フィンセント・ファン・ッホの「まわり」を観て思ったこと

 

 

フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」。損保ジャパン日本興亜美術館は、新宿の42階にある。

 

以前にも書いたことだが、やっぱりフィンセントの絵は「ひまわり」だ! とおもっている。

原田マハさんも書いているが、日本には、モダンアートとしての印象派の絵がいたるところにあって、日本人ほど印象派の絵を見慣れている国民はいないのではないか、とおもわれる。

日本人にとって、絵画といえばモダンアートであり、印象派なのだ。印象派といえば、まずフィンセント・ファン・ゴッホなのだ。彼の絵は後期印象派に与されている。

けれども、フィンセントの絵がどんなに凄いといわれても、彼が生きているうちは、完全に無名で、だれにも知られていない存在だったという。

林忠正も、パリのどこかで、フィンセントと出会っていてもふしぎではないのだが、出会いのシーンはおろか、それらしいシーンさえない。

それにしても、20世紀初頭の日本は、モダンアートの分野では、なんとめぐまれていたことか、とおもえる。川崎造船所初代社長の松方幸次郎(1866-1950年)や、大原美術館の創立者で倉敷紡績社長だった大原孫三郎(1880-1943年)など、20世紀初頭、世界的に見てもかなり早い段階で、モダンアートに着目し、そのヨーロッパ絵画の蒐集に乗り出していることがわかる。フランス絵画に深くテコ入れした松方コレクションの業績は、いうまでもないだろう。

数年前、新宿の東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館で開催中の「巨匠たちのクレパス画展」を観にでかけた。妻ヨーコのすすめによる。

岡本太郎、梅原龍三郎、熊谷守一、猪熊弦一郎、小磯良平などのクレパス画を観てきた。いずれもすばらしいものだった。その館内で、もちろんヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「ひまわり」がある。

この「ひまわり」を観ただけで、ぼくは圧倒された。「ひまわり」は1987年、安田火災海上保険(現損保ジャパン日本興亜)が、当時の為替レートで約53億円で落札したものである。一枚の絵の取引としては、当時は最高額だった。

 

 フィンセント・ファン ・ ゴッホが描いた「哀しみ」と題された作品。ゴッホ27歳の作

 

ゴッホといえば、「ひまわり」だろう。「ひまわり」を観ていると、摸写したくなる。入館した建物の1階で、小学生だろうか、大勢の子どもたちが「ひまわり」の絵を描いていた。みんな楽しそうに描いていた。

絵画には贋作がけっこうあるという話は聴いている。

フィンセントだけでも、少なくとも30枚もの贋作があるといわれている。

ベルリンのオットー・ヴァッカー画廊は1925年ごろから、ゴッホの贋作を世に送り出し、個人コレクターなどに高く売りさばいていたという話がある。岡山県・倉敷にある大原美術館では、アムステルダムの画廊からゴッホの「アルビーユの道」を購入した。

当時、ヴァン・ゴッホの研究家として知られるド・ファイユは、ヴァッカー事件の発覚後、いちどはこの絵を贋作からはずしていた。それほどみごとな贋作だったらしい。

ヴァン・ゴッホの「アルビーユの道」という絵には、贋作が2枚もある。

この2枚は、図書館から借りてきた本のなかで紹介されていた。まことにみごとで、2枚の絵には明らかに違うところがある。しかし、ゴッホの絵として見たとき、これを贋作だとはとうていおもえない。

先年、大原美術館で観たその「アルビーユの道」は、いくらで購入したのか明らかではない。購入したのは1935年(昭和10年)で、ちょうどそのとき、文部省は美術院を改組するという動きがあって、日本の美術界は大揺れに揺れていた。

2年後の昭和12年には、帝国芸術院を創設して、この問題にケリをつけたが、おりしもそういうときに、大原美術館は、ようやく世界のゴッホとして名声をあげつつあったゴッホの絵を買っている。

絵はなぜ売れるのかという話は、以前にも書いたけれど、松方幸次郎のコレクションにはじまる日本の美術界にも、ようやく洋画のすばらしさが分かってきたころでもあり、日本の浮世絵に惹かれたフィンセントの絵を、このころ、見直す動きがあった。

フィンセント・ファン・ゴッホは、いまでは画家として知らない者がいないほど有名になった。しかし、彼は最初から画家であったわけではない。最初は小間使いの丁稚奉公からはじまって、画商の下働きなどをしていた。じぶんでも絵を描いてみたいとは、おもわなかったらしい。

どうしたら絵が売れるか、それしか頭になかった。

ある日、人にすすめられて絵筆を持つようになった。彼の37歳という短い生涯のなかで、わずか10年間だけ、画家として活躍したにすぎない。

フィンセントは中学校を中退し、16歳から仕事に就いた。ロンドン時代にはフランス語とドイツ語の教師もした。また、ゴッホは手紙を数多く書いている。それも母国語のオランダ語だけでなく、英語、フランス語でも書いている。膨大な手紙は、岩波文庫にもあり、ぼくは、その岩波文庫に翻訳された文章を読んで、ひどく感銘を受けた。ゴッホは文章の達人なのだ。

