■生麦事件から太平洋戦争勃発まで。――

石二鳥」は訳語?

 

おはようございます。

今週の新聞にも、「台湾海峡の平和重要」などの文字が大きく踊っていた。

日本軍がハワイに停泊中の米艦隊を奇襲した真珠湾攻撃から80年が過ぎ、「トラトラトラ(我奇襲ニ成功セリ)」という歴史的な電報を発したのは、指揮官機のパイロット松崎三男大尉だった。むろん映画にもなった。

ぼくは、そのことばは、映画でしか知らない。すでに歴史的には遠い過去の話である。

先日、ちょっとご無沙汰していた遠来の友が、草加にやってきた。

札幌から関東方面に出張でやってくるという話は聴いていた。紫陽花の花が咲くころと聴いていたのだが、彼はとつぜんやってきた。先週のぐずついた天気に見舞われた日のことである。

図書館で彼からの電話を受けた。草加のレストランで食事をしながら、いろいろなおしゃべりをした。

彼はぼくよりずっと若く、髪の毛も黒く、たぶんまだ70歳になってはいないだろう。サムライのように胸をはり、若いころの彫刻家の保田春彦氏のような顔かたちをしている。ぼくが何かのはずみで「一石二鳥」いうと、Tさんは「それは翻訳語ですよね?」といった。

ぼくは知らなかった。

Kill two birds with one stone.

あとでしらべてみると、ローマのむかし「一石で2人の敵を倒す」ということばがあり、これが英訳されて明治のいつごろか、だれかが訳したというものらしい。類義語としては「一挙両得」や「一挙両全」、「一箭双雕(いっせんそうちょう)」などが挙げられる。

対義語としては「虻蜂取らず」や「二兎を追う者は一兎をも得ず」、「一も取らず二も取らず」、「花も折らず実も取らず」、「欲の熊鷹股裂くる」、「欲す鷹は爪落とす」などがあるようだが、現在ではほとんどお目にかからない。

幕末から明治にかけて、西洋から大津波のようにさまざまな新思潮がやってきた。それが、否応なく人びとを近代日本人に育てあげていった、といえるかもしれない。そのころ、societyという語がやってきて、これにみんなは苦労した。

どのような意味なのか、ということなのだけれど、福沢諭吉がこれに「社会」という漢字をあてたのはだいぶたってからのことである。

そのような概念が日本にはなかったからである。

「会社、連衆、交際、合同、社友」など、さまざまな訳語がつくられた。福沢諭吉、西周(あまね)をはじめ、多くの人が、海の向こうからやってきた西洋語を大急ぎで翻訳した。

福沢諭吉がいちばん苦労したことばはindivdualという語だった。

たとえばThere is but a single individual there.は、「独有(どくゆう)一個人那処に在り」と訳したり、a single individualは「単身独形、独一個人」と訳したりした。

福沢諭吉は、individualをあるときは「人」と訳し、またあるときは「人おのおの」、「一人の民」、「人々」、「人民」などと訳している。

そのころの日本には、「個人」という概念がまるでなく、彼はこれまで日本語として使われてきた語を使って、いろいろと工夫している。

「――ともかく、時代もことばも、人びとの人生までも、あの時代はみんな編集したんですよね。日本文化に脈打っている実事求是の考え方は、この時代、みんなうろたえて、面食らっていますよ。そういう意味では、歴史なんていう、何かの本のなかに書いてある事実らしい記事なんて、ひとつの編集のあらわれじゃないですか? 後世の人びとによって、いくらでも歴史は変えられますからね」と、彼はいった。

ぼくは一瞬、彼は何をいっているのだろう、とおもった。

編集だって? 

そして即座に、「おお、いかにも!」とおもったものである。

そこで頭に想い浮かんだのは、生麦事件だった。

「……ほう、生麦事件ですか」と彼はつぶやいた。

「たいていの本には、生麦事件は、殿さまの大名行列に、4人の英国人が騎馬でやってきて列を乱し、不敬をはたらいたという理由で、殺傷したという事件ということになっているが、このような斬り捨てご免を、治外法権にある外国人にもやってしまったことで、問題を大きくしましたね」

「斬り捨てご免ですか。……たしかに、江戸初期には斬り捨てご免はまかり通っていたようだけれどね、どうですか、武士の掟にある斬り捨てご免は、そのころもちゃんと生きていたとおもいますよ」とTさんはいった。

「そのようですね」とぼくはいった。そして、

「それにしては、ちょっと変なんですよ」といった。

「どこがですか?」

「武士の斬り捨てご免は、斬ったあとで、とどめを刺すことはゆるされませんね。ところが、生麦事件では、チャールズ・リチャードソンという男は、後ろから袈裟(けさ)懸けにばっさり斬()られ、内臓も飛び出す重症を負った。それでも馬に乗っていて、彼は逃げだすんですけど、やがて馬がとまるとずるずると落ちます。落ちたリチャードソンを畑に連れ込んで、そこでとどめを刺す」

