125年まえの北海道開拓時代の話
なにかしら過去を振り返るとき、どうも現代人は、現在時制でものごとを考えてしまうようだ。過去への記憶の連鎖が、いま反復と再生をくりかえすのだが、ふしぎなことに、イメージだけはどんどん遠ざかる。
田中幸光 30代のころ
庭先に転がっている重い大きな石のてっぺんに、だれかが苦労して刳(く)りぬいたシンク状の穴があって、雨が降るたびにそこが海のように満ちる。ときどき木の葉が散って、ぷかぷか浮かんでいたりする。
夜が明け染めるころ、小鳥がやってきて、水を飲んでいたかもしれない。ぼくはふと、「先祖返り(atavism)」ということばをおもい出す。
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田中源次郎というじいさんが、北海道北竜村の恵岱別(えたいべつ)に居をかまえたときのことをおもい出し、父には受け継がれなかったじいさんの形質が、孫のぼくの眉毛に憎々しくあらわれてきた。
60歳をこえるころ、きょくたんにあらわれてきた。
ぼくはおもう。時はつながっているのだと。それは因果的で、ときどき断絶し、非連続性の記憶の欠片(かけら)みたいだが、あらわれるときは突然にあらわれる。
森鴎外は「青年」に書いている。「夜の思想から見ると昼の思想から見るとで同一の事相が別様の面目を呈して來る」と。そのとおりだとおもった。いまからむかしを振り返ることは容易だが、映画のスクリーンを見るようにして振り返ることはできない。現実や真実が抜け落ちるからである。
まして、当人にとっては、腹立たしい過去でもあり、悔恨(かいこん)に満ちた過去でもあるからだ。
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明治26年5月17日が、北海道に根をおろした記念の日となった。
そのころ、源次郎じいさん一家は、田畑を開墾(かいこん)し、じゃがいもとトーモロコシを食べていた。ときにはカラス麦をドーナツパンにして食べたりしていた。
四国の高松にいた若いころは、じゃがいも栽培が成功し、じゃがいもの育成にはみんなは目を見張ったものだった。品種改良にも精を出した。その体験が北海道の人跡未踏の農場に受け継がれた。
北海道の農家でも、そのころ白米はよほどのことがないかぎり、食べられなかった。病気をした者だけが小粥(おかゆ)にして食べていた。
27歳の吉植庄一郎が団長として千葉県・埜原村(やはらむら)から北海道にやってきたころも、食べるものは、じゃがいもばかりだった。運がよければ、トーモロコシにありつけた。
米づくりをおこなう農業経営は、全員が、明治29年に設立された合資会社培本社に所属し、生活は給料によってまかなわれた。
会社では、クラーク博士の率いる札幌農学校の校訓をまもり、社員家族は、酒もたばこも禁じられた。
会社組織にした理由は、全員がこころをひとつにして、出資することが義務づけられ、金のある者は金で出資し、金のない者は労働出資し、労働を投資して見返りを得るという、人びとのインセンティブの高い組織をつくって、毎月、給料を支給した。
このような北海道入植者は、北竜村の人びとをのぞいて、どこにもなかった。わずかに、東北の南部藩がサムライの地位を捨てて、大挙して北海道に創設した伊達市(だてし)の砂糖工場村が先行していた。吉植庄一郎は、行政の援護に頼らない伊達市の取り組みを大いに参考にしていた。
彼らの星雲の志の高さがしのばれる。
まず、北海道から払い下げを受けた50万坪の土地は、培本社の資産として発足したのである。
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田中源次郎。写真がないので描いてみた
その「総則」の第1条には、「本社は培本社と称し同志の社員により成立す」と書かれ、第2条は、「本社は北海道石狩国雨竜郡雨竜村貸下地五十萬坪を開墾し混同農業を経営するを以て目的とす。但し総会の決議を以て補助業として商店又は工場を設けることあるべし」と書かれ、第6条は、「本社資本金は金一萬円とし社員に於て金員又は労力を以て分担出資するものとす」と書かれていた。
社則はきびしいものだったが、発足まもないころ、札幌農学校から人が視察に訪れた。視察におとずれた人びとは、恵岱別川を渡る橋がなく、渡し場にはそまつな独木舟があるのみで、農民が舟をあやつって彼らを渡した。
作業は、事業計画にそっておこなわれ、週6日働き、日曜日は休んだ。農地の開拓はしばらくはオランダ農法がメインだったが、しばらくして、アメリカ農法が入ってきて、北海道の北の国は、米開拓時代の文化をそろえることができた。ホヤ付きランプはアメリカから入ってきた。トタンはオランダから入った。
