ヘンリー・ソローの「ォールデン―の生活」

 

先生――こんにちは。

先日、先生より「月の便り ある水脈の傍らで」第一号が送られてきて、ぼくは久しぶりにヘンリー・D・ソローのことを考えました。そして、先生への久闊を叙する思いが風船のように急に大きく膨らみました。先生のお便りによりますと、「11月初旬に入院し、12月初旬に退院します」と書かれていました。お体をいたわって療養に励んでくださることを祈ります。

そしてぼくは、やっぱりヘンリー・D・ソローの文章とともに、自分の晩年を過ごしたいと願うようになりました。――

 

 

ヘンリー・D・ソロー

 

本の最後に、先生は、

「ソローは、私たちの営みをせせら笑うことは決してしなかったはずです。始めましょう、省略のないソロー日記を読む旅を」と書かれています。そういう気持ち、凄いなあとおもいます。

ンリー・D・ソローは、敬虔なクリスチャンの多いマサチューセッツ州コンコードで生を享け、豊かな自然の中で育ちました。――というより、これは私見ですが、ソローの生活そのものが彼の思想をあらわしているようで、1845年の3月、ようやっとじぶんの新居建設に着手すると、3ヶ月ほどで小さな家を完成させます。28歳のときです。それがソローの考えの源泉を汲み上げる確かなものにしていると思いまた。

 

「ぼくは、きみの家のすぐ近くに住んでいて、こんなふうに釣りをしているので怠け者に見えるかもしれないけれど、きみと同じように自分の力で生活している。きちんとした、明るく清潔な家もある。きみのあばら家の一年分の家賃と、そう変わらない費用で建てたんだよ」とソローはいいます。

そのころから、ソローの鷲ペンはいよいよ冴えわたります。

そこはコンコードの深い森のなかにある、ウォールデンの池の畔りで、彼はそこにひとりで住みます。――そういう経験がぼくにはないので、ただただ、想像しているだけなのですが、――家はとても簡素なつくりで、部屋のなかには読書をするための椅子とテーブル、それに少し大きめのテーブルと椅子がひとつあるだけ。外に畑をつくり、食べるものはじぶんで耕して手に入れます。

コンコードの作家、N・ホーソンとも会い、そして語らい、ホーソンはやがて「わが旧牧師館への小径」(齊藤昇訳、平凡社ライブラリー、2005)というエッセイを書きます。そのころのコンコードが描かれています。

19世紀の思想家たちは、際限なく酒を飲んで、べんべんたる太鼓腹を晒すような不健康な男たちではなかった。身体的にも健康的で、活発にうごいていた。医食同源の思想に目覚め、じぶんの病いは、じぶんで治す心構えがあったといいます。プライマリーケアが、現在よりも旺盛だったようです。

腸の病気には、土の中で育つ菜根類を食べる。肺の病いには地上で成るものを食べる。中国から伝わる中医思想の話を読んだことがあります。

いろいろな経験をもとにして書いたのが「ウォールデン――森の生活」(1854年)というソローの代表作です。

 

エミリー・ディキンソン16歳ごろ

 

そのまえに、1849年には、「コンコード川とメリマック川の一週間」と題した本を出しています。兄のジョンとともにコンコード川とメリマック川をボートで旅行したなつかしい話が描かれていますが、しかし数年後、兄は感染症にかかって急死。その兄のことを想いだして書いたものですが、どの文章を読んでも、ソローの思想をたっぷりとあじわえます。

いっぽう、エミリー・ディキンソンはおなじ時代の詩人ですが、敬虔なクリスチャンの多く住まうニューイングランド特有の空気の中で育ち、「詩を書いている女性」というのは世間にはけっして認められない類いの行為でした。

だから、彼女の生涯は、詩を書いてはデスクの引き出しの中にしまっておくだけの人生を送りました。彼女の生存中、手紙に書いたわずかの詩文だけが知られているにすぎません。