「そうでしたか、……」

「この、とどめを刺すというのが変なんですよ」

「……?」

「斬り捨てご免というのは、とどめを刺さない、刺してはならない行為なんです」

「……?」

「とどめを刺すというのは、敵にたいしてやるときだけですよね。敵味方に別れて合戦するとき、敵を斬れば、ただちにとどめを刺す。これが名乗りをあげる条件です。しかし、生麦事件では、どういうわけか、敵でもない男を、とどめを刺して殺してしまったんです」と、ぼくはいった。

「やつは、もう生きられないと悟ったからじゃないですか。慈悲のこころが動いたとか……?」

「そういう説はあります。それにしても、変ですよ」

歴史はいろいろなことを教えてくれる。

幕末から明治にいたるあいだ、近代日本にやってきた外国人はざっと850人。それぞれ背負った文化が異なり、それがもとで、さまざまな軋轢が起きた。

なかでも嘉永6年(1853年)の黒船来航はよく知られているけれど、マシュー・ペリー代将が率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻をふくむ艦船4隻が、日本に来航した事件で、これを機に、いろいろな事件が起きた。

薩英戦争は、、文久3年(1863年)7月2日(8月15日)から7月4日(8月17日)にかけて起きた戦争で、これは、生麦事件の解決を迫るイギリス(グレートブリテン・アイルランド連合王国)と薩摩藩のあいだで戦われた鹿児島湾上における戦闘である。薩英戦争後の交渉が、英国が薩摩藩に接近する契機となった事件である(吉村昭の「生麦事件」新潮文庫版がおもしろい)。

さて、薩英戦争の直接的な引き金となったのが、イギリス人4人を殺傷した生麦事件だったといえる。もう少しくわしくこの事件を見つめると、こういうことがいえるかとおもう。

そのころの神奈川、横浜、生麦というキーワードで歴史をながめると、横浜に外人の居留地があり、そこに西と東をむすぶ幹線道路・東海道があったからこそ生麦事件は起きた、といえるかもしれない。

道は江戸までつづいているが、江戸には外国人たちの居留地は存在しなかった。幕府は江戸に外国人たちが入ることを禁じていたのである。

黒船来航後の嘉永7年(1854年)、日米和親条約が締結され、ながくつづいた「鎖国」が終わりを告げた。(宮澤眞一「《幕末》に殺された男――生麦事件のリチャードソン」新潮社、ほか)――。

ほんとうは鎖国ではなかった。

「海禁」だったという人もおり、それはぼくの考えでもある。

ほんとうに海禁が解かれ、この年から事実上の新時代・江戸時代がはじまったという人が多い。

だが、和親条約にうたわれたように、開国はまだじゅうぶんではなかった。

港を新たに解放したのは下田と箱館だけであり、しかもこの2つには外国人の居留地は認められていなかった。

その壁をぶち破ったのは、下田に赴任した米国初代領事のハリスだった。

そして安政5年(1858年)日米修好通商条約がむすばれ、つぎつぎとその他の諸外国とのあいだにも条約が締結された。これこそが、ほんとうの開国だった。

そのような折りもおり、島津久光は薩摩藩の400人もの人間を率いて東海道を行列していた。

いっぽう、横浜の居留地から4人(うちひとりは婦人)の英国人が川崎大師を目指して馬でやってきた。馬だから後方から行列を追いかけるようにしてやってきた。

そして不幸なことに、ちょうど生麦村の街道で、行列の後方に追いついた。

最初の列はなんなく追い抜き、通れた。だが、島津久光の籠を護衛する列の尻に追いつき、その列を追い抜こうとした。

そのとき、

「わきに寄れ! わきに寄れ!」の叫び声が聴こえ、4人は馬上で作法通りの制止を試みたものの馬があばれ、列を乱した。

すると籠にひかえていた供頭(ともがしら)が後方に走ってきた。

彼は走りながら腰の太刀を引き抜き、馬上のイギリス人に斬りかかった。

最初のひと振りで、リチャードソンはばっさりと斬られた。あとのふたりの男(マーシャルとクラーク)は斬られながらもなんとか逃げ出すことができた。

婦人(ボロデール夫人マーガレット)は髪の毛を斬られただけで、ほうほうの体で逃げのびることができた。文久2年(1862年)8月21日(旧暦)、午後2時ごろのことで、この日は残暑きびしい青天の日だった。

ひとりは生麦村で絶命した。

ぼくは、当時の生麦村の街道の写真(松沢成文「生麦事件の暗号」講談社)を見ている。街道に沿って畑がひろがり、ずいぶんさびしいところだ。

英国人を斬り殺したのは、19歳の薩摩藩士、九木村治休(くきむらはるやす)という男だった。

逃げたマーガレットからとつぜんの惨事の状況を聴きつけると、横浜の公使館や領事館にいた護衛兵30人ほどが駆けだし、フランスの騎兵、歩兵も駆けだした。資料には「銃声も発生した」と書かれている。