社長の吉植庄一郎は、若い社員、家族の教育を重視し、毎日1時間の割で、講話をおこなった。
一日の作業がおわると、夕食を全員でとり、「反省の時間」をもうけた。
開墾がすすみ、事業計画どおりにすすむと、功労のあった者には、事業年度末には褒賞をおこなった。
ラテン語の諺に、「勤勉なる農夫は、その果実を見ることのない木を植える」というのがある。彼らは、文字通りの、強風が吹く川岸には防風林を植え、家の周囲にはりんごの木を植えた。
大きな実りをもたらすのは、つぎの時代を築く若い者たちだけである。
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第一次入植者たちは、人跡未踏の原生林のなかで、まず道をつくり、川には橋をかけ、家を建て、村づくりのインフラ事業からはじめなければならなかった。まず道をつくることで、モノ、金、人、情報が迅速にすすむことを最優先にした。
それは、想像を絶するほどの開拓農民の苦労である。農民らが手にする武器は、最初は馬、のこぎり、斧、スコップの類だけだった。それが彼らの農具のすべてであった。
さらには、用水路や集会所、学校、医院、鉄道にいたるまで、将来のグランドデザインがおこなわれ、培本社の事業は、文字通りの村づくりの長短期のインフラ事業の必要性に直面した。
そのころは、まだアメリカ農法や、オランダ土木、農具は入ってきたばかりで、札幌農学校の指導が待たれた。馬は2頭引き。
千葉県からやってきた人びとは、馬を見るのもはじめてだった。
アメリカから田畑を耕すプラオが入ってきたのは、ずっとのちのことだった。目指すは50万坪である。気後れするほど壮大な事業だった。
雨も降れば雪も降る。
北海道の冬をどうやって乗り越えるか。千葉の埜原村(やはらむら)からやってきた人びとにとっては、すべてが初体験だった。家畜らを育てるのも、子どもたちを育てるのも、難儀の連続だったろう。
――みんなは、《埜原》と書いて「やわら」と発音していた。だから、北海道に根を下ろしたとき「和(やわら)」と命名されたのは当然だった。みんなで、北海道に第二のふるさとを創設したのである。
北海道史が語る植民政策は、さまざまな失敗や、やりなおしがおこなわれ、開拓行政は、ときに頓挫の連続だった。クラーク博士は北海道開拓のプランナーでもあった。マサチューセッツのアマースト農業大学の学長をしていたころ、彼は西部開拓を例にとった北海道開拓を研究していた。
だが、民間人は、農兵である屯田兵のようにはいかなかった。
それでも、北竜村の人びとは、自費自賄の志があり、他の移民たちとちがって、特別の行政支援を受けることなく果敢に事業に立ち向かった。そのころの農耕馬は道産子である。
まず馬をあつかったことのない者ばかりだったので、プラオをつけて3頭引きの馬を御する技術から学んだ。そしてカルテペーターと称する種まき機をアメリカから導入した。といっても、水田ではなく、陸稲栽培だった。
イネの熱帯ジャポニカ系の限界線は、本州の北端、青森までとされていた。中国では7000年前に河姆渡(かぼと)遺跡まで到達していたが、北海道は緯度がもっと高く、寒かった。
だが、吉植庄一郎の考えのなかには、北海道をわが国の穀倉地帯にして、国の自給力をつけるための先鞭にしたいという強い志があった。
だから、のちに、さまざまな農機具も積極的に取り入れ、オランダ農法だけでなく、アメリカ農法も取り入れると、パワー・マシンの威力で開墾(かいこん)をいっきょにすすめた。
アメリカ渡来の農具は、すべて英語発音で名付けられた。
じゃがいもは、「五升芋(ごしょいも)」といわれ、1株で5升も獲れるようになった。
これのは、田中源次郎じいさんの功績である。
小豆は肥沃な土地柄を証明するほど豊作になり、とくに菜っ葉類、豆類はよくできた。やがて稲、黍(きび)、麦類はゴールドの穂をなびかせ、亜麻の実もよく成長した。
作物が想像以上にとれ、できすぎを抑えるため、過リン酸石灰をまいて、出荷調整をおこなうほどになった。ほとんど無肥料栽培がつづいたと、資料には書かれている。
ほとんど無肥料栽培がつづいたと、資料には書かれている。
それにしても、こんなことがずっとつづくはずはないと、吉植庄一郎はひとり考えていた。
吉植庄一郎社長は、近い将来を憂慮し、石灰を必要とするときがやってくると考えた。だれもがそうおもった。
そして社長は、この機にのぞみ、変に応じて南米のチリに、「チリ硝石」をもとめる交渉をすすめた。彼は国をあてにせず、直輸入を考えていた。明治30年代だとおもわれる。
このころは、まだ稲作は本格的ではなかった。水田形式ではなく、まだ陸稲の段階である。
