■28歳の青年との対話。――

洲次郎のいう「主主義」について

 

ジョン・ロック

白洲次郎

 

 

さいきん小関隆氏の近著「イギリス1960年代」(中公新書、2021年)という本を読んでいて、ああ、あの時代は懐かしいなとおもった。それは、文字通りイギリス現代政治の軌跡を書いたもので、60年代はすでに往時茫々。ひさしぶりに、その時代の指導者たちの現代史に触れ、個人的にはひどく感傷めいたものをおぼえた次第である。

60年代の半ば、ぼくはじぶんの大学の学業をそっちのけにして、叔母からの多額の援助を受けて、何も知らないロンドンの地を訪れた。

ウインストン・チャーチル、アントニー・イーデン、ハロルド・マックミラン、アレック・ダグラス=ヒューム、ハロルド・ウィルソン、そして少し飛んで、マーガレット・サッチャー、ジョン・メージャー、トニー・ブレアとつづく時代、近代政治のお手本となったイギリス政治から何を学ぶかを考えさせられた。

「田中、おもえには政治の話なんか、興味ないだろう?」と、じぶんをよく知らないみんなはいう。興味はないが、ブレア首相は、もともとは長髪をなびかせたハードロックバンドのボーカリストとしても活動し、ピッカピカのボーカルを歌っていて男だったが、どういう風の吹き回しか、紺のスーツに深紅のネクタイを締め、政治家になったのである。

いっぽうジョン・メージャー首相は、バスの車掌になることを夢見ていた青年だったが、面接会場に行くと、「おまえは、背が高すぎる」といって不採用になった。彼は16歳で学校を退学した、大学も出ていないサーカス芸人の息子だった。それが、マーガレット・サッチャーのあとを継いで、堂々便々たる英国首相になったのである。47歳だった。

そのころのロンドンは、「怒れる若者たち(アングリ・ヤングメン)」の時代だった。開戦50周年の前後を見ると、エスタブリッシュメントへの敬譲が急速に失われた。チャーチルの死は、「ロバに率いられたライオン」と揶揄された。

戦後15年ほどたった《昭和》という時代は、イギリスも日本も、文字通りの「豊かさの到来」とはいえなかったが、明らかに若者たちの時代だった。

大人の年齢になっても、じぶんたちの考え方はおろか、行動の仕方さえ変えない世代が史上はじめて姿を現した。「親のようにはなりたくない!」という世代だ。「偉くなるなんて、つまらない!」とおもってしまう世代でもある。戦後のベビーブーマー世代がそうだった。

上田五千石の句。「万緑や死は一弾を以て足る」――去年の夏、なんという句だろうかとおもった。見渡す限り緑色になり、風景そのものが生命を帯びて横溢しているという。

「そのうちに、神に楯突く考えがあらわれたんでしょうか?」

「それは知りませんが、少なくとも、J・S・ミルがあらわれると、人間の尊厳ということがいわれるようになった。快楽の量よりも、質を重視して、人間の尊厳(sense of dignity)に見合うだけの快楽を追い求めた。彼は《満足した豚よりも、不満足な人間になる方がよい。満足した愚か者よりも、不満足なソクラテスになる方がよい》といった。

いつだったか、東京大学総長の大河内一男は、卒業式で《肥った豚になるより、痩せたソクラテスになれ》といった」

「ジョン・スチュワート・ミルですね?」

「ミルの《自由論》、読みましたか?」

「いえ、まだ読んでいません。読みたいです」

「これは読んでおくといい本ですよ。……先日、福田恒存の《1匹と99匹と》の話をしましたね?」

「お聞きしました」

「ミルもおなじことをその本でいっています。ひとりをのぞいて、みんな同意見だとしても、人類全体がそのひとりを沈黙させることが正当視されないのは、ひとりが権力を独占しているとしても、人類全体を沈黙させることが正当視されないのとおなじです」