それが20世紀を迎えると、たちまち人気を呼び、評価されるようになり、ロングフェロー、ホイットマンと並び称される存在となりました。

■ヘンリー・D・ソローの諸作

 

モグラがぼくの小屋の地下室に住みついて、じゃがいもは三つに一つはかじられ、漆喰を塗ったときのブラシの毛と古紙でふかふかの寝床を作っていた。厳しい自然界で暮らす動物も、人とおなじように、居心地のよさやあたたかさを求めるのだ。そして備えさえ怠らなければ、ちゃんと冬は越せるのだ。

(「Walden」CRW Publishing Limitedより

 

どんな肩章よりも、肩の上にのる小鳥のほうが名誉を与えてくれる。

(「Walden」CRW Publishing Limitedより

 

私の知識に対する欲求はとぎれがちである。しかし、足が知ることのない大気に頭を浸していたいという欲求は永続的で変わることがない。私たちが到達できる最高のものは知識ではなく、知的存在との共感である。

(「ウォーキング」より

 

ほとんどの人々は、熟したリンゴと腐ったリンゴを混同するように、変化した葉と萎れた葉を混同しているようです。葉がより高い水準の色へ変化するのは、果実が成熟するように、最後の純粋な成熟に達したことの証拠だと私は思います。ふつう最初に変化するのは低いところにある、古い葉です。しかし素晴らしい羽の使い方をし、鮮やかな色をした昆虫が短命であるように、葉はまさに落ちるために熟するのです。

(「ソロー博物誌」より

 

二月に始まり、心地よく暖かいといえる日を徐々に経ながら、ついに本当の夏らしい暖かさになっていくのは、やはり注目に値する。初めは陽光のさんさんと注ぐ、穏やかで、麗らかな冬の日によって春が告げられる。またはそのようにして春を思い出す。最初の心地よい春の日は、たぶんまだ外套のボタンをかけ、手袋をして歩く。

(「日記」、1855年3月20日

 

ぼくの父は、北海道の農業人だったので、鍬をもつ手を休めて、ふと思索をめぐらすことがあったようです。父は、なにかおもいついたとき、農具を放って手帳に何か書きこみます。

農業人は土を耕すことが仕事なので、土を掘り起こして畝(うね)をつくるのがじょうずです。――考えてみれば、この「掘り起こす」というのはculture(文化)のもともとの意味で、ラテン語のcultus(耕地)から生まれた英語です。考えも掘り起こし、歴史も掘り起こし、記憶も掘り起こすというわけでしょうか。掘り起こしてできたものを、「畝」というのですが、詩人の描く一本の詩文(ブラック・ライン)は、畝のようではありませんか。つまり、詩なのですね。

イギリスでは、「poem」ともいうけれど、たいていは「verse」といい、ブランク・ヴァースとはいっても、ブランク・ポエムとはいいません。たとえばシェイクスピアの無韻詩のことなどです。畝が3本できたら、詩行が3つできたのとおなじです。詩は掘り起こされたもの、という意味をもっているようです。

人びとは、詩人じゃなくても、じぶんの畝をちゃんと耕し、掘り起こし、おのが耕地で、おのが文化、おのが詩行を立てているというわけでしょうか。北海道のふるさとの風景は、そういう畝の見えるところでもあります。そして、多くの祖先が畝をつくりつづけ、いまもその畝が連綿とつらなって見えるというわけです。

農業人の表現力は、詩でもなければ音楽でもなく、絵でもありません。ひたぶるに、畝づくりに発揮されてきました。ですから、農業人の魂を見たければ、彼らのつくった畝を見るしかない。――これは、譬喩ですが、人びとは人びとの畝というものをちゃんともっているというわけです。

