争の道、和の道

 

ぼくはデンマークのカーレン・ブリクセンが書いた「冬物語」のシーンをおもい出す。コペンハーゲンの北郊のルングステズルンというところに、カーレン・ブリクセンの生まれ育った家があるそうだ。

彼女はアフリカから帰国し、作家としてそこで生涯を送った。

「冬物語」といえば、もちろんシェイクスピアの「冬物語」のほうが知られているが、冬の夜、暖炉で女たちがあつまって語って聞かせるおきど話のことを「冬物語」としたようだが、そこで語られる話はじつに恐ろしいのである。

 

銀座時代のじぶん

 

「冬は悲しいお話じゃなければ……(A sad tale's best for winter.)」と書かれている。

冒頭の「少年水夫の物語」のなかに、バーク帆船シャーロッテ号に乗り込んだ少年の話が出てくる。マルセイユからアテネに向かう情景が描かれ、メインマストの上檣(じょうしょう)帆桁を見上げながら、彼は小鳥たちが帆木につかまって羽をやすめている鳥たちを見つめる。

見ると、鳥たちが帆あげ索のゆるみに足をとられ、なんとかして逃れようと羽をばたばたさせている。

こいつらも、生きることに懸命なのだ。

 

ハヤブサ

 

この世では、だれでも他人をあてにせず、なんでも自力でやっていかねばならない。少年は、それでもこの無言の死闘に一時間以上も見とれている。

ツバメ、ウズラ、ムクドリ、ハヤブサ。……

マストのてっぺんにとまっているのはハヤブサだった。

彼らは嵐のなかでも生きるために殺し合う。身を優位にするために安全なマストにとまる。生きるために殺し合っても、お互いに恨んでいるふうには少しも見えない。

「恨みっこなしだぜ!」といっているようだ。

ぼくはこの物語は、人間のおこす戦争とはちがうなとおもう。戦争には恨みがともなう。

大規模な塹壕戦がくり広げられた第1次世界大戦、そして第2次大戦は、ヨーロッパで相次いだユダヤ人虐殺、スターリンの大粛清、無差別爆撃や原爆に象徴される20世紀最大の戦争は、なによりも「進歩の時代」を加速したという専門家の話に聴き惚れているうちに、いつの間にか戦争を正当化する風潮を鵜呑みにする論調が耳に入る。

それでアメリカは200回以上も戦争し、体面やプライドまで傷だらけになっても、大国の誇りをかろうじて保っていた。いまその世紀を超えて、夏になったら、地球のあちこちから渡ってくるツバクロが、いま姿を消していることに無頓着ではいられない。

ある人はいう。

「ツバメは、初夏の旅人さあ」

今年はどうしたことか、まだツバメの姿が見えないといっている。

「何か、あったのかい?」ときいてみる。

5月10日の愛鳥の日はもう過ぎたが、バードウィークにおもったことはそれだった。ある人はこういった。「渡り鳥は世界を知っているんだ!」と。アリューシャン列島は渡り鳥の道である。

かつての縄文人は、渡り鳥のルートをたどって、渡り鳥を見ながら移動していったにちがいないと。鳥も知っていたに違いない島伝いに行くのがもっとも安全なコースであることを――。戦前まで、千島列島は日本の領土だった。

日本軍は千島列島の北端に海軍基地と飛行場を設け、本土防衛の最前線基地とした。太平洋戦争はハワイの真珠湾攻撃からはじまった。日本の空母艦隊が出撃拠点にしたのは、択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)だった。

日本軍はさらに、アメリカの領土であるアリューシャン列島のキスカ島、アッツ島を占領して守備隊を送り込んだ。アリューシャン列島をすすめばアラスカ本土に到達する。

日本軍は、北太平洋の洋上に弧を描いて連なるアリューシャン列島、千島列島を島伝いにたどる作戦を敷いたのである。近代戦を見てもそうなのだから、縄文人がアメリカ大陸への移動ルートを、ベーリング海ルートを取って移動していった可能性は、かなりの確率であたっているのではないかとおもわれる。

その道は、渡り鳥の道でもある。

しかも現在より、海抜は100メートルから200メートルも低く、ところどころ陸が連なっていただろう。第2次世界大戦では、その道はやがて戦争の道になった。アメリカ大陸で、家の柱にホゾを刻む縄文人の足跡が発見されて四半世紀になろうとしている。

英国人の抱く日本人論の感覚は、いったいどういうものか? ――年配のイギリス人は恐らく同年配の日本人を心底嫌っている。アメリカ人はベイブ・ルースの産んだ国で、アメリカ野球を有名にしたヒーローを生んだ国だった。ヒーローは日本にもやってきた。