高校生のころ、ぼくは油彩画を描いていた。そのときにはじめて、ゴッホという画家が描いたという「悲しみ」と題された絵を見た。彼が27歳のときに描いた絵だ。モデルを雇うお金がなかったので、娼婦を描いた。ゴッホの絵のなかで、裸婦を描いたのはこれ1枚だけといわれている。やがて、その娼婦と同棲した。

フィンセントにまつわる本をいろいろ読んだが、可哀想な生涯を送っている。

 

 

 フィンセント・ファン・ゴッホ「アルビーユの道」

 

彼の家族に、フィンセント・ファン・ゴッホという名前の家族がもうひとりいた。

彼のすぐ上の長男である。長男は死産し、そのときの両親の落胆は大きく、次男として生まれたゴッホに、あろうことか長男とおなじ名前をつけたのである。それが画家の悲劇のはじまりだった。両親からは、ありあまるほど大きな期待を受けて育った。

しかし何をやってもうまくいかず、丁稚奉公の店を転々とし、オランダから抜け出してロンドンへと向かった。逃げる先々、ゴッホにとって、新しい世界が広がり、オランダのいなかの牧師の家を飛び出してきたことを後悔したことはなく、7人の兄弟姉妹の事実上の長男として、ゴッホは家族から期待されることを嫌って、どんどん逃げまくった。

行き着いた先は、ハーグだった。

そこには、子連れで、身重の娼婦クリスティンがいた。彼女との同棲がはじまる。30歳になろうかという長男ゴッホが、まだすねかじりをしているというのは、一家にとって大問題だった。

しかし、そのような周囲の困惑とはうらはらに、フィンセントは、このハーグで、つかの間の幸せなひとときを持った。ハーグ派の画家たちや、従弟のアントンらと交流し、このときはじめて水彩画の手ほどきを受けている。

だから、画家が亡くなる37歳までの10年間が、現在残っているゴッホのすべての遺作なのである。それがなんと、4000点を超えるというのだから、1日に平均1・56枚の割で、油彩画を365日、毎日毎日、絵を描いていたことになる。恐ろしく激しい画家だったといえる。これらの活動のすべてを支えた弟ティオの努力は、想像を超えている。

ある美術家の調査では、このあいだテレビでもいっていたことだが、このなかに駄作は1点もないという。以下、画家の手紙を転写する。

 

教会へ入ったら最後、人は固まった石と化してしまう。これは驚くにあたらない。ぼくは自分自身の経験で知っている。そこで《問題》のきみの兄は度を失うまいとした。だがそれでも、まるであまりに長いあいだ教会の冷たい、固い白壁に向かって立ち過ぎたときのような、茫然とした気持ちになった。

ぼくはさっきいった現実の、そして架空の教会のために、骨の髄、魂の髄まで悪寒を感じつづけていた。ぼくはそのときに思った。女とともに生活していきたい、愛なしには生きていくことはできない、と。朝、目覚めたとき、一人ぼっちでなく、明け方の薄明かりのなかで傍らに伴侶がいるとすれば、世の中ははるかに楽しいものになる。それは牧師たちの恋人である宗教的日課書や教会の白壁よりずっと楽しいものだ。

フィンセントからクリスティンへの手紙。1881年12月

 

東京都美術館にて

 

「果実」、田中幸光

 

こんな調子で、ことあるごとに、手紙を書いている。批評家の小林秀雄を黙らせるほど、フィンセントは稀有な告白文学の実力者だったといわせている。それに、彼はそうとうな書き魔だったらしい。ゴッホという画家が、文章の達人だったという話は、ずっと以前から知っていた。ゴッホは明らかに天才だったなとおもう。

語学の勉強などした形跡がないのに、必要に迫られて外国語をどんどん覚えていく。それらを抜かりなく、生活の糧にしようというわけだ。

高校生のころ、ゴッホの手紙を読んで、じぶんの書く文章が、いかに魂の入らない空疎なものであるかをおもい知らされた。それでも、ゴッホの手紙を50ページも読むと、息がつまる。毎日毎日、こうして、頼まれもしない絵を描く。それが積もりつもって4000点を超え、彼はとうとう精神を病んで、37歳でみずから命を絶った。

その後、娼婦のクリスティンはどうなったのだろうとおもう。男の子を出産したことは知られている。この絵は、描画作品の傑作として、また、ゴッホが画家になる決心をしてから、そのころのゴッホの絵画技術の頂点として高く評価された。

ゴッホは彼女のことを、「貧困によって堕落し、人生に絶望した女性」として描いたことを手紙に書いている。そうした人間は、救われなければならないという義務感を持っていたようだ。――そんなことを考えながら、帰宅してから、ぼくはゴッホの手紙(岩波文庫)をひろげた。