■東京・上野/「愚か者たちのタブロー」国立西洋美術館。――

方コレクションの 

 

マリー=ガブリエル・カペ「自画像」

 

明治43年11月発行の「白樺」は、特集は「ロダン」号だったという。ロダンが亡くなったとき、追悼号も出している。おそらく、そのとき「考える人」と訳されたのだろう。これには、高村光太郎が大きく関与していたのではないだろうか。

――その後もたびたび上野にいき、確認したことだが、同美術館の前庭左側に、このロダンの「考える人」が鎮座し、右側には「地獄の門」があったとおもわれる。

いま考えると、学生時代に入ったときは、「考える人」は、正面入口から入って、右側に建っていたようにおもう。「地獄の門」が正面に位置していたようにおもう。

国立西洋美術館には、フランスから返還された松方コレクションの「考える人」が収められたので、日本側は、ほっとしたに違いない。これとおなじものが、京都国立博物館にもあるらしい。ただし、京都のほうは、有料で、上野のほうは無料で開放している。

さて、藤山愛一郎氏が亡くなって久しい。

彼は大のルノワール・ファンだった。

1991年、川崎のデパートで開催されていた西洋美術展の会場から、ルノワールの「少女」が盗まれたという事件があった。個人所蔵していたのは、藤山愛一郎氏だった。もしも作品が無事にもどったら、国立西洋美術館に寄贈すると発表。

7月2日、東京八重洲口に停車していた小型トラックから、新聞紙に包まれた「少女」が発見された。

その翌日には約束どおり、国立西洋美術館に収められた。

しかし、このルノワールは、現在にいたるまで、一度も展示されたことがない。それもそのはず、じつは滝川太郎という、札付きの贋作者の作品だったことが分かったからだ。

「少女」は、縦20センチ、横18センチという小さな作品。藤山愛一郎氏宅の書斎に飾られていた。

のちに、これが贋作と判明するわけだが、それでも、藤山愛一郎氏は、当時、経済企画庁長官で、この絵を見て、疲れた気持ちを慰めていたという。

盗難時には、時価1000万円の値がついていたという。贋作ではあっても、作品が手元から離れてしまったことを残念がっていたという。――息子の藤山覚一郎氏のコメントである。

この事件で、いまだに分からないことがある。犯人は、どのようにしてデパートの会場から作品を盗み出し、そして、なぜ絵を返す気になったのだろうか? という点である。

そもそも、盗んでから50日ほどの間に、これは贋作だと、だれかに鑑定されたのだろうか? そのかわり、国立西洋美術館には、おなじルノワールの「帽子の女」(1891年、松方コレクション)が展示されている。こっちのほうは、大作だ。もっともルノワールらしい絵だ。

その後、その国立西洋美術館を世界遺産にしようという企画が持ち上がり、上野公園の一角に建つ近代建築の巨匠・建築家ル・コルビュジエが設計した美術館の建築作品をめぐって、これを世界の文化的遺産に登録をと、呼びかる運動が実り、文化遺産登録が実現した。

吉田茂

 

「カペの絵、見たことあるでしょう?」というと、

「ああ、自画像ね。あれはいい絵ですよ」と、彼はいう。

マリー=ガブリエル・カペの自画像だ。西洋絵画の本を見ていると、どれもたのしい。ゴッホもいいし、ピカソもいい。そんななか、マリー・ガブリエル・カペの絵を見る。これは自画像だ。本によれば、18世紀末、フランス革命前後の激動の時代を生きた画家マリー・ガブリエル・カペは、これまでの西洋美術史ではほとんど無名だったらしい。

そのころ、美術アカデミーの最初の閨秀画家のひとりとして名をはせていたラビーユ・ギャールのもとに弟子入りし、このときに描いた絵が、カペの「自画像」といわれている。このとき、カペは22歳だった。

ほんとうにきれいな女性だなあとおもう。

ずっと前から、この絵にはなんとなく見覚えがあった。これは、カペ自身の自画像だとは、ぼくはまったく知らなかった。このほかに、カペ自身が描いた「2人の弟子のいる自画像」(1785年)という作品もある。上野の国立西洋美術館にあるのは、「自画像」のほうである。カペの自画像が、なぜ国立西洋美術館にあるのだろう?

