■日本文学としての古典の魅力。――

を憎まば(しょう)を愛すべし

 

車いすの天才。――限りない宇宙の語り部として名を残したスティーヴン・W・ホーキング博士のことをとつぜん想い出した。そして「ホーキング、宇宙を語る」(A Brief History of TIME:From the Big Bang to Black Holes)という本を想い出した。

文庫本(早川書房)の奥付を見ると、1995年(平成7年)に出ていることがわかる。ホーキングとおなじ1942年生まれといえば、ポール・マッカートニーやアンネ・フランク、そしてじぶんがいる。

1982年ホーキング博士はハーバードでレーブ講義を担当したあと、「空間と時間」についての一般的な書物をかきたくなって書きはじめたのが「ビッグバンからブラックホールまで」という文章だった。いま、その話もしたいが、源氏物語の話もしたい。

――ところで、「源氏物語」を英訳したサイデンステッカーさんのことを、いま想い出した。先日、コロンビア大学教授だった神山幹夫先生からメールを送られ、その話が書かれていた。

「源氏物語」に「夕顔」という固有名詞が出てくる。これは登場人物の名前だ。これを英訳するとき、サイデンステッカーさんは「Evening Face」と翻訳された。すばらしい翻訳である。

「夕顔」の学名は「white-flowered gourd」である。こんなおもしろくもおかしくもない植物学的な文字にしてしまっては、せっかくのおくゆかしい名前が死んでしまうと考えたのだろう、「Evening Face」。すばらしい訳文である。

「榊」にしても、そうだ。サイデンステッカーさんはこれを「sacred tree(神聖な木)」と翻訳された。妻ヨーコをもしも英訳するとすれば、いったい何と訳したらいいのだろう。

 

 草庵(そうあん)にこもりて色の立つかほり

 

という詠()み人知らずの句がある。――この句のいいところは「色の立つかほり」というところだろう。おそらく草花のかおりをいうのだろうが、草庵にこもっていると、というところになにやら艶冶(えんや)な空気が漂ってくる。むかしから煙霞(えんか)花鳥に辜負(こふ)するためしは多くあり、世のありさまを見て、男女の、あるいは夫婦の愛の交歓の情景を物にたとえる句がひじょうに多い。この句はそうした句なのだろう。

 

 草庵にしばらく居ては打破り  蕪村

 

という句は、あんがい知られているだろう。草庵にしばらく居ついて、「打破」ったというのである。ただそれだけしか書いていない。目的語は書かれていない。何を打ち破ったというのだろう。

蕪村の句にも艶冶なものが多い。あれを「打ち破」ったというのだから、まさに打ち破ったのだろう。「太陽の季節」では、障子を打ち破っている。

 

 花ちりて身の下やみやひの木笠  芭蕉

 

これは、芭蕉の有名な「笈(おい)の小文」のなかに出てくる。

じぶんは世俗を離れられない人間で、市井の貧しい暮らしを見て、じぶんの境涯にそれを重ね、じぶんを思うというような句である。じぶんはひとり。貧しいながらも、世間は夫婦という連れ合いに恵まれ、つましい暮らしに安堵している。そういう情景を描いている。

軒下に咲いた花も散っていく季節。――この年齢で何も急ぐ旅でもないとおもいなおし、ふと見ると、「身の下」、――つまり下半身が、「やみやひの木笠」になったというのだろうか。「やみ」というのは、「こころが遠くなり、迷いみだれる」という意味である。それが「木笠」だというのだから、けっこう硬いものになったというのだろうか。

もちろん、そういう意味だけじゃないだろう。

ふと見ると、気配で分かるように、家のなかには人がおり、玄関の入口には木笠を引っ掛けている。

その情景を見て、芭蕉はじぶんのことに思いを馳せた、……とも読める。そうではなく、花を散らせた木の幹という意味の「身の下」なのかも知れない。「身の下」は「実の下」に通じる。この木は、全盛期の花も散らせてしまったけれど、離俗の世界からながめれば、まだ生々しい営みが行なわれようとしている木、という意味にも取れそうだ。しかし、この句にはまだ謎がある。

問題は「笠」である。――笠は、むかしから家を意味した。いまでも落書きに笠を書いて親しいふたりの名前をならべて書いたりする相合傘なのだ。笠の下にいることが幸せな夫婦という意味にもなる。それを、ひとり旅に明け暮れする芭蕉は、うらやんで句にした、とも読める。

しかし、いい句だ。

ヨーコは嫌な顔をするかも知れないが、この「笠」にはいろいろな意味がある。男性のシンボル、その先端は名状しがたい笠状に張り出している。野にある「きのこ」のようだ。その笠で引っ掻くのだ。欲望健啖、まさに隆々として、男の緊迫した心根をあらわし、シェイクスピアのことばを借りれば、willそのものである。

 

 賤夫(しつのを)も生けるしるしの有りて今日君来ましけり伏屋(ふせや)の中に

 

この歌の作者は、川崎致高という人で、讒(さん)に遭って明治2年(1869年)に自刃したらしい。他人に誹謗中傷されて、腹を切ったという。

くわしいことは知らない。「賤夫(しつのを)」というのは、そういうじぶんのことをさげすんでいっていることば。それでも生きる証拠に、こころにおもう女性をじぶんの家に呼んで性の喜びを交わすというのだろうか。「伏屋」は、屋根が低く、みすぼらしい家という意味である。