「そうですか」

「公平を取り扱う機会は、多様な意見の自由な表明のなかに見出すことができる。ミルはそういっていますね。彼のいう自由は、そのひとりにまでおよぶんです、わかりますか?」

そういう意味では、彼の「自由論」と同様に、J・S・ミルの「ミル自伝」はすぐれているとおもう。

彼は、自由度において、快楽の大小に換算できると主張したベンサムの快楽主義を否定した。J・S・ミルは、45歳のときにある未亡人と結婚したが、その7年後に、妻を病いで失った。

これらの論文の多くは、妻を失ったのちに書かれている。

「ミル自伝」には、こう書かれている。

「結婚以来、7年半にわたって、至福はわたしのものであった。わずか7年半。その損失がいかばかりであったか、またいまもあるが、わたしはそれをほんのわずかでも伝えることばを知らない。けれども、わたしはそれが彼女の望みであったろうと知ると、わたしに残された余生を最大限に活用し、萎えた余力ながらも、彼女のことをおもい、追憶の彼女と交わることでそれを補いつつ、彼女の遺志のために働きつづけたいとおもう」

さいきん明治外交史を読んでいて、自分は自分らしくなり、国家は国家らしくなりたいという欲求が芽生ばえたという歴史的な足跡を見ることができる。以前もすこし書いたことのある「国語は国家なり」のつづきだが、また別の見方もあり、きょうはその話をしてみたい。

白洲次郎と英国、――その話である。

白洲次郎のすばらしいところは、英国の歴史をちゃんと勉強しているところだろう。これまでの英国史といえば、だいたいが王室を中心とした英国史だったように思う。白洲次郎は独自の英国史を勉強していたようだ。

イギリスの歴史がイギリス人の手によって書かれたのは、デヴィッド・ヒューム(David Hume、1711年-1776年)の「英国通史(The History of England 全6巻 1754-1762年に刊行)」がはじめてといわれている。それまで、ちゃんとした英国史はなかった。

ヒュームは、大学教授にもなれなかった哲学者だが、その「英国通史」で、フランス革命を予言している。それで名を上げたような学者である。

その本のなかで、「理性こそ、あてにならないものはない。政治的自由を体験しない者たちが、頭の中でこうすればいい政治ができるというプログラムを書いたことから、しばしば革命が起こる」といっている。

「理性こそ、あてにならないものはない」。ヒュームは、人間の理性を信用しなかった。

「われわれが持っている自由をひとつでも具体的に実現する。これが政治である」といっている。「自由」ということばをたびたび使っている。政権が失脚しても、財産を没収されない自由、首が飛ばない自由、私有権を法のもとで認め、「つくる法律」ではなく、「発見する法律」を目指したといった。「悪い合法」を発見し、これを見直し、改定をする。正義の基盤は、つねに「発見」であると唱えた。

イギリス議会は、王の横暴な権力行使を、行過ぎないように思量するための機関であるという意識が強く、「議会」は、王の見張り役のようなはたらきをしている。それが、いつの間にか立場が逆転し、議会が税法を決め、戦争を議決し、悪の合法を生んできた。

あのナチスにしても、議会による合法の上に成立したユダヤ人狩りである。

議会は、つねに国民の総意を代表し、そのときどきのやり方で、戦争を起こしたりする。王の勇み足を食い止める役割をもつ議会であったのだが、議会が先導して悪の合法へと突き進んだ。――それが人間の理性の姿であるとヒュームは考えたのである。

「法律で国民や王を縛るのではなく、法律で国益にかなった新たな開拓をするのだ」といっている。

そのころから、イギリスには「ジェントリー社会」というものが誕生し、カントリー・ジェントルマンの組織ができあがった。

ジェントリー社会は、カントリー・ジェントルマンで組織され、世襲の爵位をもつ少数の貴族と、身分の上では庶民でありながら大地主たちを中心にした社会でなりたち、経済活動の活発化するにともなって興隆した中流階級を取り込む形で支配体制の温存を図った政治層、その最高位を「ジェントルマン(Gentleman)」と呼ばれ、ウインストン・チャーチルが、政治家としてはじめて最高の位であるジェントルマンに就いた。