まだ黎明期にあった女流画家の作品は、パリの画商のもとにあったらしいけれど、ある日、国立西洋美術館員だった高橋明也氏が、パリでこの絵と出会う。絵は希望にあふれる、溌剌とした絵で、彼のこころをつよく惹きつけた。ぜひとも手に入れたい。値段も、ビッグネームの画家とは、くらべようもなく安い。

購入の話を持ちかけると、画廊店主は、この絵を個人的にかたわらに置いて、なかなか売ろうとしなかったそうだ。店主にとってこの1枚は、とても愛着のある絵だったらしい。自分のデスクのかたわらに置いて、売りしぶっていたという。

現在、国立西洋美術館で売られている絵葉書のなかで、このカペの自画像の人気は、断然トップクラスといわれている。

美術家としては、カペは、だれもが知るような存在にはならなかったけれど、そんな「彼女」の姿を見たくなり、パリから東京へと、わざわざやってくるオルセー美術館員がいるという話を読んだことがある。

もしも自分の書斎に、カペの絵があると、きっと癒されるだろうとおもう。

パリの画廊店主がずっと手元に置いていた気持ちがわかるような気がする。ビッグネームの絵とくらべると、かなり安いとはいうけれど、ぼくらが手に入れられる金額ではない。

カペの絵を見たくなったら、国立西洋美術館に行く。

この絵は、松方コレクションのリストにはないものだ。われわれは高橋明也氏に感謝しなくちゃならない。「そうですよね。カペの自画像の話が出てくるとは、おもわなかったなあ、……」と陽ちゃんはいった。

われわれは、ふたたびグラスゴーの話にもどって、グラスウィージャンの方言の話を聞いた。英語でふつう「ノルウェー人」や「ノルウェーの」といった形容詞を、Norwegianといったりする。それとおなじように、グラスゴーでは、グラスウィージャン (Glaswegian)といったことばが使われているという。

そこは移民が多く、かつては工業の街であった背景もあって、地元の人びとの英語方言は、スコットランド訛りのなかでも、特に難解とされているようだと陽ちゃんはいう。訛りが強いだけではなく、グラスウィージャンの方言そのものが使われているからだろうというのだ。

グラスゴーには、むかしからハイランド人とローランド人がいて、この民族は気質的にいって、まるで水と油だそうだ。だから芸術や文化が栄えたと陽ちゃんはいった。

「ははーん、そういうことですか?」と、ぼくはいった。

その後、草加のトムズ・コーヒーで、「週刊文春」の最近号を読み、お目当ての原田マハの「美しき愚かものたちのタブロー」という連載小説を読んだ。それを読みたくて店に入ったようなものだ。

先にもいったことだが、松方コレクションの話が書かれている。この連載小説はもう終わり、単行本として売りにだされたらしい。

ともかく日本は敗戦後、松方コレクションが、フランスから返還されたのである。――ただし条件は、専用の美術館を建てることだった。設計者として白羽の矢が立ったのは、巨匠建築家ル・コルビュジエ(1887年-1965年)だった。

だが、その完成までには、さまざまな困難が待ち受けていた。

鎌倉で療養中だった松方幸次郎(1866-1950年)が、パリに残したコレクションを惜しみつつ84歳で世を去ったのは昭和25年(1950年)のことだった。

松方幸次郎の遺志をくみ、弟の松方三郎や、娘婿の松方重治が奔走した甲斐もあって、昭和26年、サンフランシスコ平和会議に出席した吉田茂が、フランス全権のシューマン外相に返還を切り出すと、善処するという好感触を得た。松方幸次郎は米エール大学、仏ソルボンヌ大学を卒業。実業家、政治家、川崎造船所社長、衆議院議員、美術収集家である。

松方コレクションの中に、オランダ絵画があるのは嬉しいかぎりである。

オランダは絵画の国である。――水彩画を発展させたのも、オランダ人だった。オランダの水彩画を、15年ほどまえ、はじめて見た。水彩画には見えなかった。それにしても、17世紀にレンブラントとフェルメールを生み、19世紀にゴッホを生んだだけでも、この国は人類に大きく貢献したといえるだろう。

