■外国人から見たニッポン。――

近代ッポンのに立つ

 

――さて、話は変わるけれど、ぼくはいま、近代日本を主人公とするさまざまな時代のうねりの戸口に立って、西洋から怒涛(どとう)のように押し寄せてきた近代日本の渚を見つめている。好むと好まざるとにかかわらず、一方的に押し寄せてきた西洋人らの到来は、今回の東日本大震災の津波と変わるところがない。

日本の歴史は、その時代のページを、きょくたんに多く書かれた。

書かれたけれど、すべて日本側から見る歴史だった。明治期の高名なジャパノロジストだったチェンバレン(Basil Hall Chamberlain 1850-1935年)は、「あのころ――1750年から1850年ごろ――の社会は、なんと風変わりな、絵のような社会であったことか」と感嘆の声をあげている。

近代登山の開拓者であるウェストン(Walter Weston 1861-1940年)は、こうのべている。

「明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になるのは確かなことだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることはけっしてあるまい」(「知られざる日本を旅して」大正14年)と。

ぼくはこのふたりの著述に、大きな興味を持った。

ぼくは以前、「半裸で働く江戸庶民と《帝国日本》の実像」という文章を書いた。半裸ではたらく気風のいい庶民の矜持(きょうじ)は、外国人の冷たい視線を浴びて、もののみごとに打ち砕かれた。

そういう習俗が消えていったのである。まして、軒先で女が行水(ぎょうずい)するなどという習俗は、もってのほかとなり、外圧に屈して消えてしまった。

このように書かれる歴史は、日本側から見た歴史である。

しかし、どうだろうか、すべての外国人がそう思ったわけではなかった。

この話をつきつめていくうちに、ぼくはある本に出会った。渡辺京二氏の「逝きし世の面影」(平凡社ライブラリー、2005年)という本だった。この本の中身は、日本にやってきたあらゆる階層の、あらゆる国の人びとの証言をあつめており、いろいろな角度から、彼らの注目すべき意見を知ることができる。

ぼくは、はじめて触れる彼ら外国人の目を通して書かれたひとつひとつの意見を読み、あまりにもキリスト教的な道徳基準をおいて見ていることがわかった。

西洋流の性意識と、そのころのわが国の性意識が、ぜんぜん違うのは、あたりまえの話である。 「いくらか不真面目で、享楽的な民族」といわれても、あてはまるようでもあり、あてはまらないようでもある。外国人から見れば、「享楽的な民族」に見えてしまうらしい。

1856年(安政3年)8月、日本に着任したばかりのハリス(Townsend Haris 1804-1878年)は、下田近郊の柿崎を訪れ、つぎのような印象を持った。

「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は叮嚀(ていねい)である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔というものが、少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている」と日記には書かれている。

そうはいうものの、もちろんハリスは、この村がゆたかだといっているわけではない。それは貧しい。

にもかかわらず、不潔でないといっているのである。

ハリスは5マイルばかり散歩する。この田園は、たいへん美しい。

そして10月27日には10マイルほど歩いた。「日本人の忍耐強い勤労」とその成果にたいして、新たな讃嘆をおぼえた。

彼は下田の地に、有名に「日本誌」の著者ケンペル(Engelbert Kämpfer 1651-1716年)が記述しているような花園が見当たらないことに気づいた。その理由は、「住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精いっぱいで、装飾的なものに目をむける余裕がないからだ」と考えていた。

ところがこの記述のすぐあとに、注目に値する数行をつけ加えずにはおられなかった。

「……それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけ食べ、着物にも困ってはいない。それに家屋は清潔で、日当りもよくて気持ちがよい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」。

「私はこれまで、容貌に窮乏(きゅうぼう)をあらわしている人間を一人も見ていない。子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えているし、男女ともすこぶる肉づきがよい。彼らは十分に食べていないと想像することは、いささかもできない」

下田周辺の住民は、概して貧しい人びとである。

しかし、貧乏にはつきものの悲惨な兆候が、なにひとつ見えないというのである。きわめて満足すべき状態にあると、ハリスは思う。

プロシア商人のリュードルフ(Fr.Aug Luhdölf 生没年不詳)は、ハリスより1年早く下田に来ていた。

そのリュードルフもいっている。

「郊外の豊穣(ほうじょう)さは、あらゆる描写を超越している。山の上まで美事な稲田があり、海の際までことごとく耕作されている。おそらく日本は天恵を受けた国、地上のパラダイスであろう。人間がほしいというものが何でも、この幸せな国に集まっている」といっている。

カッテンディーケ(Willem Johan Correlis ridder Huijssen van Kattendike 1819-1866年)の証言も見過ごせない。カッテンディーケの名は、いたるところに出てくる。

彼はオランダ海軍の軍人で、政治家。幕府が開いた長崎海軍伝習所の教官として勝海舟などの幕臣に、航海術、砲術、測量術などを教えるために来日した。日本滞在時の回想録「長崎海軍伝習所の日々」(水田信利訳、「東洋文庫」、平凡社)を書いている。

彼は1859年、帰国にあたって、つぎのような感想をのべている。彼はすでに2年間長崎で過ごしていた。

「わたしは心の中でどうか今一度ここに来て、この美しい国を見る幸福にめぐりあいたいものだとひそかに希った。しかし同時にわたしはまた、日本はこれまで実に幸福に恵まれていたが、今後はどれほど多くの災難に出遭うかと思えば、恐ろしさに耐えなかったゆえに、心も自然に暗くなった」。

