敷にいた日

 

倉敷の珈琲店の裏庭で

 

 

10月19日、妻と倉敷についたのは午後1時ごろだった。

着いたときは薄曇りだったが、大原美術館のまえに着くころ、雨がぽつぽつ降ってきた。美観地区の街中は静かだったが、倉敷川に沿った道々には観光客が多く、人力車が走っていた。小京都を想わせるような街のたたずまいに目を奪われ、妻もうきうきしていた。

美術館を出ると、妻と街のとおりに出て、さっき通った倉敷物語館のまえまできていた。妻は杖をつき、歩行が人より遅い。

あちこち店先をのぞくので、もっと遅い。

からしシイタケを売る店に入り、妻はゆっくりと店内を物色。

そこを出ると、

「お父さん、ここで休憩しない?」と妻がいった。珈琲を振る舞うむかし風の店があった。外国人のカップルが珈琲店に入るのを見て、妻はにこっと笑ってじぶんを誘った。

たばこの吸える席は、店の奥の外にあった。

裏庭には何もなかったが、坪庭が眺められた。

そこで妻と、時間はまだたっぷりあるという話をして、ぼくはある人に電話をした。すると、相手の女性は、

「もう着きました? いま、どこですか?」という。店の名前をいうと、お母さんの友だちが絵の個展をやっていて、いまはそこにいて、ちょっと抜けられないという話だった。倉敷の大原美術館の近くらしい。

あとで電話してくれることになった。ぼくらはそこに小一時間ほどいて、どこかで少し遅い昼食を食べようということになり、倉敷駅に向かう中央通りの街に出た。

倉敷川に沿った美観地区のたたずまい

 

 

……倉敷といえば、むかし内田百閒という作家がいたことを想いだした。

若いころ、夏目漱石を読む過程でこの人を知った。岩波書店の創業者岩波茂雄は、漱石の門下生でもあった。その縁で、漱石が亡くなって岩波書店から「漱石全集」(全18巻)を出そうというとき、森田草平の下で働いたのが内田百閒だった。

森田草平は、漱石の主宰する「木曜会」には遅くなって入ってきた人だったが、東京帝大の英文科を出るまで、与謝野鉄幹夫妻、馬場胡蝶、上田敏らの知遇を得て、大学を出ると、与謝野晶子がつくった閨秀大学講座の講師になり、教え子には、平塚らいてうがいて、彼女と恋愛し、あろうことか、らいてうと冬の塩原尾花峠で情死行をやってしまう。

まあ、死のリハーサルみたいなものだったのだろうか。だが、ふたりは死ななかった。

漱石のはからいで難をおさめ、これがきっかけで、森田草平は東京朝日新聞に「煤煙」(明治42年)という小説を連載することになる。日本近代文学史には、かならずといっていいくらい、この事件と「煤煙」が扱われているが、それだけに、森田草平といえば「煤煙」をおもい出すくらい、彼の代表作になった。

「ひと口にいって、《煤煙》で作者のいいたかったことは、何ですか?」とある友人に尋ねると、

「うーん、それは、森田の哲学だったでしょうな。恋愛しながら、じぶんを見失うまいとする自我の確立。……新しい時代、新しい女との悩み、情熱と頽廃、その分裂した青年のこころの叫び、そういうことをいいたかったのだとおもいますね。この小説は、ベストセラーになりましたからねぇ」と友人はいった。

「作風は、ほとんど、ドキュメンタリーですか?」

「そうでしょうな。……漱石の《三四郎》では、その萌芽みたいなものを感じさせますが、《煤煙》は、大人の悩みをそのまま描いていて、強烈でしたね」

それからどうなりましたか?

 

漆喰の色が映える商屋

 

 

「これをきっかけにして、森田草平は、漱石門下の優等生となり、小宮豊隆のすすめで、東京朝日新聞の文芸欄を担当することになり、彼は自然主義文学に徹底して対抗しましたね。さすがは、漱石門下生だけあって、有島武郎にも通じるところがあります」