それに、静物画や人物画、風景画といった分野で力量を発揮したのもオランダ人だった。オランダの風景画の80パーセントは空が占める、と司馬遼太郎さんはいう。また、そういう専門家もいる。

 

 「風車」、ヤーコプ・ファン・ロイスダール、1670年、アムステルダム国立美術館

 

オランダの風は偏西風で、雲はたえず東へと動く。

それと北海の暖流がもたらす水蒸気は、雲の表情をさまざまに変え、画家たちの気分を刺激したらしい。われわれが、レンブラントがあらわれるまでの絵画と、あらわれてからの絵画とでは、どこか違うものを感じる。

それまで、ただの農家の食卓テーブルや、畑をたがやす鍬や馬車、何のへんてつもない田園風景が、まさか絵になるとおもった画家はいなかったらしい。

「17世紀のオランダの画家たちは、絵からそれまでの物語性を追い出した」という美術評論家もいる。それには理由がある。オランダには、その他ヨーロッパ絵画とはちょっと違う事情があったからだろう。その最たるものは、カトリックを否定したことだった。

この国は、画家にとって大きな注文主だったカトリックを否定したために、絵画とは無縁のプロテスタント社会のなかで生きなければならなくなった。聖画の仕事がないのである。それまでの画家の仕事の多くは、聖堂や教会の聖書物語の絵を描くことであり、さらには貴族の肖像画を描くことで生計を立ててきた。オランダには貴族はいないにひとしく、たとえいても、画家に肖像画を依頼するほどの財力を持っていなかった。

それでも、オランダには画家がたくさんいた。

まえにも書いたけれど、アムステルダムにはパンの職人が70人ほどいた時代に、画家は300人もいた。それほど多くの画家がどうして生まれたのだろう?

レンブラントの例でみてみると、彼は裕福な商人から肖像画をたのまれて、多くの肖像画を描いた。ヒマなときには、自分自身の肖像画や自分の家族を描き、銅版画ながら、乞食の絵まで描いている。

レンブラントの場合、風景も、聖書物語の背景じゃなく、まったく叙事性のない風景を描いている。――たとえば、銅版画の「シックスの橋」などは、運河にかかる粗末な木橋が主役で、なんの物語性もないと、司馬遼太郎さんはいっている。

ハルスという画家は、陽気な酒場や、ジプシー女を描いている。それでは、オランダは、なぜ繁栄したのか?

レンブラントに匹敵するフェルメールという画家は、キッチンのかたわらで、農婦が壷から牛乳をそそぐ絵を描いた。このような無名の女性の登場は、かつての聖画には見られなかったものである。17世紀のオランダは、激烈なほどの商人的な社会が成立し、絵画史においても濃厚に反映した。

彼らは漁船を繰り出してニシンを獲り、それをおなじ沿岸の人びとに売って生計を立てた。北海の荒海のなかで操業するオランダ漁船は、みじめなほど粗末なもので、マストは一本きりで、羅針盤もない。たよるべきものは、じぶん以外に何ひとつなかった。

オランダの本を読むと、かならずどの本にも書かれている共通したものがある。彼らは戦争で一度も勝ったことがないという歴史的な敗北感である。ひたすら忍耐づよく生き延びてきた。それならば、……

「17世紀、オランダは、なぜ繁栄したのか?」この質問に、スピノザはこう答えている。

「それは、自由があったからである」と。

彼らは、アメリカという新世界に入植して16年目に、大学をつくった。ボストン郊外にアメリカの最初の大学、ハーバード大学をつくった。

そして、ニューヨークという都市は、むかし、オランダ人の都市だった。彼らはその地をイギリスに譲り、イギリス人はここを「ニューアムステルダム」と命名した。のちにここがニューヨークとなった。その「York」は、イギリス国王ジェームズ2世(Duke of York)の俗名「ヨーク公」の名にちなんで名づけられた。

オランダ人は、その自由を大いに尊重したのである。

その後、オランダから譲り受けた17世紀後半、アメリカは「ニューヨーク」と呼んだ。フィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」の最終章には、「オランダの街」として、そのことを克明に書かれている。その文章は圧巻である。