英国の代理公使ニールだけは冷静沈着だった。

ニールは外交による事態の収拾を考えていたが、それから外国人の間ではげしい論争が起きた。

1862年9月14日(文久2年8月21日)、薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(生麦事件)が発生すると、横浜領事のヴァイスや横浜居留のイギリス民間人らは報復行動を訴えたが、ニールはこれを抑えた。

その後本国との連携を保ちながら冷静に対処し、翌1863年6月24日(文久3年5月9日)江戸幕府に11万ポンド(生麦事件に対して10万ポンド、第二次東禅寺事件に対して1万ポンド)の償金を支払わせることに成功した。

幕府賠償金受け取り後、薩摩藩との交渉のため軍艦に乗船して鹿児島に赴いたが交渉は決裂、薩英戦争が勃発した。

1864年にオールコックが公使に帰任すると、ニールはイギリスへ帰国した。

斬られたふたりは、米国領事館でヘボン博士(「ヘボン式ローマ字」の考案者、本名はヘップバーン)の手当てを受けた。――しかし事件をめぐる外交交渉がうまくいかず、やがて薩英戦争の火蓋が切られたのだった。

Tさんは、「なんだか、悲しくなりますよね」といった。

おなじ年、寺田屋事件が起き、テロの嵐が吹きまくる英国公使館焼き討ち事件や、薩長連合、将軍も天皇も亡くなって慶喜将軍となり、鳥羽伏見の戦い、江戸城の無血開城、戊辰戦争へとすすむ。そのなかでも、いまだに謎の多い生麦事件のことがおもい出され、ぼくはそのページだけ、黒いオイルでも塗りつけたような歴史に見える。

日本人がはじめて英国人とのつきあいを持ったのは、そう昔ではない。

オランダ人がはじめて日本に接触したのも、世界周航をしたあげく、難船同然で豊後(ぶんご)、――現在の大分県、――その湾に入ったデ・リーフデ号がはじめてだった。そこにウィリアム・アダムス(1564~1620年)という人間が乗り込んでいた。

日本名は、三浦按針(あんじん)といった。

封地を相模国(現在の神奈川県)三浦郡に持ったことから三浦姓を名乗ったわけだが、按針(あんじん)というのがじつにいい。江戸初期のころ、彼は日本にやってきた最初の英国人で、のちに徳川家康の政治顧問をつとめた、本名ウイリアム・アダムズ(William Adams)である。

江戸の庶民は彼のことを、「按針さま」と呼んだ。

南蛮船がさかんにやってきたこのころ、当時の日本人は、航海士に偉大さを感じていた。天体を測定して自分の船の位置を知り、磁針を見て方向をきめる。またポルトガル語のピロト(Piloto)ということばが日本語になり、彼はやがて行師(あんじ)とも按針(あんじん)とも呼ばれるようになった。

「按針さま」というのは、その偉大な人という敬意をふくんだことばになった。

おそらく家康とその側近たちは、おなじキリスト教でも、カトリックとプロテスタントの両派があることをこの三浦按針によって知ったのだろう。

1633年の寛永10年ごろになると、幕府はヨーロッパ人が意外におもうほど、日本の情報を持っていたことを知る。鎖国令が出されたこの年から40年後の1673年(延宝元年、家綱のころ)まで、イギリスが日本との貿易再開を申し出ている。

船を派遣してきたが、もちろん日本側はことわった。

江戸幕府が発した、外国との通交・貿易を禁止するという一連の法令のことを、現在、「鎖国」、「鎖国令」といっているが、当時そういうことばはなかった。この法令は寛永10年(1633年)から同16年までの間に数回出されている。出されてはいるが、日本はオランダとの金銀貿易の取引き額は、年々大きくなっていた。現実には鎖国ではなかった。

このときの日本側の役人の質問のなかに、

「現国王チャールズ2世がポルトガルの王女と結婚されて何年すぎたか?」というのがあったそうだ。そういう事実はない。

いかに日本の役人たちは、世間、――つまり世界を知らなかったかがわかっておもしろい。「鎖国の期間はじつに2世紀におよんだ」と一般的にはいわれている。しかしこの間、オランダと清国の商船に対してだけは、それも長崎一港にかぎって通商をゆるしている。国じゅうが暗箱のなかに入って、針で突いたような穴が、長崎にだけあいていたというわけである。

そして、日本から出ていった金の流出は、世界最大の金の産出国であるデンマークの金相場を左右していた。そういう事実は、ながいあいだ日本人はしらなかった。自分たちの歴史を知らなかったのである。

司馬遼太郎さんの本を読んでいたら、「人類は、ながいあいだ《事実》よりも空想(観念)のほうをたのしんできた」と書かれている(「街道をゆく」35巻目の463ページ)。これはおもしろい表現だとおもう。

この「鎖国令」の話も、人によってつくられた歴史である。その影で、日本は金の対外貿易で外貨を大いに稼いだ。明治になって、あれは「鎖国」だったということばがひろまったに過ぎない。ひょっとしたら、自分も、事実よりも空想を楽しんできたのかもしれない。見たことも聞いたこともない2000年まえの古代中国の話もおもしろい。

歴史は、都合のいいようにつくられていく。