そして日米野球を戦って、誇り高き名誉の野球を有名にした。

いっぽう、イギリス人は第2次世界大戦に兵士として戦った元日本兵を嫌っている。それは間違いない。

だが、いまは年老いてしまって、日本人もイギリス人も、わが身はどうすることもできない切歯扼腕の悔しさを滲ませ、額に汗するばかりの年代になった。

イギリスの人びとが抱く対日感情には、終戦から長い春秋時代を経てもトゲ立つものが依然として残った。平成10年に上皇ご夫妻――当時の天皇と皇后ご夫妻――が訪英なさったとき、歓迎パレードの沿道では日の丸の小旗が焼かれ、元捕虜の人びとが馬車列に背を向けて沿道に立ったりした。

その日の公式晩さん会のもようを伝えた記事には、こう書かれた。

上皇さまは、「戦争により人びとの受けた傷を思うとき、深い心の痛みを覚えます」と挨拶された。

エリザベス女王は「英国は、晴れの日(うわべ)だけでなく、本当の友人です」とのべられた。

今日あるのは、先の大戦で砲火を交えた両国の仲を、丹念に縫い合わせてきた皇室と王室の努力の交誼(こうぎ)の賜物である。国家連合「コモンウェルズ(英連邦)」では各国首脳と関係を築く女王の仕事ぶりが両国の「接着剤」とよばれたりした。

わが国にとって、恩も縁も浅からぬ女王の訃報が届いたとき、英国史上最長となる在位70年は、まさに「国民への奉仕」という理想と、現実の差に想い悩んだ日々の長さではなかったかとおもわれる。

訃報が流れたとその日、ロンドンの夕空に2つの大きな虹がかかったという。

昭和45年、――ぼくが28歳のとき、「よど号」乗っ取り事件と三島由紀夫割腹事件があった。ぼくは東京・新宿矢来町にあった㈱リビングデザインセンターに入社し、若手登用試験に合格し、初の取締役に就いていた。大学を出て4年目の夏だった。

久世光彦の「歌が街を照らした時代」という著作を読んでいると、昭和の香りがいっぱいの街々が登場する。

 

花曇りの朝、一人の男が茅葺き門を潜り、苔むした踏み石伝いに、急ぎ足に入ってくる。見覚えのある風貌なので、はて誰だったろうと思案しているうちに、唐桟(とうざん)の袷(あわせ)の上に広袖の半纏(はんてん)を引っ掛けた男の背中に、ちょっとそこらで見かけない凄味のある色気を感じて、、私は思い出した。

(久世光彦「歌が街を照らした時代」)

 

――と書かれている。あの、なかにし礼のだという。「あの」とは、「色気」のことであると書かれている。

もしもそこに自分がいたなら、なかにし礼とはいかないが、そこそこの詩文を書いていたかも知れないのだ、とおもう。そこは銀座。雨のなか、「銀巴里(ぎんパリ)」から、ひょいと小走りにやってきて都電に飛び乗る人がいて、振り向きざまにぼくの肩に触れて、そのとき地面に落ちた譜面に書かれた文字を瞬間、読む。「なかにし礼」と書かれている。

という具合の展開になれば、……

当時日本では、観光目的の渡航が禁止されていたので、気軽に海外へ行くことはできなかった。渡航制限が解禁されたのは、翌年の1962年だった。学生仲間で何人か留学した。

当時、アメリカの情報がほとんどなかった。わずかにラジオのFM放送から流れてくる米軍の「Far East Network 」の情報と、英字新聞だけだった。当時は、ベトナム戦争前期にあたり、英字新聞は軍事用語で埋め尽くされた。

ぼくはアメリカの情報を知りたくてラジオを聴いた。

早口でしゃべる米語を我慢して聴いた。すると、ジャズとか、ポピュラー音楽にまじって「ウエストサイド・ストーリー」の音楽が流れてきた。そして、レナード・バーンスタインの語りの入った音楽、「What is Jazz」が紹介され、さっそくそのレコード版を買い求めた。

それがレナード・バーンスタインの音楽を、はじめて聴いた瞬間だった。先輩にjazz狂いがひとりいて、Jazzの話を朝から晩まで聴いた。植草甚一の本、野村あらゑびす(作家・野村胡堂)の「楽聖物語」(角川文庫)などを読んだ。それでも音楽のことはちっとも分からなかった。

 聴くにかぎる。――そう思って、銀座通りの2丁目にあった音楽喫茶「えちゅーど」へ毎日のように通った。そう、ほとんど毎日だった。

おなじ2丁目にある銀座通りに面した音楽喫茶「ラ・ボエーム」へも通った。ここは偶然なことに、学割がきいた。コーヒー1杯が60円のところ30円で飲ませてくれた。ときどきピアノの生演奏が聴ける。それ以来、ピアノ曲が大好きになった。

朝日がのぼると、ビルの麓(ふもと)のあちこちに強い影ができ、遠くから見ると、外濠川(そとぼりがわ)に沿った水にうかぶ船のような建物に見えた。なかでも有楽町の朝日新聞社の社屋はモダーンな建物の姿をしていた。

昭和40年代まで、有楽町には、朝日、毎日、読売の三大新聞社があったため、ロンドンの新聞街にあやかって「日本のフリート・ストリートFleet Street」などと呼ばれたりした。