彼は自分がこの国にもたらそうとしている文明が、「日本古来のそれより一層高い」ものであることに確信をもっていた。

しかし、それが日本に「果たして一層多くの幸福をもたらすかどうか」という点では、まったく自信をもてなかったのである。

40歳のカッテンディーケのこのことばは、現在の日本人には重くのしかかる。

そして、オランダ海軍教育隊付の医師ポンぺ(Ponpe van Meerdervoort 1829-1908年)には、日本に対する開国の強要は、じゅうぶんに調和とのとれた政治が行なわれる国民も満足している国に割り込んで、「社会組織と国家組織との相互関係を一挙に打ちこわすような」行為に見えた。

ポンぺは、教育隊の帰国後も、1862年まで長崎に在留し、開国後の日本人の急激な変化と堕落を、その身で経験して嘆いた人である。

幕末に来日した西洋人をびっくりさせ、ひいては日本人の道徳的資質さえ疑わせる習俗に、公然たる裸体と混浴の習慣のあったことは、よく知られている。

日本には、西洋では特殊な場所でしか見られない女の裸が、日常的に目にすることが多く、そういう意味では「楽園」だったかもしれない。

このシーンは、外国人を少なからず驚かせ、彼らの本や手紙などに書かれることとなる。混浴は、ヨーロッパ人にはショッキングなものに思われるが、日本人の謙虚さと礼儀正しさとは完全に両立すると書かれている。

幕末の外国人をおどろかせたのは、春画、春本の横行である。日本人の裸体への禁忌の欠如を同情的に理解しようとつとめたのだが、それを「楽園の無邪気さ」と見なす見解には同意できないものを感じた。

トロイ遺跡の発掘で名高いシュリーマン(Heinrich Schliemann 1822-1890年)が、ひと月ばかり横浜、江戸に滞在したが、そのとき、「あらゆる年齢の女たちが淫らな絵を見て大いに楽しんでいる」と記している。

「猥褻な絵本や版画はありふれている。若い女が当然のことのように、また何の嫌悪すべきこともないかのように、そういったものを買い求めるのは、ごくふつうの出来ごとである」と書かれている。

日本人は、下世話な性的リアリストだった。

性は男女の和合を保証するよきもの、ほがらかなもの、恥じるにおよばないものだった。

男女の営みは、この世でいちばんの楽しみだったとも書かれている。

ペリー艦隊に通訳として同行したウィリアムズという男が、1854年(安政元年)に下田での見聞で、「私が見聞した異教徒諸国のなかで、この国が一番みだらかと思われた。体験したところから判断すると、慎しみを知らないといっても過言ではない。婦人たちは胸を隠そうともしないし、歩くたびに太腿まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き、その着衣を別に気にもとめていない。裸体の姿は男女共に街頭で見られ、世間体なぞおかまいなしに、等しく混浴の銭湯へ通っている。みだらな身ぶりとか、春画とか、猥談などは、庶民の下劣な行為や想念の表現としてここでは日常茶飯事であり、胸を悪くさせるほど度を超している」

というのである。

そして、風呂の湯加減が、きょくたんに熱く、西洋人をびっくりさせている。

みんな、ぐらぐら人が煮られているかのような光景だったとも書かれており、風呂好きのドイツ人リュードルフは、「日本のような男女両性が、これほど卑猥な方法で一緒に生活する国は、世界中どこにもない」と書いている。

女性が髪を洗うときも、お化粧をするときも、上半身は裸で、乳房も見せていると書かれ、通りすがりの家の中で、通りから人に見られても、一向に気にしているようすがない。

そういうなかで、ロシア艦隊に勤務していたティリーは、日本人の「礼節」ということばの定義は、いったい何だろうと考えた。

いろいろ考えた結果、日本人には、裸はとくにみだらという意識はない。風呂場で「主婦は、サン助に体を洗ってもらうが、その際、彼女たちは海水パンツをはているわけでもなく、バスローブを身にまとっているわけでもない」ことに、道徳的な疑念を抱かずにいられなかった。

その疑念の最大のものは、「教育があり上品でもある」日本人に、どうしてこういう羞恥心が欠如しているのだろうか、ということだった。

これに対して、リンダウは、日本人を弁護して、こういっている。

「風俗の退廃と羞恥心の欠如との間には大きな違いがある」と。

子供は恥じを知らない。けれども恥知らずではない。自分の祖国において、自分がそのなかで育てられた社会的約束を何ひとつ犯していない個人を、恥知らず呼ばわりすべきではないだろう。風呂に入ることを、はずかしい行為をしているとは思わないのである、と弁護している。

このリンドウ(Rudolf indau 1829-19010年)は、スイス通商調査団の団長として、1859年(安政6年)に初来日し、64年にはスイスの駐日領事をつとめたプロシア人である。「日本人ほど、愉快になりやすい人種はほとんどあるまい」とものべている。

このような証言が、全14章にわたって述べられているのが、渡辺京二氏の「逝きし世の面影」という本である。

その第8章は「裸体と性」について書かれたページだが、先にものべたように、男女の裸についても、日本人は格別な関心はなく、だれでもごくふつうに、子供たちとともに混浴し合っている。外からもマル見えの庭先で、行水をしていても平気である。

人に見られて恥ずかしいという観念がないのである。この日本の文化を大いに誤解した外国人の多いことが、特筆される。