「あなたの畝は、何?」

ヘーゲルのミネルヴァの梟は、そういう夕暮れどきに訪れます。

一日の終わりや、年の終わり、人の晩年になって哲学が実る、そういいたかったのかもしれません。小説家は、実るまでのさまざまな過程をいろいろと書きます。哲学者は頭のなかで行動し、想念を飛翔させます。ヘーゲルの「歴史哲学」はとても奇妙な本です。ヨーロッパでうんざりした人間たちが、アメリカにあこがれる国民として描かれています。そうしてヘーゲルの時代から、そろそろ新世界アメリカが歴史に登場していきます。

ヘーゲル哲学は、「……であるべきだ」とか、「……ねばならぬ」ということばがやたらと出てきます。ヘーゲル学派はおしなべてそういう連中の書いたもの、とぼくはおもっていました。

シェリングと仲がよかったのに、ふたりは競い合い、鬼才シェリングは、だんだんとヘーゲルのように衆目をあつめることなく、しぼんでいったように見えます。

ナポレオンの軍隊が、ヘーゲルのいたイエナを占領すると、馬に乗ったナポレオンを見て、「馬上の世界精神」といって彼を歓迎したというのです。ヘーゲルという人の頭の構造が、一般市民とはずいぶん違っていたようです。なにはともあれ、彼の「歴史哲学」は、次代の精神をつかんでいたことは間違いなさそうです。

ぼくはさいわいにも目もよく見えて、本も読めます。年間、だいたい500冊ほど読みます。文庫本なら、一日に2冊くらい読みます。ソローの本に出会って、ソローという人物に格別の興味を抱きました。

さいきんぼくは、若い人と会っておしゃべりをしております。

たとえば20代のIT戦士たちとか。若い人たちはけっこうなんでも興味を持つからでしょうか、向学心に燃え、なかでも彼らは、コンピュータ関連の話にはとても興味を示します。

たとえば、コンピュータ分野でノーベル賞をとったウイリアム・ショックレーとか、2度ノーベル賞をとったジョン・バーディーンとか、ウォルター・ブラッテンなどの話をよく聴いてくれます。

ぼくは柄にもなく、若いころから数学に興味をもち、宇宙物理学に興味を持ったのも、数学というアプローチの延長線でたどりついたものです。素粒子物理学の分野では、日本は世界的にも突出した高度な研究がおこなわれ、素粒子を飛ばしてピラミッドの内部をしらべたりしています。

これはまったく日本独自のお家芸で、いままた筑波から岐阜県のカミオカンデまで、人工の素粒子を飛ばして実験がおこなわれています。

コンピュータといえば、ぼく自身、英国の数学者アラン・チューリングが、彼独自のコンピュータ開発を成し遂げた話にむかしからとても興味を持っていました。日本には、むかしから数学という特殊なアプローチがありました。アラン・チューリングもおなじです。

日常のできごとは、漫然区々たるものですが、こうして世界をながめてみますと、毎日が、驚きの連続です。日本人の研究における資質の高さは、世界に誇っていいとおもいます。

先日は、若い人にアーセン・ベンゲル――元名古屋グランパス監督のベンゲル元監督(サッカークラブ)の話をしました。アーセン・ベンゲルはいっています。

「日本人はヨーロッパを美しく誤解している」と。

しかし実際のヨーロッパはぜんぜん違うといいます。

日本が東京のような大都会とすれば、ヨーロッパはアフリカのサバンナのようなところだ。治安が悪いのはもちろんのこと、日本人と比較すればヨーロッパ人の民度は恐ろしく低く、日本では当たり前に通用する善意や思いやりはまったく通じない。隙あらばだまそうとする奴らばかりだ。

日本と違い、階級社会であるため、会話のまったく通じない無知な愚か者も多い。私は、ときどき欧州事情に疎い日本人が欧州に行ったら、精神に異常を来たしてしまうのではないか? と心配することがよくある。――日本人は、なぜ日本をもっと誇らしくおもわないのか、と彼はいっています。

かつては、安倍首相の悪口ばかりいって、この国をあほらしくおもっているようだと。こんなすてきな国は、地球上のどこにもないと彼はいい張ります。

あほらしい国の、あほらしい人びと、――そのあほらしい人が、「ゆるまないネジ」を開発したことは驚くべきことです。世界に「ゆるまないネジ」などなかったわけです。ネジはいつかゆるむものだというのです。