そこはまさに、シティ・オブ・ロンドンの主要な道路のひとつに見えた。

その読売新聞の朝刊婦人欄に、毎週コラムを書くことになるなんて、考えてもいなかったし、朝日新聞の日曜版に毎週コラムを書くことになることも夢想もしていなかった。

それが大学を出て数年後に実現した。

朝日新聞社から住宅情報雑誌が発刊されると、㈱リビングデザインセンターを代表してさっそくじぶんも加わったりした。住宅雑誌数本、ファッション誌「男子専科」「メンズクラブ」にレコードの紹介記事などを書かせてもらった。たぶん、そのころ将来、男子の服飾評論家となる出石尚三さんとのおつき合いで実現したのではないかとおもわれる。

出石尚三さんとは、彼がデビューする前にすでにふたりは付き合っていたのだった。ぼくは、出石尚三さんと知り合う前に、彼の師匠であるファッションの大家・小林秀雄先生をすでに見知っていた。

60年代に入って、ファッション界はアメリカのアイビーへとシフトした。その象徴となるのが、1965年に発刊された「TAKE IVY」という写真集だった。アメリカの東海岸の8校からなる名門私立大学を総称したアイビーリーグ校、アイビーリーガーのファッションは人気が出てきた。

ぼくはそのころ、石津健介さんとよく会っていた。明治大学の先輩にあたる方だった。そのころだった。アイビーリーガーの大学といえば、なんといっても慶應義塾大学だったなとおもう。

ぼくはいつも、銀座から自転車で晴海通りを突っ走り、三田の慶應義塾大学のキャンパスに出かけていった。そこにピアノの名手がいた。

あの軽やかな慶応ボーイ、ヨット部の主将にして、戦後のジャズ界の最先端をゆくモダン派の巨匠だったし、昭和の天才ジャズピアニストは、31歳の若さで、目黒駅のホームから身を投げて自殺した。

何があったのだろうとおもう。

その名のとおり、守安祥太郎は「風のように走りぬけて行った」音楽家だった。ぼくは、その伝説の男のことをずっと知らずにいた。新宿のピットインで仲間から守安祥太郎の話を聴くまでは。ぼくは彼と会ったことはなかった。

中村八大が守安祥太郎にかわって、コンサートピアノのイントロを引き受けていた。ぼくはかつて、明大マンドリン倶楽部に所属し、中村八大の軽やかなピアノ演奏に聞き惚れていた。

中村八大といえば、坂本九の「上を向いて歩こう」だろう。石原慎太郎の「太陽の季節」も戦後の時代を塗り替えた出来事だったなとおもう。

ぼくは学生のころからクラシック音楽が格別好きだった。

レコードを聴いてその記事を書くと、原稿料のほかに、LP判のレコードをいただけるのだ。それが欲しくて書いた。ぼくは27歳くらいから毎週、音楽漬けになっていた。なかでもピアノ音楽が大好きだった。

ぼくが朝日新聞社のちょっと奥まったところに建つ別館に足を踏み入れたのは、昭和37年の2月半ばだった。その外濠川(そとぼりがわ)はすでに埋め立てられ、「君の名は」で知られる数寄屋橋ももうなかった。

目の前にあったのは日劇だった。

「これが日劇かあ」とおもった。

有楽町と朝日新聞社のあいだには、戦後のマーケットのような商店街がにぎわっていて、そこは学生らにも楽しいところだった。なぜなら、ベトナム戦争の前期だったため、そこに米海兵隊員も大勢やってきて、まさにロンドンのような街角に見えた。

近くのジュークボックスが鳴りはじめると、若者たちがあつまってきて路上で踊りはじめた。日本人の女の子らも踊っていた。背の高いセーラー服を着た黒人兵らも、彼女たちの腰に長い腕をまわして、音楽に合わせてスイングしていた。

彼らのしゃべることばは、聞いたこともない米語だった。

有楽町界隈(かいわい)には、映画館があり、デパートがあり、三大新聞があったころの駅前には、「すし横丁」という飲食店街ができていた。

その「すし横丁」が解体されて建てられたのが、交通会館だった。

じぶんがはじめて有楽町に足を踏み入れたのは、まさに交通会館が建築中のころだった。ビヤ・レストラン「レバンテ」――レバンテ (Levante 風) というのは、地中海西部に吹きつける東風のことで、それも移転してしまった。

三大新聞も、やがて有楽町から姿を消し、毎日は竹橋へ、読売は大手町へ移転し、朝日だけまだ有楽町の一角を占めていた。有楽町駅の高架下、そこは「焼鳥横丁」と呼ばれ、赤ちょうちんが並んでいた。夜になると、そこは学生らも姿をあらわす。

激変する東京の街だが、有楽町のあたりはむかしから少しも変った印象がない。いまもって、その姿をとどめている。いまでもぼくの足は、しぜんと交通会館のほうに足が向いてしまう。絵画のギャラリーが多いのも楽しいし、物産館が多いのもうれしい。

ヨーコに「馬油」をよく頼まれる。有楽町と馬油。――まあ、わが家ではそう呼んでいた。