議会の勇み足を矯正するのがイギリスのジェントルマンで、その考えは、ふるくからあった「常識で考えよう」という「コモン・センス」の「コモン・ロー」なるものの出現である。

白洲次郎のことばでいえば、「プリンシプル」。――そういう文脈で考えると、白洲次郎の考えは、このイギリス仕立てのジェントルマンの「常識」を身に纏った人、といえるかもしれない。

白洲次郎という男の大きさが分かっておもしろいと思う。

だから、白洲次郎は、野にあっても、いつでも必要なときに政治の舞台に登場する覚悟ができていた。カントリー・ジェントルマンならではの行動であろう。

さて、昭和27年、日本がサンフランシスコ講和条約を締結するとき、白洲次郎は吉田茂首相と同行する。そして国連において演説をするのだが、当初英語で演説する予定だったが、これを知った白洲次郎は、「日本国の総理大臣が演説するのであるから、自国の言葉で演説しなければならない」とたしなめたため、首相は彼の意見を取り入れて、日本語で演説した。

これなどは、最も白洲次郎らしい考えであり、700年前のイギリスを想起される出来事である。

700年前、イギリスではフランス語が公用語だった。

その話は以前にも書いた。議会はもとより、王室、裁判所その他、公式文書、演説はすべてフランス語で行なわれた。それが300年もつづいたのである。このときは、イングランドはフランス領だったために、公用語として英語は使えなかった。

300年後、彼らはそれを克服し、領土が戻ってから、英国人はイギリス語を使うようになったが、「国語は国家なり」ということを強く意識しはじめたときである。英語はヨーロッパ大陸から見れば、偏狭の地のことばであり、野蛮で、それが彼らの劣等感のかたまりだった。

それから、イギリスは大陸のラテン語で書かれた聖書を英訳し、「英語」の充実をはかるようになった。18世紀まで、イギリス語は満足なものではなく、多くは大陸のことばを借用してきた。

そういうことを知る白洲次郎であれば、国語というものにたいへん神経を使い、「日本語」を誇る民族であることを強く首相に進言したものと思われる。その英国を知悉している白洲次郎は、国家を代表する一国の総理大臣が、他国のことばを使うことは、ゆるせないと思ったようだ。

そう考えると、白洲次郎の一面があらわれていて、おもしろいと思う。国語にいちばん劣等意識を持っていた国民は、イギリス人であったということ。――日本では平安初期、日本語はまだ使われていなかった。およそ140年間、すべて公式文書は漢文という時代があった。そのかわり大和ことばが消えた。あの「万葉集」でさえ、「万葉仮名」という、じつは漢字だらけの文章で漢文のように書かれた。

そこで、白洲次郎のいう「民主主義」について、もう一度あらためて考えてみたいとおもう。つらつら「民主主義って、何だろう?」とおもうことがある。白洲次郎はいう。近衛氏に対して、

「民意はときに凶暴をあらわします。……近衛さん、あなたが戦争反対者の立場をとることは、あなたの自由です。平和主義もけっこう、民主主義もけっこう。しかし、国民は軍部の台頭に恐れています。戦争には反対しないが、わが国の軍部を恐れています。国民は何をするか分からない。わたしはそれをいうのです。おのが主張は、国民に対してもっと明確にすべきです」

という場面があった。このことばの裏には、

「民意って、何をするか分からない。民主主義って、何をするか分からない」という、白洲にとっては永遠の、先の見えない謎めいた命題があったのではないだろうか。ポピュリズムの真の姿である。アメリカのトランプ元大統領に代表される政治思想にもあらわれ、イギリスの民主主義は、だいたい3つの層に積み重ねられた民主主義だったようにおもう。

 

 ①王権、

 ②議会、

 ③ジェントリー。

 

