます。

「たぶん、木陰にかくれて涙でかき暮れている、まあ、そういうところでしょうか?」

「そうかねぇ。ほんとに、涙ですかねぇ?」とSさんはいいます。

「そうじゃないっていいたいんでしょう? わかりますよ、そこは」とぼくはいいました。

ぼくは「源氏物語」のなかで「空蝉」が好きです。むしろ、男を拒むことで恋をいっそう昇華させた女とでもいいましょうか、恋の情念を秘めながら、ぐっと我慢した女? ――つまり欲求不満の歌が多いのです。

「それが歌にあらわれていますねぇ。欲求不満は芸術を生みます。あの《嵐が丘》だって、エミリーは悶々として書いたので、いい小説ができた」

「そういうもんですかね?」とSさんは小首をかしげます。

「こういうのもあります。昼顔の話ですが、……」といって、「石竹(なでしこ)のその花にも朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日無()けむ」という歌を読みあげました。

Sさんは黙って聞いていました。

恋しいあなたが、もしもなでしこだったらいいのになあ、わたしは毎朝、その花をこの手で摘んで愛してあげるのに。けれども、あなたはもう死んでしまった。愛は亡き人から、いつの間にやら悲しいけれど、この世の人へとこころ移りをしてしまって、……まあ、そんな歌ですね。

 

 ふりかえりふりかえって見るわが世界、

 この冬も夏のめくるめくかな。

ところで、漢字は偏とつくりでできています。偏の意味を知れば、見たこともないつくりでも、あたらずといえども、だいたいのことが想像できるようになります。その話をしました。

英語もおなじですね。明らかに偏とつくりでできています。たとえばtelevisionは、「tele(遠い)」「vision(映像)」になりますし、telephoneは、「tele(遠い)」「phone(音)」になります。もともとはギリシア語だなんてまるで気にしなくていい。

そうすると、英語も自然にわかってきます。

「ははーん、そういうもんですかね! とSさんはいいます。

いつか書いたことがありますが、「左遷」という漢字は、「左」に「遷する」と書きます。つまり、官位を落とすという意味になるものの、このことばは、ちょっとおかしいですね。

中国は、右が上位で左が下位の国。つまり左遷は官位を落とすという意味になるわけです。つまりべつのことばでいえば、「貶黜」とおなじなんです。「貶黜」は官位をさげてしりぞけるという意味があります。

ところが日本は古来、左が上位で、右が下位の国。相撲の番付表では左(東)が正横綱で、右(西)が下位で張り出し横綱ですね。食膳には左にご飯、右にお吸い物を配します。ご飯を上位に置きます。

ですから、「左遷」ということばを輸入したのはいいけれど、そういうこともおかまいなしにずーっと使われてきました。漢字の意味からすれば、日本では「左遷」は官位を上げることになってしまいます。ほんらいなら日本語では「右遷」といわなければおかしいのです。でもそうしなかったのは、取り返しのつかないくらい一般に普及してしまったからでしょう。

その論でゆくと、「社長の右腕として、……」というのも、ほんらいなら「社長の左腕として……」になるはずでしょう?

漢和辞典を読んでおもう疑問がいろいろと出てきます。べつに学者になるわけじゃないので、ぼくは調べてみようとはおもいませんでした。しかし、日本語の文章の活用形にも疑問を感じます。

だってそうでしょう?

未然、連用、終止、連体、仮定、命令、……とありますが、「書く」という動詞形を考えたとき、「書こう」というのは未然形になっています。旧おくりでは「かかう」と書くので、未然形には違いないのですが、これはちょっとおかしい。書こうというのですから強い意志がはたらいています。ニュートラルな単なる未然形とは、あきらかに違うのですが。

ぼくが高校生になったころ、国語審議会は大揺れにゆれ、新しい国語の教科書では、最後に「志向形」というのがくっつきました。「書こう」というのは、つまり志向形になったわけです。勉強のできない中学生がおもう疑問に、ようやっとお国の国語審議会が口語体の活用形を変えてくれたわけです。これは可能動詞ですからそうなりますね。

ところが、3年後、またもとに戻ってしまった。

これ以来、ぼくは学校の先生のいうことや、教科書を信用しなくなりました。先生に疑問をぶつけても、「それはわからないね」というだけでしたから。疑問があれば、自分でしらべるようになりました。つまり、独学です。全方位独学。

「ほう、全方位、独学ですか!」とSさんがいうと、そこにヨーコから電話がきました。

「お父さん、まだなの? そこにあったマガジン、わたしも見たいわ、持ってきて」といっています。

「ああ、淡路恵子さんの? いま、Sさんきてるから、……」

「だったらSさんも、いっしょにどうぞ」といっています。