「なるほど。――ところで、漱石全集の編纂主幹に、森田草平が選ばれたというのは? その話を、どうして知ったんですか?」ときいてみた。

「内田百閒が書いていますよ。彼も、漱石全集に少なからずかかわっていましたからね」という。

内田百閒は、28歳くらいのころに、築地の活版印刷所の2階で森田草平の走り遣いをやらされていたようだ。その話を聴いた。

「漱石といえば、小説はともかく、俳句もたくさん書いているでしょう? 森田草平は、俳句にはとんと縁がなかった人ですよね?」というと、

「そうなんですよ。短歌には縁があるというのに、俳句は、よくわからない。その彼が、俳句の校閲やら、解説文をじぶんじゃ書けないので、内田百閒に頼んでるんですよ」

「内田百閒は、俳句もやっていましたからね」

「そうですね。……内田百閒は、小説よりも俳句の解説のほうが得意でしたから、よろこんでひき受けます。彼は東京帝大を出て、作家として、まだ自立しないころでしたのでね。……原稿料をいただけるというので、森田草平先生にくっついて、いろいろな仕事を引き受けていましたね」

「ほう」

「ところが、彼の原稿を読んで、ちょっと手直しをするんです。自分もかかわっているのだぞ、といわんばかりにね。校閲といっても、一週間やっても二週間やっても、受け取る金銭はおなじ。森田草平は、改造社からお金が入ると、岩波から入るのを待たずに、内田百閒にはいろいろと融通しています。手間賃やら、稿料は、折半で。半分でも、きみのほうが分がいいのだぞ、といっています。なぜなら、税金はおれが支払うのだからな、と。たしか1000円ほどもらっている。そんなわけで、森田草平は親分肌だったようですね」

「そういうことですか。……ところで、岩波の《漱石全集》は読まれましたか?」

「ええ、全巻読みました。ぼくには不満がありますけどね」と彼はいう。

「どういう? ……」

「読めばわかりますが、全ページ、漱石が書いたとおりの活字を使っていないというところですね。漱石が使った旧漢字ではなくて、みんな新漢字になっているでしょう? そこが不満ですね」と友人はいった。

なるほど。そういわれてみると、そうだなとおもった。森田草平は、漱石が亡くなったとき、デスマスクを提案したらしい。ところが、自分にはまわってこなかったので不満顔だったそうだ。

漱石の脳は東京帝大に保存されていて、天才の脳は、これからの医学の発展に大いに資するというので、保存研究されたという話である。

「木曜会」に集まったメンバーたちは、小宮豊隆、鈴木三重吉、安倍能成、森田草平、寺田寅彦、芥川龍之介、久米正雄、内田百間、津田青楓、岩波茂雄などなど、錚々たる人びとだった。

少しあとになって弟子になった第4次「新思潮」同人の久米正雄、松岡譲は、漱石の長女筆子と結婚したいといい張って、けっきょく、松岡が勝ったため、ふたりの関係は壊れた。

――そんなことを想いだしながら、ぼくら夫婦は街中で倉敷独特のカツ定食というのを食べた。食べ終わってホテルに着き、着替えをしているときに電話が鳴った。

「田中さん、いまどちらですか?」という。

「ホテルなら、これからそちらに向かいます」という。ほどなくして、彼女はやってきた。母親の運転するがクルマでやってきた。

「これから、瀬戸大橋でも見物しませんか?」という。妻の脚が疲れて、もうダメでしょうといい、くるときに持ってきた土産を手渡し、

「倉敷はたいへん気に入ったので、またきますよ!」というと、

「ぜひ、そうしてください」といって、彼女も母親も、嬉しそうにしていた。その人は、草加市のおなじマンションに住んでいて、ご亭主とは離縁し、一ヶ月ほどまえ、実家のある倉敷に引っ越してきたばかりの人である。彼女との縁は、自転車のタイヤに空気入れてあげた程度のつき合いで、格別親しくしていたわけではなかったが、彼女の実家というのが、大原美術館の近くだというので、その街で会う約束はしていた。

こんなすてきな街に住む彼女は、夫とは離縁をしたけれど、輝いて見えた。

備前玉

 

それから翌日は、こんどは船に乗り、小豆島や大塚美術館へとむかった。

小豆島のホテルで、倉敷のホテルから電話があり、お客さまからお預かりしていた品を手違いでお渡しできなかったので、送らせていただきたいという。

「どなたから?」ときくと、きのう別れた彼女からだった。

「なんだろう」とおもいつつ、その翌日も旅をつづけた。

そして日曜日のきのう、その品がマンションに届いた。倉敷の名物の「むらすずめ」と、「備前玉」というものだった。梅干しくらいの玉が5つも送ってきた。これを入れると、ご飯が美味しいとか、ビールが美味しい、お酒がまろやかに熟成する、コーヒーがおいしいと書かれていた。妻は、とても喜んだ。