――イギリスでいわれる民主主義は、議会制民主主義のことをいい、民意は、ほんとうの民意ではなかった。税金を多く納めた人間が議会に選ばれ、税金の少ない大多数の人びとの民意はどこにも諮られる機会がなかった。二院内閣制による議会制民主主義は、てっとり早い政治システムをつくったけれども、国民の大多数の人びとの考えは、何ひとつ議会に諮(はか)られることなく重大な事態へと導かれた。

欧米の政治的理論には、理論としての出発点がある。

欧米の近代社会を構築する際の「理論の出発点」としたものの多くは、われわれ日本人には分かりにくいものだ。分かるわけがない。その筆頭にくるのが「自由」だからだ。いま、その自由を否定する人は、世の中では少数派だろう。

しかし、この「自由」は、どう控えめに見ても、積極的に賞賛すべきものではないと、ぼくにはおもわれる。戦後は事あるごとに「自由」が強調されてきた。憲法、教育基本法をはじめ、さまざまな法律にも基本的な人間の権利としての「自由」がうたわれた。

それをわが国では「人権」といっているわけだが、この「自由」という名の化け物みたいなもののおかけで、日本古来の道徳、日本人が長い年月にわたって培ってきた伝統が傷つけられてきた。

「自由」というのは、欧米がつくり上げたフィクションである、そうおもわれてならない。もともと「自由」なんてなかった国から、もともと「自由」のあったわが国に持ち込まれた思想なのだから。

近代国家としての「自由」は、あくまでも権力に対して用いられる自由でじゅうぶん。イギリスでいわれる「自由」は、強力な王権に対していわれる「自由」だったし、権力に対する自由は、イギリス人ならばだれでも強く持っている。王権によっていためつけられてきた歴史が長かったからである。

議会制を生んだというのも、王権に対してものをいう議決機関として生まれた。嫌なやつをぶん殴ったりする自由や、立ちしょうべんをする自由、愛人と夢のような暮らしをする自由、……、そういう自由は制限されていいのだという考えが、イギリスにはあった。潔(いさぎよ)い節操。

17世紀のイギリスの思想家トマス・ホッブス(観念論者)は、この自由を「自然権」と名づけ、万人に自由を与えたならば、万人の万人に対する闘争がはじまり、無秩序と野蛮と混沌の世界になると警告した。

国家とは、人民が自由を放棄した状態をいうのだといった。

つぎにあらわれたジョン・ロックは、「他人の自由な権利を侵害しない限りの自由」が必要であるといい、「自己生存にかかわる(勝手な)自由」は制限された。

民主主義の根幹は、いうまでもなく主権在民、国民主権である。ロックが祖としても、最初に民主主義を実践した国はアメリカではないだろうか。

主権在民。――しかし、これはほんとうにすばらしいことなんだろうか? これには、「国民が成熟した判断を下す」という無言の信頼を寄せた理屈である。つねに国民の考えが「成熟している」ことを前提にした考えである。しかし、国民はつねにそうだったとはいえない。

なぜなら、――

第一次世界大戦はなぜ起きたのだろうか。

オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子だったフェルディナンドがサラエボで、セルビア人によって暗殺された。これに大衆が熱狂し、ブダペストでは「セルビアの豚に死を」と叫ばれ、ウィーンでは新聞が「強盗と人殺しのセルビア」と書きたてた。セルビア政府のいかなる関与もなかったのに。

こうした世論は政府を動かし、セルビア政府に宣戦布告をした。ところがこの事態でロシアが怒り、それに対してドイツが怒り、つぎにフランスが怒り、イギリスも怒りだして世界規模の大戦となったわけである。これが民主主義、国民主権の真の姿なのだ。

――そうわけで、民主国家があのヒトラーを生んだのである。ヒトラーひとりが悪者のようにいわれるが、ヒトラーはもっとも民主的に戦争を企画した人物である。ドイツの国民はつねにヒトラーを支持し、1938年にオーストリアを併合したときの内閣支持率は99パーセントまで高まった。これが民意である。ヒトラーが独走したというよりも、国民をうまく煽動して、圧倒的支持を得て行動した結果である。

