出会いがしらの


 

上野の東京都美術館にて

 「そもそも人間は恩知らずで、むらっ気で、猫っかぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだ」

こんなふうにいわれると、だれだって「自分は違うぞ!」とおもってしまう。

マキャベッリはそれを知っていた。

彼の「君主論」には、そんなことばが堂々と書かれている。「恋と戦争は手段を選ばず」。これもまた、そのとおりだとおもってしまう。そうおもっていながら、あれこれ理屈をつけて、自分は違うぞとおもいたいのである。ちっとも違わないのに。

まっとうな人間なら、いつだってヤクザな人間になる。

むかし中野好夫は「善人ほど始末に困る人間はいない」という文章を書いていた。善人のおせっかいをいっている。

人のことはいえないが、あのブリア・サヴァランの名著「美味礼賛」という本は、読みようによっては、稀代のセックス論だ、と伊集院静氏はいっていた。ぼくもそうおもう。

うまい飯を食ったら、一度仮眠をして、セックスするのがいいと書かれていたりして、多くの男女の出会いは、「出会いがしらのセックス」だという。

「誠の恋は、みなひと目で恋をする」とシェイクスピアはいっている。これなんか、「出会いがしら」の恋なのだろう。そういう恋は、飯を食ってからじゃなく、飢えているほうがいいとだれかが書いていた。そうかもしれない。

交通事故統計データによると、ちょっと古いが、平成18年の出会いがしら事故による死傷事故件数は233,177件で、全死傷事故件数の約26パーセントを占めていると報告されている。「出会いがしらの恋」の報告は、どこにもないけれど、それ以上かもしれない。

 

 

 

ぼくは銀座のルノアールを出ると、もう外には夜の帷(とばり)が訪れようとしていた。暑くもなければ寒くもない。わずかに微風が頬をかすめる。銀座2丁目の通りを新橋方向に向かって歩きはじめたとき、ぼくに声をかける女性がいた。

「……あのう、音楽、お好きでしょうか?」といって、その女性はぼくにパンレットを手渡す。コンサートの案内チラシのようだ。

音楽? ええ、もちろん大好きですよ。

というよりも、その女性の上気したような顔を見て、ぼくはちょっと身震いした。ナターシャの面影を見たようにおもった。そのときぼくは、ナターシャのことで頭がいっぱいだったので、彼女の声そのものがBGMのように聞こえた。「音楽、お好きでしょうか?」というその声。――もしかしたら、ナターシャの声? 

ぼくは、どきっとした。

窓辺をたたくナターシャの声。奇妙な気分だった。

映画を観終わってから道を歩きはじめたとき、まだ映画の余韻がずっと残っていて、街の風景やいろいろな音がまるで映画のシーンのように揺れていて、さっき聴いたテーマ曲が流れている、そんな気分だった。

「音楽は、好きです」というと、彼女はパンフレットに書いてあるコンサート・ピアニストの話をはじめた。「おお、即興! ですか」

「ええ、即興です」

そのコンサートというのがぜんぶ即興なのだそうだ。そして、「本音で生きたいと思いませんか?」と彼女はきいた。

本音だって? 彼女の話は、おもしろいかもしれない! 

いつか、ちゃんと聞いてみたい。

時間に余裕があるとコンサートのほうも聴いてみたい。そうおもったが、つぎに浮かんできたのは、喫茶店で最後に書いたナターシャの詩を、物語のどこに挿入したらいいか、大急ぎで考えなくちゃならない、そのおもいが頭をもたげていた。

「いま、ぼくは時間がないので、あらためて、あなたのお話をうかがえればいいんですけど、……」といった。

「では、明日はいかがでしょうか? 六本木の駅で」という。

六本木と聞いて、いま書こうとしているテレビ局のある六本木ヒルズのことをおもい浮かべ、

「いいとも。2時ですね? 2時。いいとも!」そのとき、銀座中央通りの歩道を飾る花々が目に入り、この出会いを祝福するように美しく微風に揺れていた。

それから、六本木の喫茶店で、いだきしんさんという人の即興音楽の話を彼女からたっぷりと聞かされた。それから、ぼくらはおつき合いするようになった。

彼女は銀座の美容師さんで、31歳、独身。

美容師とはいっても、パートで働いているらしい。彼女のほとんどの時間を、コンサートのボランティーアにあてているという話を聞いた。銀座で食事をし、いろいろな話をしたが、

「女たちは、だれも欲求不満なんです」と彼女はいう。いだきしんさんは、そういう人の気持ちを曲にする音楽家だというのである。心のなかをすっきりさせる音楽なのだそうだ。

「いちど、聴いてみません?」という。

彼女の口から、いきなりD・H・ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」の話が出た。そして、空海の話なんかも。――高麗恵子さんの著書「本音で生きて下さい」という本についての話なども。

彼女が持っていたその本を、ぼくはぱらぱらっとのぞいて拾い読みをしていると、「あきらめ」とは、「明らかに決める」という意味であると書かれていた。この本は、いい本のようだとおもった。ぼくの記事のなかにも、空海のことばをいくつか引用しているが、彼女のいう「本音」というのも、その源泉は空海にあるようにおもえた。

 

 男女交合のたえなるおもいは、きよらかなぼさつの境地である。

 愛の矢がとぶということは、きよらかなぼさつの境地である。

 触れ合うことは、きよらかなぼさつの境地である。

 愛し縛られることは、きよらかなぼさつの境地である。

 すべて自由の主となることは、きよらかなぼさつの境地である。

 愛の目で見ることは、きよらかなぼさつの境地である。

 きもちがいいということは、きよらかなぼさつの境地である。

 愛することは、きよらかなぼさつの境地である。

 心がたかぶることは、きよらかなぼさつの境地である。

 (「理趣経」より

 

これを、音楽で表現しているというのだろうか。

「ほほう、そうですか」

「そうなんですよ。わたしも本音で生きたいとおもって」と彼女はいった。

まるで、夢のような会話だ。春から夏にらなり、さんさんと降り注ぐ夏の太陽が東京の街に降りそそいでいた。なんだか、もういちど、青春のころに還ったみたいだった。そして、新宿の東京オペラシティでのコンサート――ピアノとパイプオルガンによる即興音楽を聴いた。雨垂れのようなリズム感のある音楽で、ぼくはすっかり満足した。チケットはS席で6000円だった。

出会いがしらの恋。――ぼくにもそういう恋があったのだ。65歳の夏だった。