一枚の写真 (Ⅰ)
札幌は晴れていた。雪もすっかり解けて消えかかっている。
ビルのあいだから見える遠くの山々が、雪をかぶって尾根も沢も真っ白になっている。
空には雲もなく、どこまでも蒼穹(そうきゅう)の空がつづき、冬の太陽がまぶしく北の大都市に降りそそいでいる。――宇宙から地球を撮影したデジタ映像を見たときの感動がよみがえってきた。あれは、漆黒の宇宙だった。その画面のほとんどに青く見える地球が写っていた。この青い惑星は、せいぜい数万キロメートルの層でしかないということが、驚きだった。この青く見える惑星の色は美しく、宇宙の暗い起伏でさえ愛(め)でる気分になれたことが嬉しかった。
ブルー・インパルスの飛行演技を見たときのシーンを思い出す。
ユキ子が入院してから4日たった。ユキ子はまだ眠りつづけている。
わたしは午後になって、札幌の、あるデパートにひとりで出かけた。5階のイベント会場だった。
新聞の全15段を使ったデパートの広告を見て、高橋淵明という写真家の、生誕百年を記念した写真展があることを知った。わたしはどうしても見たいと思った。会場のロビーでわたしは人を探した。まだ約束の時間になっていなかった。その人といっしょにきょうのイベントを見たいと思ったのである。
デパートのイベント会場というところは、いっぷう変わった雰囲気がある。せわしなく動きまわる人びとの足を、たちどころに止めてしまうというような信じられないほど動かない空気をためている。
高橋淵明の写真は、よく知っている。たいはんは白黒写真で、土門拳の「筑豊のこどもたち」や木村伊兵衛の写真とおなじく、ひところの生活の信憑性というものを綿々と写しこんだ作品である。一枚一枚がべつべつのものでありながら、おなじ時代の匂いを放っており、原質素朴(そぼく)の味わいがあって、人物たちのその一瞬だけ動作をとめた姿が、わたしの記憶のなかにあるものと似かよったかたちで写っていた。
キャサリンがあらわれた。
黒のウールのコートを羽織っている。
「恥ずかしいわ。わたしに似合いますか?」といって、コートのまえをひろげた。
「そのコート、脱いでみて」と、わたしがいった。
「これ? いやです!」といって、腰を大きくくねらす。
キャサリンは和服を着ている。それはわたしの注文だった。この写真展をぜひキャサリンといっしょに見てみたいというつよい希望をもっていた。しかも、和服でなければならないというわたしの注文に、キャサリンは最初、電話のむこうでとまどっているようすだった。
キャサリンは和服を一枚ももっていないといっていた。だから、わたしののぞみはかなえられないかもしれないと思っていた。
キャサリンは友だちから借りてきたといった。ぶどう染めの地に、まえ身ごろのあたりに鮮やかなさくらの花をほどこしている。帯はさくらに合わせたローズピンク。
キャサリンにはちょっと派手かもしれない。
「金ぶちの眼鏡、はずしたほうがいいね」と、わたしはいった。
「これをはずしちゃったら、見えないわ」といいながら、キャサリンは眼鏡を取った。ブロンドのストレートヘアがよく似合った。
「これ、グラデーション・カットっていうのよ。恥ずかしいから、じろじろ見ないでください。――なかに入りましょうか」キャサリンはそういって、懐中からハンカチを取り出し、小鼻や口のあたりを拭いた。少し汗をかいているらしい。
展示会場の正面には、なつかしい写真がかかっている。
会場に展示された写真は、いずれも35ミリのモノクロームで撮られたものだろう。スチールは6つ切り、4つ切り、全紙、全倍大と、それぞれに引き伸ばされているけれど、光量の足りないぶんだけレンズを開き、ひとつひとつの動作がにじんだようにボケをだしている写真が多い。
それらは、軟らかい2号くらいのペーパーにしっとりと焼きこんだものらしい。
フラッシュとかストロボとか、あるいは反射板とかをいっさい使わない、贅沢な自然光のなかで撮られているようだ。そして、一枚の写真に、おそらくそれを見るものの想像を遥かにこえる時間と労力を使ったことだろう。ひょっとすると、カメラの存在さえも忘れさせる時間を使って撮影されたかもしれない。そういう力づよいショットが、そこに描かれている。
「これ、おもしろいわね」と、キャサリンが指さした。
泣いている女の子が写っている。彼女よりもずっと幼い女の子が、泣いている大きな子の頭をなでているシーンだった。
たった一枚の写真が、人をほのぼのとした気分にさせたり、たまらなく辟易(へきえき)させたり、怒りや悲しみに満ちた気分にさせたりする。作家にとってその一枚は、そういう感情を表白(ひょうはく)するにじゅうぶんな一枚であるはず。
わたしは、もう失われてしまった空白のフレームを見る思いがした。しかし、観覧者の足をそこに止めてしまうものがあるとしたら、それは感動とはちがったものをふくんでいる場合がある。
♪
会場には数人の観覧者がいた。
キャサリンが入ってくると、観覧者のひとりが彼女のほうをしきりに気にしているようすだった。外国人女性が和服を着ていたからだろう。
パーテーションの壁に吊り下げた写真フレームのほとんどは4つ切りで、大きなものではなかったが、正面の壁に吊られた写真は大きく引き伸ばされ、わたしとキャサリンは吸い寄せられるようにその写真のまえにきていた。たたみ半分ほどの大きさだ。