さて、白洲次郎がいう「成熟した」国民なんて、世界のどこにもないのだということをもう一度、ここで考えてみたい。白洲次郎のいう、「民主主義もけっこう、平和主義もけっこう、……」というとき、その「理論の出発点」にもういちど立ち返ってみれば、どちらも危険だという理屈になる。――そういう白洲次郎の立場で戦後を見ると、ほんとうに白洲次郎のいいたかった考えは、まだ実現されていないようだ。

第二次世界大戦で、日本が敗れるだろうということは、彼はとうに知っていただろうとおもう。軍部は民意を押しつぶし、政府を牛耳って戦争へと一直線に駆り立てた。そして日本は破れ、GHQの占領下で白洲次郎は国家再建に加担していくわけだが、このとき、米国の大衆は、どういう考えを持っていただろうか。

「日本という国は存在するかぎり悪を成すので、国家を壊滅し、民族を奴隷にすべし」という意見が国民の3分の1が支持していた。しかし、米政府のエリートたちは、このような国民的ヒステリーを抑え込んだのである。――これが、イギリスで生まれたジェントリー意識のあらわれである。真のエリートたちだ。

アメリカ政府のしたことは、「日本がふたたび立ち上がって、アメリカに刃向かわないような国にする」ことだった。ソ連の台頭とあわせて、日本列島を東アジアの橋頭堡にしようと考えた。

そこでGHQがまず最初にやったことは、へたにエリートをつくると、底力のある国民はふたたび強力な国家をつくってしまう。そこで、エリートを潰すことを考え、真っ先に旧制中学、旧制高校を潰してしまったのである。

これは、明らかに「ハーグ条約」に違反した行為である。「占領者は、現地の制度や法令を変えてはならない」というハーグ条約である。それにもかかわらず、マッカーサーは「憲法を変えろ!」と命じた。

これについて白洲次郎は、ハーグ条約違反(ハーグ条約第43条:占領軍は現地の制度や法令を変えてはならない)を訴えるが、聞き入れられず、時の総理大臣吉田茂に説得されて、日本国再建に加担する政治の渦中に投げ出されていく。

そして、戦争を裁く東京裁判では、第二次世界大戦の終結とともに、戦犯訴求のためのマッカーサー条例をタテに、「人道に対する罪」のもと、「法の不遡及」――すなわち、実行時に違法でなかった行為を事後に定めた法令によって処罰することを禁止する、そういう近代刑法の原則を踏みにじることになったのである。時の法廷は、もっとも恥ずべき戦争犯罪を犯した。

しかし、そうはいっても、ぼくはおもうのだが、「民主主義」というのは、まことにもってありがたい話で、本来の姿、意図した姿とはかけ離れていても、主権は国民に在るというのはすばらしいことである。GHQのおかけで、新憲法には女性の参政権がうたわれ、天皇は象徴天皇となった。

どうせつくるなら、すばらしい憲法をつくろうとしたGHQの考えは、戦後の工業立国を推進する大きなバネとなった。

そして、行政府は、戦後の敗戦国の立場で、他国との交易に不平等な取引きをなくすよう、「通商部」と「産業部」をひとつにした「通商産業省」を設けたのは、そもそも白洲次郎だったのである。

彼は初代の長官となり、行政手腕を発揮するが、白洲次郎がほんとうにやりたかったことは別にあった。だから、できあがると、彼は何の未練もなく、さっさと政治の舞台から姿を消した。

しかし、現在の日本で、この謎の男、――白洲次郎という男がふたたび脚光を浴びるというのは、実にふしぎなことだ。

それとともに、「国家は国語なり」というイギリスのことばをおもうと、白洲次郎のいおうとしたほんとうのところは、「プリンシプル」のあるエリートの生き方を指し示すことだったようにおもわれる。