彼は小学5年で中退し、その後いちども学校に行かず、学歴なし、職歴なしの37歳の男が、3000年の英知をもってしても成し得なかった「緩まないネジ」の開発に成功しました。彼の名前は道脇裕。世界初の快挙です。

右まわりナットの螺旋みぞ、そして左まわりナットの螺旋みぞを1本のボルトで実現しました。こんな発想は、これまでの科学の常識にはありませんでした。科学って何だろう、というわけですね。

いままでの科学が常識だとすれば、常識のなかでいくら答えを探しても見つかりません。常識の外に出るしか方法がないというのです。世間の人はこれを「非常識」というわけですが、科学のパイオニアはいつの時代にあっても、その常識をひっくり返してきたとおもいます。

通常のボルトは「雄ボルト」で、「雌ナット」と接合して右まわりで締め付けます。どんなに強く締め付けても振動によってゆるみます。ゆるまないナット(ネジ)は世界のどこにもありませんでした。反対側にゆるもうとする右まわりナットと左まわりナット、この2つのナットを使うと、おたがいにゆるめばゆるむほどロックされることになります。NASAの実験で、けっしてゆるまないことが証明されました。――書きはじめると、とまらなくなりそうなので、このへんでやめますが、文学も、シェイクスピアもいいけれど、科学もおもしろいぞ! 数学もおもしろいぞ! そうおもっているところです。

近年、ネット上で知り合った人たちとの交流が楽しくて、いまも関係をつづけています。なかでも、コロンビア大学の免疫血液学ご専門の元教授、神山幹夫先生(今年、86歳になられるでしょうか)との出会いはとても愉快です。

先生はいまもニューヨークにお住まいですが、ときどき来日し、都内でお目にかかっております。

先日はレストランで、5時間も話し込みました。

その前は、7時間もおしゃべりがつづきました。ふたりで7時間というのは、けっこうな時間ですが、ふたりとも英文学、仏文学に興味をもっているため、話せば尽きることがなく、けっこうな時間を喰ってしまいます。先生は作家でもありますから、さいきんニューヨーカーたちの読まれる本の話などがはじまると、ぼくには嬉しい時間となります。

――さて、そういうわけで、晃先生からは今般、ヘンリー・ソローのすばらしい文章をご紹介くださり、とても感謝しております。N・ホーソンやエミリー・ディキンソンとは違った思想家、文章家の本に興味を持ちました。

まず、ソローの文章には独特のリズムがあり、敬虔な祈りのシーンのような厳かなことばがあるかとおもえば、それとならんで、生理的にも人びとから毛嫌いされている季節の虫が生々しく葉裏に蟠踞(ばんきょ)しているというような構成で成り立っていて、その対比のレトリックが奇抜で、とても詩的です。ソローには、あきらかに虫が見えたのですね。

そこに見える映像も、順光で撮った写真のような映像ではなくて、ときにハレーションを起こしたような逆光でとらえられていて、吹き抜ける風の音も聞こえ、作家N・ホーソンも成し得なかった、陰と日向に起伏する豊かな文章表現に驚かされます。

ホーソンはエミリー・ブロンテから文章の起伏を学びました。ソローは、だれから学んだのでしょうか。

ソローは単に、一文章家として生きなかった。ソローはウォールデンの池の畔りで静かに黙考するとともに、いっぽうでは毅然として戦う市民でもあった。アメリカ合衆国政府が奴隷制度を認めていることに抗議し、税金の支払いを拒否したのです。

そのため、修理に出した靴を受け取りにゆく街中で、とつぜん逮捕され、投獄されました。ソローはそれ以来、「市民の不服従」という考えを提唱します。この考えは、ロックやベンサムといった本家イギリスの政治思想家とは違った市民権運動家として生きることになります。