 

 「生けるしるしの有りて今日君来ましけり」というところがすごい。

 

「死を憎まば、生を愛すべし」ということばがある。吉田兼好の死生観が滲み出たことばである。死が憎ければ、文字どおり、もっと生を愛しなさい、という意味だろう。「徒然草」は、江戸期におびただしく書かれた随筆のなかでも突出している。「徒然草」では、あるところでは趣味を語り、あるところでは世相を語り、あるところでは人の道を語り、色と欲を語る。

 

 されば、人、死を憎まば、生(しょう)を愛すべし。

 存命の喜び、日々に楽しまざらんや。

 (吉田兼好「徒然草」第93段

 

この文章はもっとつづく。――

 

――愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外(ほか)の楽しびを求め、この財(たから)を忘れて、あやうく他の財を貪るには、志(こころざし)満つ事なし。生ける間(あひだ)生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理(ことわり)あるべからず。

 

――というのである。人間にとって最高の財(たから)は、財産でもなければ名声でもなく、地位でもなく、死の免れがたいことを日々ちゃんと自覚して生き、いまあることを楽しむことだけだといっている。そういわれてみれば、利得得失に一喜一憂するこの浮世は、どうでもいいことかも知れない。「いまを楽しめ」、それがいいというのである。

 

 若きにもよらず、強きにもよらず、思ひ懸()けぬは死期(しご)なり。

 (吉田兼好「徒然草」第137段

 

ということばもすごい。――これは、死すべきものとしての人間の自覚を説いた段である。つまり、メメント・モリ(ラテン語でmemento-moriと書き、「死を忘れるな」という意味)である。人はいつか死ぬ。いま生きてこの世にあるという自覚を強く持て、という意味だろう。妻ヨーコは口癖のようにいう。

「お父さん、来年のことは分からないのよ。いまが大切なのよ。いま楽しまなくちゃ、いつ楽しむのよ」といっている。

このあいだ、ヨーコに「ふぐり」の話をした。「松毬(ぼっくり)」のことだ。

クリスマスの飾りつけにもこの「松毬(ぼっくり)」が使われる。辞典で「ふぐり」を見ると、「陰嚢(いんのう)」と出ている。男性の睾丸をつつむものと書かれている。

あのシワシワになったヒダの多い袋は、いってみれば、ラジエーターの役割を果している。寒くなればちぢんで熱を閉じ込め、暑くなればヒダが伸びて、中にこもった熱を放射する。

男性の局部は、冷えていなければならない。

睾丸は冷やすと元気になる。だから、からだの外に出ているのだろう。

これを「ふぐり」という。

松ふぐりは、そういう機能から名づけられたものではない。人間の「ふぐり」のかたちと似ているので、そこから名づけられたようだ。

 

 橋立の松の陰嚢(ふぐり)も入り海の波もてぬらす文殊(もんじゅ)しりかな。

 

天(あま)の橋立には行ったことがないけれど、そこは宮津湾にある砂でできた鳥のくちばし。――ちょうど入り海になったところである。日本3景のひとつに数えられる。「股めがね」といって、じぶんの股のあいだから景色をながめるところである。文殊菩薩といえども、お尻を海につけて《ふぐり》を洗っているという狂歌(きょうか)である。

むかし友人に、風呂あがりに、ふぐりに水を打つといいという男がいた。じぶんもやってみたが、冷たいおもいをしただけで、あとはやめた。

歌人の川田順さんが、70歳を過ぎて、若い人妻のお弟子さんを奪い、結婚して、これを毎晩やって鍛きたえたそうだ。

しまいには、高麗にんじんを食したり、精力のつくクスリを手に入れて飲んでみたりと、さまざまな涙ぐましい努力をしている。辻井喬さんの小説「虹の岬」にくわしく書かれている。結婚生活はわずか5年だったが、ふたりは幸せな晩年を迎えている。くわしくは、記事に書いた。

先日、図書館の帰りに喫茶店で偶然出会った青年とおしゃべりをした。偶然といえば偶然なのだが、おなじ喫茶店でよくお目にかかっている青年で、獨協大学の学生さんだ。彼はノートブック・パソコンを持っていて、隣り席になってぼくが本を読んでいたら、声をかけてきた。

「ちょっといいですか? スカイラークのスペルは、lark、それともlerkでしたか?」という。

「スカイラーク? ……ほう、ぼくの好きなことばですね」とぼくはいい、「skylarkですよ」といった。

「北海道の片田舎には、いっぱい飛んでいましたよ」「北海道ご出身ですか? ぼくは岡山です」と彼はいった。

「北海道の北竜町の出身です。ご存じですか?」

「いいえ、知りませんけど、……」

「そですか。……でも、skylarkって無造作に使ってしまうと、誤解されますよ」といった。

「え? なぜですか?」

「ほら、skylarkって叫ぶと、ふざけるな! って聴こえちゃいますよ」

ひばりは「スカイラーク」という。

英語ではskylarkと書く。「skylark」といって叫んだら、「ふざけるな」「バカ騒ぎする」という意味にもなる。レストランに「すかいらーく」という店がある。ほとんど行ったことはない。

日本語ではひばりのことを「雲雀」と書く。雲という字があるのは、雲間からその鳴き声が聞こえることから名づけられたようだ。これには「告天子(こくてんし)」という別名がある。

むかしの書物では「日晴(ひばり)」と書いた。こっちのほうがいい。