現在の市場原理主義も、国家原理主義がそうであるように、遅からずしぜんに自滅していくものである。

市場原理主義の前提は、「まず、公平に戦いましょう」ということ。公平に戦って勝った者が利益のすべてを手にする。企業間のアライアンスしだいでは、利益を分け合うが、ウインウインの原理でいえば、勝った者だけが利益にあずかるという原理である。

これは公平に戦って勝ったのだから、ぜんぜん悪くない。

そういう風潮が現在の資本主義経済のトレンドになった。勝者は全部取ってかまわない。まず「公平に」というところが、じつは「公平じゃない」と、ぼくなどはおもってしまう。強い者が弱い者と戦ってやっつけることは、公平どころか卑怯である。強い者が弱い者をやっつけることは卑怯である。

ロック、ベンサムの行動哲学をもう一度見てほしい。

市場原理主義は、そんなことには頓着しない。――そうしてできたアメリカ市場は、国民の1パーセントの人たちが全国富の半分近くを占有しているではないか! これが、公平に戦った結果とはとてもいえまい。

80年まえまで、日本は超国家主義をかかげ、非民主化のなかで、軍部によって抑圧された世界観を築き、思想・言論・行動を締めつけてきた。国民は、戦争に敗れてはじめてこれまでの価値体系がくずれたことを知る。戦争が終わったから、戦後になったのではないのだ。

敗戦の構図をあきらかにしたから、目もくらむような新しい戦後がやってきたわけである。それを理解したのは、政治家ではない。国民だった。だから全共闘による安保反対運動や、大学解体という挙に出たのである。その先頭を走って主導したのが思想家・丸山眞男だった。

その丸山眞男ですら、大学教授という肩書を捨てず、国体や大学の刷新に目を向けなかったとして学生らに糾弾された。丸山から教わった多くの学生たちからも、するどい批判の罵倒を浴びせられ、彼は大学を追われた。

安保反対に動いた学生たちは、岸首相の非民主的な強行採決を、軍部にかわる国家権力と見做(みな)し、軍部となんら変わらないやり方に我慢がならなかったわけである。

しかし、それから半世紀以上もへた現在でも、世界のどこにも民主化に完全に成功した国はない。いみじくも丸山眞男がのべるように、「永久革命としての民主主義」に向かって、まだその実現途上にあるということではないだろうか。丸山眞男は、戦後51年たった8月15日の終戦の日に、82歳で亡くなった。

民主主義って、何だろう? 

――今朝は、そんなことを考えた。

ある日、先輩がいった。

「じつは、おれのことをいうよ」と。

「ロックもベンサムもけっこう。丸山眞男も白洲次郎もけっこう。……だが、いま、おれの命は、あと少しなんだ。……なんていうか、病気など無縁だと思っていたが、脳梗塞で右半身不随になってから、リハビリでなんとか治せたんだが、こんどは前立腺がんが発見されてな、すでにリンパ節への転移もあって、切るのはもう不可能っていわれてね。……治療はしているけど、脳血栓の再発をふせぐために、先日、睾丸を切り落としたよ。いまおれは、タマなしなんだよ」

「切り落としたって?」

「そう、むかしの宦官さ。……若いころから苦しめられてきた煩悩の元をバッサリ切り落としちまってさ、いまはさっぱりしてますよ」

「タマは、ふたつともですか?」

「そう、ふたつとも。ははははっ、……身もこころも軽くなったというか、おかげで、腫瘍マーカーも激減したけど、……」といって、Tさんはコーヒーを飲んでむせたのか、大きな咳をした。

「咳をしただけで、失禁なんだよ。尿路結石で始末をしてもらったのはいいが、退院しても、発熱と排尿困難に苦しめられてるよ。休む間もなく、こんどは呼吸困難。ものが自由に食えない、これ、ときどき半身にマヒを起こして、筋肉の緊張が取れなくなってね、この後遺症は、嚥下障害の一種で、水や流動食を飲めないんだ」