それは、姉妹らしいふたりが写っている写真だった。
姉のほうはすっかり大人びた化粧をしていて、嫁入りまえの娘ざかりのころ、たまたまそばにいる妹といっしょに撮られている、といった作品に見える。
たたみ敷きの広間の縁側に足をなげだしているお下げの少女は、そばにきちんと座っている姉になにか話しかけているところだった。
姉は和服姿だけれど、特別なものではなく、おそらくふだん着なのだろう。ところが、その髪は美しく梳(す)かれ、頭のうしろのほうに可愛いくて小さな櫛(くし)をさしている。縁側の板はところどころ朽ちたように白くなっていて、踏み石のうえに小さな駒下駄(こまげた)がきちんとおかれている。鼻緒(はなお)に花柄の模様らしいものが見える。
ふたりの真うしろには、広間の戸が開けはなたれて、ぼんやりとした陽(ひ)だまりのなかに樹木の影がにじんで見える。
夏のことらしい。
この「ふたりの女」という作品は、1950年と記されている。
わたしはゆっくりとした動作で、この写真をながめ、かぎられた空間に放っている映像の威力に酔い痴(し)れた気分になっていた。きっとキャサリンもおなじだろうと思った。
ふしぎな脈絡を感じさせる作品のならべかたに気をとられているうちに、いつのまにかふたりは一巡して受付のまえにきていた。
受付からながめるコーナーには、さっきの男の姿が見えなかった。
「キャサリン、そこに立って、正面の写真を見て」
わたしはそういって、キャサリンの立つ位置のところまで歩いていって、「ここに立って、写真を見て」といった。
そしてわたしは受付のほうに引き返した。
キャサリンはいわれたとおり、さっきの「ふたりの女」のフレームのまえで、それをながめた。わたしは、指で四角いフレームをつくり、目のまえのコーナーをいろいろ見つめていた。
キャサリンは「なにしてるの?」というふうに、こっちをむいた。
「眼鏡、取ってみて」といった。
受付の女性が、わたしのやっていることをふしぎそうにながめていた。
やっぱりこれだ! と、わたしは胸のなかで叫んだ。
キャサリンのほうにいき、写真を見ながら、「この写真、ふしぎなんだ」といった。
「この写真、おぼえておいてください。わけはあとで話します」といって、「じゃあ、コーヒーでも飲みましょうか」といって、会場をでた。
歩きながら、キャサリンは「どうしたのかしら」というような顔をして、わたしのほうを見た。エレベーターのなかで、「ちかくにいい喫茶店がある」とわたしはいった。
デパートの外にでると、わたしは大通りのほうに足をむけた。ビルの地下にある喫茶店にふたりは入った。
席につくと、キャサリンはコートを脱いだ。
「ああ、いいね」と、わたしはいって、指でフレームをつくり、覗いてみた。
そしてコーヒーを飲みながら、わたしはさっきの話のつづきをしゃべりはじめた。
「あの高橋淵明の作品を、ぼくはずっとまえに、べつの会場で見ているんです。なかでも、『ふたりの女』には、ちょっとした思い出があってね。それをきょうはおしゃべりしたいと思って」といった。
「もしかして、……田中さんに、関係のある写真なんですか?」
「じつは、そうらしいんですよ」といった。
♪
――あの日の札幌は、秋の驟雨(しゅうう)に見舞われて、からだじゅうがじめじめした感じだった。わたしは、ちかくのデパートに飛びこんだ。ちょうど高橋淵明という、わたしの知っている写真家の写真展があった。それを見たときのことだった。
やはりきょうのように、数人の客が、雨がやむのを待つように、そぞろ気分でフレームのなかを覗きこんでいた。
そのなかに、60歳をすぎたと思われるブロンド・ヘアの女性がいた。和服を着ていた。彼女はかなりの時間をかけて熱心に写真をながめているようすだった。
リノリュームの床とパーテーションのあいだが少しあいていた。
わたしは、仕切りのむこう側に見えるブロンド・ヘアの女性の足もとをながめた。ほかの客にまじって熱心に観覧するこの和服姿の外国人の存在が、会場のなかで妙に浮きあがって見えた。
なにか、特別な注意をしきりにひいているのだった。
わたしは女性の顔を見た。どこかで出会っているように思われた。なぜか、懐かしい感情がわいてくる。そして、記憶の罠(わな)にかけられたような戦慄(せんりつ)が走った。わたしは思い出そうとするけれど、なかなか思い出せなかった。
わたしはさっきから動く気配のないこの女性の足もとに視線を落としていた。
しっとりとした感じの桔梗(ききょう)色の縦じま模様の和服だった。そのまえ裾が地味な印象を与えていたけれど、それは決して地味に失するというのではない。ふだんもそうしているといった、ごくごく着慣れた姿に見える。
ちょっと見過ごせない年季の入った動作だった。
彼女が注目してながめていたのは、「ふたりの女」の写真だった。
わたしもその写真をながめた。そのとき、なにかしきりに惹起(じゃっき)する磁力のようなものを感じたけれど、それは写真ではなかった。
写真のなかに描かれたふたりの女のそこはかとないしぐさから想像される1950年代の彼女たちの身辺だった。――兄弟姉妹であり、肉親であり、戦後日本にようやく見られた落ちつきだった。そのつましい娘時代のそれであり、もう過ぎてしまったふたりの過去とその後のことだった。そしていま、ずっと時代が変わって、地方都市のデパートでそれを見るひとりの異国の女性だった。