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イネの栽培をもくろむために、札幌農学校の研究者を呼んで、いっしょに研究をすすめたこともあった。稲作に成功するまでは、米は本州からの移入に頼っていた。
北海道の農家の納屋が、オランダ流のダッチコロニー風の大きな納屋があちこちにできた。日本の従来からある軸組工法では工期がかかりすぎるので、みんなは、オランダの納屋を建てた。
それ以来、北海道の田園の風景がすっかり変わった。これには柱がなく、全体を壁で支えるので、北米のツーバイフォー工法(別名、プラットホーム工法)と似ていた。
屯田兵は国から給料が支給されていて、米は自由に食べられたが、開拓農民の口には入らなかった。というより、米はクスリなみに高価な主食だった。
彼らの食事は、朝は麦、トーモロコシ、小豆混合食、みそ汁。昼はおなじ。夕食は、じゃがいもと、くず米・黍の混合の小粥、それに野菜の塩煮だった。しょう油、砂糖はあるにはあったが、高価で、めったに使わなかった使えなかった。
ときには川ざかなを焼いて食べていたが、それは特別の日で、赤ん坊が生まれたときなど、祝いの膳として出された。
当時の生活を描いた加藤愛夫の小説「開拓」のなかに描写されている食卓は、このようなものだった。それには、ぼたもちの話も出ていくる。
「お砂糖なのよ、これで明日、ぼたもちをつくることになったの」という会話がある。
とうじの砂糖は、「玉砂糖」といって、土くれのように黒い玉状になったやつだ。ぼくもこの玉砂糖を食べたことがある。キッチンに砂糖箱が置かれ、きびしく管理されていた。
それまで、こっそり玉砂糖を食べる者がいて、係りの女性が箱をのぞいたときは、空っぽになっていた。吉植社長に報告すると、
「これからは、あなたが管理をしなさい」という。
砂糖など、口に入れたことのない者たちには、とびきりの嗜好品になったらしいようだ。
そのころ、会社では暖房は薪ストーブを使っていたが、一般家庭にはまだなかった。玄関の入口に、大きな炉がしつらえられ、割った薪(まき)を焚(た)いて暖をとった。料理の炉釜をかねていた。
夏を迎えるころになると、ふきのとうなど、山菜が豊富にとれた。大きな釜で炊くと、豚やニワトリの餌にもなった。
ストーブが本格的にお目見えしたのは、ようやく大正時代になってからだった。とうぜん電気などない。
灯油をもやすホヤつきランプがほとんどだった。これも、アメリカから輸入したもので、ガラスやストーブが入ってくると、家にはガラス窓が入り、屋根にはオランダから輸入されたトタンで葺(ふ)かれた。北海道に瓦職人がいなかったので、多くの屋根はトタンで葺かれた。
着るものは、毛織物などはまったくなかった。
みんな木綿の着物で、シャツも木綿のネル製のものは農民には上等すぎた。メリヤスもなければ、洋服など論外だった。
子供たちは、小学生ならツマゴと呼ばれるわら靴を履き、防寒靴と呼ばれたラシャの靴は、ようやっと大正時代になってから履かれるようになった。
寒いときは、みんな赤いゲットーを肩から羽織り、マントがわりにした。女性はカクマキを羽織った。
冬の移動には馬そりを使った。
吉植社長はそのころ、滝川から旭川にいたる運送業の経営に乗りだし、培本社の事業として、冬場、農閑期経営の多角化をおしすすめ、事業収益の拡大をはかった。まだ鉄道がなかったので、運送業が軌道にのると、農産物を輸送することもでき、市場へのデリバリーは一段とすすんだ。
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明治32年を皮切りに、寺小屋での学校ではなく、本格的な小学校がつくられ、真竜小学校、碧水小学校、美葉牛教育所、恵岱別の公立教育所、竜西の私立教育所などが開設された。明治43年ごろにはいずれも公立の認可を受けた。
明治24年にヨーロッパ留学から帰朝した伯爵平田東助、子爵品川弥次郎らによって、産業組合組織の必要性を認識し、明治30年に産業組合法が成立すると、北海道における産業組合の創設が説かれた。
板谷農場産業組合を皮切りに、北竜村の農業組合が実現にむけて大きくスタートした。創設に尽力したのは北正清だった。
そのころは、村の272戸の農家をもって創設されたのを機に、どんどんつくられていった。
北海道の農業経営は、このように多難のスタートを切ったが、吉植庄一郎の描いた「和(埜原やはら=やわら)」構想は、実りある世界を実現したのである。
――21世紀に入り、すでにこの物語から125年を過ぎだが、1世紀100年という単位は、最も自然でかつ具体的な単位であり、北海道人の開拓精神を培ったのは、最初にタネを蒔いた蒔(ま)いた、このような人びとであったのである。