「コーヒーは、悪いんじゃありませんか?」

「だから、注意して飲んでるよ。田中くんと、こうしてコーヒーが飲めるのは、これが最後になりそうだからね」といった。Tさんはにやりと笑った。

「いやだろう、こんな話?」

いいえ、といったきり、ぼくは何もいえなかった。

「――ついでにいえば、議会制度をもつブルジョワ民主主義が、大衆に国家の管理に分けまいを与えるというのは、紙の上だけの話である。事実は、大衆とその組織とは真実の権力、真実の国家の管理から完全に余計者あつかいされている」

これは、だれのことばでもない。1919年「コミンテルン」創立大会決議の文言である。20世紀がはじまったころ、国家主義がうんぬんされてきた。

「人間対国家」という図式で物事を考えるようになった。

その根底にあるのは、大衆の不平等意識だった。イギリス思想史の20世紀の冒頭には、そう書かれている。

その不平等を感じている労働者たちは、「共同体(コンミュニティ)」は富を伸ばし、寿命を伸ばし、地上の平和の支配を開いたと叫ぶ。時代を自覚した人びとは、政治に参加し、だれでも意見をいえる平和社会を夢見たのである。その民主化について、声を大きくして意見をのべたのは、カーライルとラスキンだった。

カーライルは、こういっている。

「人間のなかには、幸福を愛する気持ちよりも、気高くてもっと高いものがある。人間は幸福なしにすませることができる。そのかわりに、祝福を見出すことができる。あらゆる時代の賢人、詩人、宗教人が教えを説いて受難し、人間のなかにやどる神性と、その神性こそ力と自由にほかならないことを、生をとおし、死をとおして証明したのは、このより高いものを宣布しようとしたためではないか」と。

ラスキンは、こういっている。

「国家を一家族とみなした場合、その家族における統一の条件は、ひとつの国民が忠実で、愛に満ちた家族、すなわち、同胞であるという認識を、それと劣らず、国民に家長、すなわち父があるという認識に基づいていることだ」

カーライルは、

「なすべき義務をしない上流階級は、その根元から土がくずれつつある断崖の上の樹木のごときものである」といって、民主主義をするどく批判した。

カーライルの弟子だったラスキンは、振興する工業文明を批判した。カーライルとラスキンの教訓は、いまも息づいている。精神的自立、道徳的節操と自由のない無秩序な行政は、それ自体が、民主主義を否定した独裁国家になるだろう、と批判している。

「ところで、ロックの思想ですが、どう読めばいいでしょうか?」

「ぼくはおもうんだけど、J・S・ミルもいっているように、学説においても、制度においても、イギリスの革新の父は、ベンサムだとおもいますよ。彼は、現代の思想にまで影響を与えています。なぜなら、ベンサムは、偉大な破壊的な思想家で、偉大な批判的思想家でしたからね」

「そうですか」

「J・S・ミルは、16歳で彼の説を読み、批判していますが、すべての論点は、そこからスタートしています。ベンサムがいなかったから、イギリスの近代思想はもっと違っていたでしょうね」

「ベンサム。――なるほど、……」

「ベンサムの人間観はあくまでも快楽主義でしたね。人間のサガ(nature)をないがしろにしなかった。自然というのは、人類の苦痛と快楽という、ふたりの主権者によって成り立っているといっています。そこで、何事かを決定するのは、ただこの苦痛と快楽のふたつよりない。善悪の基準は、他方においては、原因と結果との連鎖を生み、このふたつがつながれているというのです」

「その話は、ロックと似ていますね」

「――この説は、もともとロックの唱えたものを進化させたもので、ベンサムの思想のなかに、依然としてロックが生きているんですね。ぼくの目からみると、イギリスの革新の父は、ベンサムには違いありませんが、それを教えたのは、ロックだったとおもいたい」

J・S・ミルのことば。――

「社会に監視される人は、いつも自分の本性に従わないようにしているので、やがて従うべき本性をもたなくなる。人間としての能力は萎縮し、衰えていく。強い望みや自然な喜びはもてなくなり、たいていは自分のものだといえる意見や感情をもたなくなる。これが人間性の望ましい状態だろうか?」