邦人」のがやってくる

 カミュ「異邦人」(新潮文庫)

 

 

カミュの「異邦人」(窪田啓作訳、新潮文庫、平成26年、128刷改版)を一冊持って、草加の喫茶店に入った。――これで何冊目になるだろうか。読みたくなると、すぐ手に入れたくなり、出先の近くにある書店でおなじ「異邦人」を見つけると、また買ってしまう。さいきん、どうしたわけか、その書店でも見かけなくなった。

それほど、ぼくのこころを捉えて放さないのがカミュの「異邦人」なのだ。

人は、だれでも、一冊や二冊、そういう本を持っているとおもわれる。ぼくの場合はきょくたんで、この本に魅せられて何年になるだろうか。ぼくにとって、恋人の存在以上だ。

たぶん、ぼくは大学生になってこの本を読んだとおもうが、それ以来、ずーっと読みつづけているわけで、ぼくにはなくてはならないもの、生きるためにどうしても必要な本でありつづけた。もしも、自分がいよいよ死ぬというとき、ぼくは最後にたばこを一本求めるかもしれない。同時に、この「異邦人」を読みたいとおもうかもしれない。いや、最初のページを読んでくれ、というかもしれない。

きっとそうだと確信する。

死にのぞんで、「異邦人」を? そうだとも! 「異邦人」をだ。

この小説を読んで、事々しい文学論争の渦中に身をおいていた時期もあったけれど、いまは、そういう話には興味がなく、好きだから読む、そういう心境である。だからといって、サルトルの「異邦人」解釈に興味がないかといえば、少しはある。あるけれど、「静かにしておいてくれ!」という気持ちだ。

カミュの「シシュフォスの神話」は? 

カミュの「最初の人間」は?

それもいいけれど、やっぱり「異邦人」だろう、とおもってしまう。

この小説は、ぼくが生まれた1942年に発表された作品で、世界の文学に投じられた小粒なこの一石は、とても大きな衝撃と、とても大きな波紋を世界にひろげた。ぼくのこころにも響いてきた。

たとえば、こんな文章が――

 

ふざけたような振りをして、頭をそらし、彼女の腹の上へ載せた。彼女は何もいわず、私はそのままでいた。眼のなかに、空の全体が映った。それは青と金色だった。うなじの下で、マリイの腹がしずかに波打つのを感じた。われわれは、半ば眠ったように、ブイの上に長いことじっとしていた。太陽があまりに強くなると、彼女はとび込んだ。私はそれに続いた。私は彼女をつかまえ、腕をからだにまわして、一緒に泳いだ。彼女はひっきりなしに笑った。岸で、からだを乾かしているとき、彼女が「あなたより黒いわね」といった。(26ページ)

 

われわれが服を着たとき、私の黒いネクタイを見て、彼女は驚いたようだった。私が裳に服しているのかと尋ねた。私はママンが死んだといった。いつ、と彼女がきいたので、「昨日」と答えた。彼女は驚いてちょっと身を引いたが、何もいわなかった。自分のせいではないのだ、と彼女にいいたかったが、同じことを主人にもいったことを考えて、止めた。それは何ものをも意味しない。いずれにしても、ひとはいつでも多少過ちをおかすのだ。(27ページ)

 

「だまされていることがよくわかった。そこで手を切ることにしたんだ。おれはまず女を引っ叩(ぱた)いて、それから、あいつの正体をきめつけてやった。自分のあれでたのしむこと、お前の望みはそれだけなんだ、といってやった。『お前にはわからないんだ。世間というやつは、お前がおれから受ける幸福をうらやんでいるんだ。もうすこしたったら、お前の持っている幸福がわかるだろうさ』とね、ムルソーさん、おれはいってやったもんだよ」(40ページ)

 

彼女は私のパジャマを着ていたので、袖をたくしあげていた。彼女が笑ったとき、私はふたたび欲望を感じた。しばらくして、マリイは、あなたは私を愛しているかと尋ねた。それは何の意味もないことだが、恐らく愛していないと思われる――と私は答えた。マリイは悲しそうな顔をした。(46ページ)

 

夕方、マリイが誘いに来ると、自分と結婚したいかと尋ねた。私は、それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むなら、結婚してもいいといった。(54ページ)

 

この激しい暑さが私の方へとのしかかり、私の歩みをはばんだ。顔のうえに大きな熱気を感ずるたびごとに、歯がみしたり、ズボンのポケットのなかで拳(こぶし)をにぎりしめたり、全力をつくして、太陽と、太陽があびせかける不透明な酔い心地とに、うち克とうと試みた。砂や白い貝殻やガラスの破片から、光の刃が閃(ひらめ)くごとに、あごがひきつった。私は長いこと歩いた。(75ページ)

 

海は重苦しく、激しい息吹を運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾(ろう)する轟音とともに、すべてがはじまったのは、このときだった。(77ページ)

アルベール・カミュ。――彼は1913年、アルジェリアのモンドヴィで生まれた。

彼はいう。

「わたしは自由を、貧困のなかで学んだ」と。

彼がフランスの旧植民地のアルジェリアで生まれたことと、何か関係があるのだろうか、この「異邦人」という小説は、奇しくも、パリの中央文壇とはなんの関係もなかったにもかかわらず、一躍、時代の寵児と呼ばれるようになり、いまでは、世界の多くの読書人をトリコにしてしまうほど、忘れがたい異彩を放っている。

ぼくの読書の真ん中に鎮座するこの薄っぺらい本は、骨の髄までぼくをトリコにしてしまった。この小説を、多くの人、多くの友人たちに紹介し、いままた、28歳の青年はそれを読み終え、何かいっていた。ほとんどつぶやきで、ひとり言のようにいっていたが、アンブローズ・ビアスの「アールクリーク鉄橋の出来事」よりもいいといってくれた。

「アールクリーク鉄橋の出来事」は、芥川龍之介が日本に紹介した小説だが、その芥川はカミュを知らない。

もしも芥川龍之介が「異邦人」を読んでいたら、きっと、べつの小説を書いたかもしれない。それほどの異彩を放っている作品で、これが出てからというもの、フランスの文壇はもとより、昭和26年から、日本では「異邦人論争」を引き起こし、日本における文学の方向性が変わったようにぼくは考えている。あっという間に読み終え、ぼくは、あまりのすばらしさに、唸ってしまった。ぼくの永遠のマリイは、イタリアにいる。彼女のことをちらっと想いださせた。